【福荒】禁断の果実は甘い

◆◆ caption ◆◆
高校3年の福荒です。【R-18】
風邪をひいて高熱に浮かされる荒北さん。お見舞いに来た福ちゃんを幻覚だと思い込み…。

・R-18ですが、挿入はありません。
 福ちゃんが荒北さんの処理を手伝っているだけです。

 
 ピピッと軽い電子音がして、その音で目が覚めた。
 のろのろと動きの鈍い手を服の中に入れ、脇をまさぐって体温計を取り出す。目の前にかざしてみると液晶画面に表示されていた数字は『39.3』。10分前には38℃前後だったような気がしたが、朦朧とした意識の中ではすでに覚えてなどいなかった。
『39℃を越えたら呼びなさいね』
 寮監にそう言われていたのだが、この体調でどうやって報せるというのだろう。とりあえずかざし続ける腕も辛く、体温計をポトリと枕元へ落とした。
 カーテンの隙間から見えた空は夕闇に包まれていて、この時期の箱根は17時前には日が沈んでしまう。窓際から下りてくる冷気を肌に感じた荒北は、今年の初雪は珍しく年末に降るかもしれないと誰かが言っていたのを思い出した。
 喉の渇きを覚えて水分を探したが、ペットボトルを置いた机までのわずかな距離がやけに遠い。
「アー……水、飲みてェ……」
 そう呟く声もガラガラに枯れていて、まるで他人の声のようだ。マスク越しの呼吸が息苦しくてどうせ他に誰もいないし、と喉元へマスクをずり下げた。
 窓ガラスを揺らす風の音だけが部屋に響く。寮がこんなにも静かなのは実家への帰省が始まった年末だから、というだけではない。いつもは鬱陶しいと思うチームメイト達がいないせいだった。居たらいたで煩わしいのに、体調の悪いこんな日には妙に寂しく感じてしまう。大げさかもしれないが、この世界にたった一人で置き去りにされてしまった気分だった。

 年内の部活動もすでに終了した日曜日。本来ならば荒北も皆と一緒に出かけているはずだった。
 荒北が高校生活を過ごしている箱根学園の生徒寮は、年末年始の休暇に合わせてその間だけ閉館する。年始の登校日まではそれぞれの実家で過ごさなければならず、帰省の前に皆で遊ぼうと忘年会を兼ねた「自転車競技部 対抗ボウリング大会」が東堂発案で企画されていた。
 オールラウンダー、スプリンター、クライマーのおおまかな3つに分けたチーム戦だった。4ゲーム行い、その合計点数で優勝チームを決める。福富と東堂が部長•副部長となってから、この大会が開催されるのはこれで3度目になる。名門と呼ばれる箱根学園の自転車競技部は、その部員数が並の高校の比ではない。こんな機会でもなければ部員同士の交流もなかなかできず、まして学年が違えば言葉を交わしたことがない者もいた。それを緩和させるために考えた、お節介で世話好きな東堂らしい企画だった。
 前回、全力のストレート投法で240という奇跡のスコアを叩きだした荒北は、受験勉強の息抜きも兼ねてこの日を密かに楽しみにしていた。チーム・オールラウンダーで必ず優勝を獲り、優勝の景品であるファミレスのデザート券をチームリーダーである福富に捧げるべく燃えていたのだ。
 だが、数日前から続く背中の痛みが怪しかった。何度も経験してきた風邪の前触れを匂わせ、予想通りに今朝になって熱が出た。不運にも今日は休日診療の病院が遠く、校医との連絡もつかない。とりあえず様子を見ることになり、大人しくベッドに横になったまま一日が終わろうとしている。
 申し訳なさそうに出かける仲間達をベッドの上から見送ったのはもう6時間以上も前だ。今頃は勝敗も決してファミレスで夕飯でも食べている頃だろう。
 荒北は朝から何も食べていないが、空腹は全く感じなかった。むしろ一人っきりの寂しさが食欲に勝り、こんなときは無性に実家に帰りたくなる。実家に帰れば口の達者な妹2人と何かと口喧嘩になるのが常だったが、今はそれでさえも恋しく、誰かにそばにいてほしいと思う切なさが募る。
「あー……渇いて、死ぬ……」
 喉の渇きに我慢ができず、鉛のように重い身体を気合で起こす。だが、ベッドについた手は体重を支えきれずに震えておぼつかない。
 机上に腕を伸ばしてボトルを掴もうとした瞬間、うまく掴めず床に落ちた。掴み損ねたペットボトルはチャプチャプと水音を立ててさらに遠ざかり、チッと舌打ちした荒北は文字通り這うようにベッドを降りて追った。
 こんな状態でなければたった3歩で手が届くのに、今はこんなにもままならない。じりじりと床を這い、指がペットボトルのくびれにかかったとき、荒北はそこで力尽きた。視界の上から黒い物が降りてきて視界を覆っていく。瞼が下りきる前に何かが見えた気がしたが、そのまま床に這った状態で意識を失った。
 
*
 額に何かが触れて身震いし、弾かれたように目を開けた。
 ベッドサイドの灯りのせいで一瞬目が眩んだが、光に慣れてくると目の前には見慣れた天井が見えた。床に這った記憶はあったが、ベッドに戻った覚えがない。いや、そもそも床に降りたのも現実かどうかがわからなかった。
 視界は白く霞み、部屋中にシャボン玉が浮いている。吹いて遊ぶ透明なシャボン玉ではなく、太陽に照らされて虹色の油分がギラギラと輝くときの、ネオンに似たシャボン玉だった。
 荒北は小さな頃から風邪をひく機会が多く、高熱がでたときにはこのような幻覚をよくめにしていた。この幻覚が見えるということは、どうやら40℃も近いのだろう。どこからどこまでが現実なのかが曖昧でこれは本格的にやべぇなと天井を仰いだ。
「起こしたか」
 頭上で声がして、額の冷たさに意識が向いた。ひんやりした冷却シートと身体の温度差で頬に粟粒がたつ。「大丈夫か」と頬に手のひらが触れて、うつろな目で手の主を見上げた。
「なっ……! え?」
 そこにいたのは出かけているはずの福富寿一だった。彼の姿に驚いて思わず起き上がろうとしたがうまく身体が動かない。
「起きなくていい。そのまま寝てろ。水分は摂ってるか?」
 問いかけに首を横に振ると、火照る頬に冷やされたスポーツ飲料のボトルを押し当てられた。「飲むか?」という声に頷いて受け取ろうと手を伸ばしたが、距離感が掴めず指が空を切る。その様子を見兼ねたのか福富は荒北を抱き起こすと、乾いた唇にボトルの飲み口をあてがった。傾けられたボトルからゆっくりとひとくち分が注がれて、よく冷やされた水分が口を潤して喉に染み込んでいく。
「やべェ……生き返る……」
 そうか、と応えた福富は再びボトルを傾けて荒北の口にドリンクを含ませた。
「ずいぶん熱いな」
 熱を確かめるように首筋に触れた手が耳たぶをかすめる。何の気もないのだろうが、その仕草にぞくりと鳥肌がたった。
「うつっからさァ、そこ、いないほうがいいって……」
 上手く出せない掠れ声がもどかしい。聞き取ってもらえたか不安だったが、もしかしたらうまく言えていなかったのかもしれない。福富は隣りに座ったまま動かなかった。
「……なぁ、なんでいんのォ? ボーリングは?」
 終わった、と短く応え「先に抜けてきた。皆はまだ帰らない」とまっすぐに荒北を見つめる。そしてまた短く「寝ていろ」と告げた。
(寝てろったって……)
「……ガン見されてちゃ寝れねーんだけど」
「なら、寝るまでここにいる」
「はぁ!? 本気かヨ……風邪うつるっつーの」
「問題ない。オレは強い」
「あー……そ」
 震える手で毛布を口元まで引き上げた。とりあえず目を閉じてみたが、横が気になってこのまま眠ることなどできそうにもない。
 彼が座る左側に身体の全神経が集中していた。呼吸による微かな空気の揺れですら敏感に肌が拾ってしまう。チラリと開けた片目が自分を見下ろしている視線とかち合い、心臓が跳ねた。
「……やっぱ見られてっと寝れねェわ」
 前髪をくしゃりと掻きむしり、その手で視線を遮るように目を覆う。すると「そうか」と呟いた福富が立ち上がる気配がした。数秒後にドアを開ける音がして、やや軋んだ音を立てながら扉が閉まる。廊下を歩く足音が遠ざかると、室内はまた静寂に包まれた。最初から自分以外は誰もいなかったかのような、静かな夕暮れだった。先ほどの出来事は現実なのか、それとも、高熱による幻覚なのか。それを考えようにも朦朧とする頭は働くことを拒否し、荒北は額に手を乗せたままで目を閉じた。
 
**
 ほのかに甘い匂いがしていた。
 ケーキやチョコレートのような人工的な香りではなく、みずみずしい果物の匂い。花の蜜に似た、嗅ぎ慣れた匂いだった。
(これってリンゴの……)
 薄目を開けて匂いのする方に顔を傾けた。ちょうど横に腰を下すタイミングだったのか、福富の動きに合わせて香りが強く鼻をつく。
「リンゴだ。食べるか」
「……リンゴォ?」
「眠れないのだろう。なら、食べたらいい」
「そういうことじゃねェんだけど……」
「リンゴはうまいし、水分も摂れる」
 福富が手に持った皿にはきれいに皮を剥かれたリンゴが乗っていた。フォークをつまんだ福富がそのうちのひとつにプスッと刺して荒北の口に寄せる。ひとくちサイズにしてくれたのは食べやすいようにとの気遣いなのだろう。
 正直なところ食欲はまったくなかったが、荒北は匂いにつられて口を開けた。かじろうと前歯を当てたがうまく力が入らずにポロリと襟元へこぼれ落ちる。
「……口も開かねぇし噛む力もねェ。ワリィな福ちゃん……せっかく持って来てくれたのによォ」
「いや、まだ大きかったか」
 落ちた欠片を拾いつつ「すまない」と呟く顔に、「いいって」と笑ってみせながらふと実家の母親を思い出した。
 まだ実家にいた頃、高熱を出した日はすりおろしリンゴをよく食べさせられた。すりおろすことで消化がしやすくなるし、水分が取れるうえに甘味で満足感もある。食欲がなくてもリンゴのすりおろしだけは口にできたし、風邪を引いたときに食べるリンゴは格別に甘くておいしかった覚えがある。
「すりおろしが食いてェ……」
 その言葉に反応した福富が「すりおろし」と呟いて差し出したフォークを引っ込めた。
「家で熱だしたときにサァ、よく食べてたんだよネ。母ちゃんがおろしてくれんの」
 なるほど、と頷いた福富が「もう少し小さければいいんだな」とリンゴを摘まむと、それに歯を当てた。前歯で小さくかじり取り、何を思ったのか真顔で荒北に顔を寄せる。
「え? え!?」
 近づく顔に反射的に目を閉じた。肩を掴まれて身じろぐこともできず、そのまま唇が重なる。ふに、と柔らかい物が唇に触れて、次いでリンゴが舌に押されて入ってきた。
「んっ……んんっ!?」
 噛むことも忘れて欠片のままゴクリと飲み下す。かたまりのまま飲み下したせいで喉がひりついて痛かったが、動揺がその痛みもすぐに忘れさせた。
 唖然としながら福富をまじまじと見つめても、「食べられたか」と訊く顔はいつもと何も変わらない。平然とした態度の福富と見ていると自分ばかりが意識しているようでバカバカしくなった。きっと今の行動は彼にとって特に意味はなく、親鳥が雛に餌をあげることと同じなのかもしれない。それにこれは高熱が見せている幻覚なのかもしれないと、荒北はそう考え始めていた。自分の願望が福富という形になって彼にこんなことをさせている、そう思わなければ何もかもが不自然だった。
(ごめんなァ……こんなことさせちまって)
 目の前の幻覚が「この方法は間違っていないようだな」とひとりごちて、またリンゴを口に含んだ。荒北が息を詰めてじっと見つめる中、微かな音を立ててリンゴが削られ、そしてそれを含んだ唇が近づいてくる。
 ひとくちで食べ終わる大きさを何度も小分けにして時間をかけて与えられた。高熱のせいでもとから理性は働かず、理解を越えたこの状況下でされるがままに身を任せた。
 福富の肩にぎゅっとしがみつき、差し出されるリンゴをひたすら受け止める。最初は受け身だったが我慢ができず、近づく唇に噛みついて自分から舌を這わせた。拒まれるかと思ったが特に変化もなくまたリンゴが差し出される。
「ん……ふっ、んんっ、はっ……あめぇ」
 行為に没頭するあまり呼吸も忘れていたのか、息苦しさに胸が詰まって咳込んだ。掴んでいた手を離し、ベッドに沈み込んで肩で息をする。早鐘のように鳴り続ける自分の鼓動が煩くて、その音が福富に聞こえてしまいそうで怖かった。だが、福富は何も気にならないのか「汗がすごいな」とタオルを手にし、荒北の気持ちも知らずに淡々と顔の汗を拭いていく。顔から始まって首まわりをぬぐい、スエットの裾を捲って胸元に手を伸ばした。
「もっ、もーいいってェ!」  
 服の中に潜り込んでくる手首を慌てて掴む。だが、福富は平然とした顔で
「汗をかくのはいいことだが拭かないと意味がない。冷えたら身体に障る」
と言うと、荒北の手をほどいて再びスエットに手をかけた。抵抗しても力が敵わず、強引にスエットを脱がされ、その下に着ていた汗を吸ったTシャツも脱がされる。胸板の上をタオルがこするたびに寒気とは違うぞくぞくとしたものが身体を揺さぶった。
 さらに福富は「熱を下げるためには首や脇、足のつけ根を冷やすといいらしい」と言って冷却シートを箱から取り出すと、荒北のスエットパンツのウエスト部分に手を伸ばした。
「それはっ……! ちょっと待っ……!」
 さすがに下半身までは拭かないだろうと油断していたが容赦なく一気に下ろされて、あっさりと黒いボクサーパンツが露わになる。せめてここだけは、と福富の目に触れないように股間に手を当てて身体を捻った。慌てて隠した部分は先ほどの行為によって硬く芯を持ち始めている。熱を出したときにこのような状態になるのは今までなかったことで、自分でも身体の変化に戸惑っていた。
 目を閉じて視覚を遮断する。別の何かを考えて気を紛らわせようとしたが、反対に強く意識してしまってどうにもならない。
「どうした荒北」
 荒北を振り返らせようとして肩を掴む手にすら身体が反応してしまう。
「もォいいからァ。もう寝るから、もういいから……」
 情けないほど声が震えたが、それでもどうしようもなかった。
 きつく腿を閉じて膨らんだ性器を隠す。こんな状態を見られてしまったら今後の関係は確実に変わってしまうだろう。拒絶か嫌悪か、それとも福富は見なかったことにしてくれるのか。どちらにしてもこの状況は荒北にとってサイアクだった。気づかれる前に部屋を出て行ってもらいたいのに一向にその気配はなく、それどころか「まだ拭き終わってないぞ」と仰向けにされてしまった。
「もういいってェ! あとは自分で拭けっから!」
 露わになった肌を隠すように背中を丸めて全身で拒否する。こんな格好なのに羞恥心と熱のせいなのか寒さはまったく感じなかった。
「福ちゃん、オレ……風邪ひいてんだけど……」
 だから服返して、と伝えてみたが「だから拭くんだろう」と一蹴されてしまった。
「男同士で何を隠す」
「なにって……ちょ、おいっ!」
 熱に侵された身体に抵抗する力は残っていない。気持ちとは裏腹に弱った体は素直にいう事を聞き、すべてが福富の前に晒された。せめて、と顔を両手で覆ったがそうしなくても福富を見ることなどできなかった。
 先ほどの続きをするように胸元から腹部へタオルが移り、徐々に下半身へと下がる。さすがに下着が脱がされることはなかったが、内腿を拭かれたときに膨らんでいる性器がピクリと揺れた。
「荒北」
 福富の低い声が部屋に響く。
「な、ナニ……」
 目を覆う指の隙間から顔を伺う。福富の視線が落ちる先はもちろん下着を押し上げている膨らみだった。
「キツイだろう? どうする」
「……え?」
 どうするの意図がわからなくてそれ以上応えようがなく、無言のままでいると「手伝うか?」と内腿に這わされた手でようやく福富の言葉を理解した。「はあァ!?」と叫んで慌てて前を押さえる。
「いや、男同士だ。恥ずかしいことはないだろう」        
「え……ハァ!? ふ、福チャン、ナニ言ってんのォ!?」      
 嘘だろ、と焦る荒北をよそに性器を押さえている荒北の手に福富の手が重なった。そして荒北の手のひらごと勃起した性器を握ってみせる。
「えっ、ふくちゃ……マジでェ!?」
 卒倒してしまいそうなほどの恥ずかしさで視界が滲む。その潤んだ目をまっすぐに見据えながら福富は「ああ」と短く応えた。
(ああ、そっか。これ、オレの願望だったナ……)   
 ゴクリと唾を飲む音が室内に大きく響いた。
「い、いいの……?」
 おそるおそる問いかけると、福富は答える代わりに下着のウエスト部分に指をかけた。下着を脱がせようとする指が思いがけず骨盤をなぞり、荒北の喉奥から高い声が漏れた。熱のせいなのか皮膚が敏感に反応し、少し撫でられただけで甘い刺激が身体を舐める。
 ゆっくりと下着が下ろされていくのをただただ息をひそめてじっと眺めていた。ぼんやりした視界の中で下着から勢いよく陰茎が顔をだし、福富の手がその膨らみを握る。
「あ……や、やっぱ……」
 いい、と言おうとしたが先に手を上下に動かされてしまい、その刺激が荒北に言葉を失わせた。性器を起点にして身体の隅々まで刺激が流れ、背中を反らせて喘ぐ。だがその声にハッとした荒北は頭を両手で抱えながら思わずシーツにつっぷした。
「はっ……あ、あ……ふくちゃ……」
 視界を塞いでも腰から全身に広がる熱いうねりで声が漏れた。唇を噛みしめても代わりに呼吸となって絶えず漏れ、それを隠すように自らの腕を噛む。
 ぐちゃぐちゃと先走りの粘る音に耳を犯されて、荒北は目を閉じたことを後悔した。見えない状態が余計に気持ちを煽る。だが、自分がどんな顔で福富を見るのかがわからず、怖くて目を開けることはできなかった。

 手で握られてから5分ともたなかっただろう。
 好き、と言ってしまいそうな気持ちをなんとかこらえつつ、呆気なく荒北は吐精した。ふわふわと浮くシャボン玉の中で天井に向かって落ちていく、そんな気分だった。
 射精の疲労感かそれともさらに熱があがったのか、視界に白い靄がかかる。落ちていく意識の中で最後に見たのはわずかに綻んだ唇だった。
(信じらんねェ……)
 荒北もまた小さく微笑して意識を手放した。
 
***
 廊下を行きかう生徒たちの喧騒で目が覚めた。
 身体を起こして腕を上げ、大きく伸びをする。関節にまだ小さな痛みが残っていたが、熱は引いたのか頭はずいぶんスッキリしていた。
 枕元の時計は午前7時を示している。朝飯の時間だな、と意識した途端に猛烈な空腹感に襲われた。昨日は一日中ロクに食事を摂っていないので、一刻も早く胃に何かを納めたかった。
 熱もなさそうだったので寮監への報告も兼ねて食堂へ向かうことにした。念のためにマスクを身に着け、スエットの上からパーカーを羽織る。階段を降りて食堂へ足を踏み入れるとすでに見知った顔が席に座っていた。
「荒北!」
 東堂がヒラヒラと手を振る。「荒北君はこれね」と渡されたお粥のトレイを持って東堂のいるテーブルに向かった
「荒北、もう大丈夫なのか?」
「あぁ、なんとか」
 返事もそこそこにお粥をスプーンで掬い上げ、息を吹きかけつつ慎重に口に含む。お粥のちょうどいい塩加減と温かさが身体に溶けて染みていくようだった。勢いのままに手を動かし、あっという間に半分程平らげたところでようやく息をついた。
「その食欲ならもう大丈夫そうだな」
「おー。今朝起きたらなんか調子良くてよォ。もう治ったかもネ」
 歯を見せて笑う荒北の後ろから「おはよう」とやってきたのは新開だった。トレイを手に持ちながら荒北のはす向かいに腰を下ろす。
「靖友、昨日は来れなくて残念だったな。おめさんのぶん投げ投法、また見たかったよ」
「ぶん投げって、お前ナァ」
 新開に苦笑しながらも福富が姿を見せないことに気がついた。いつもなら新開の横、荒北の前の席で食事を摂っているはずなのに、その席は空いたままで、食堂内にもあの目立つ金髪が見当たらない。
「なぁ、福ちゃんはァ?」
「フクなら部屋だ。熱がでて寝ている」
「熱ゥ!?」
「おめさんのがうつったんじゃないのか?」
「ハァ? 何でオレのォ?」
 荒北の問いかけに眉をひそめた東堂がため息をつく。
「昨日フクがお前を看病していただろう? それでうつったんじゃないか?」
「え? 看病って……」
「靖友の部屋に行かなかったか? 昨日寿一がな、おめさんが心配だからってボウリングが終わってから先に抜けて帰ったんだけど」
「え……あれって……」
(オレの妄想じゃねーのォ!?)
 思わぬ事実に荒北は口を開けたまま動けなくなった。
「見舞いには何を持っていけばいいかって寿一に訊かれたから、自分が貰って嬉しい物でいいんじゃねぇかって答えたんだよ。だから、てっきりおめさんを見舞いに行くんだなって思ったんだけど。でも行かなかったのかな」
「いや……昨日の夜、荒北の部屋から出てくるフクに会ったぞ?」
「なんだ、やっぱり行ってたのか。靖友が寝てて覚えてねぇだけとか? 部屋に何か置いてなかったか?」
(置いてっていうか、もしかしてアレのことか?)
「そーいやリンゴ食わされた……」
「林檎か! フクらしいな」
 綺麗に剥かれたリンゴを思い出した。それと同時に、触れあった唇の感触や熱い呼吸、自らの痴態が頭の中に浮かんでくる。目がくらむような感覚に思わずスプーンが指を離れた。
「どうしたのだ? 荒北」
「いや、熱で……熱で夢でも見たかと思って……」
 その先の言葉が出てこず、口元を手のひらで覆った。昨晩の出来事はすべて熱に浮かされて見た幻覚だと思っていた。だが、福富は確かに荒北の部屋を訪ねたという。熱のせいとはいえとんでもないことをしてしまった。冷や汗が脇の下を伝い、喉元から「やべぇ」と小さく声が出る。
(だって、あんなことフツーはしねェだろ!?)
「なぁ、チャリっ! チャリ貸せっ!」
 勢いよく立ち上がった荒北は驚いて目を見張るチームメイトに詰め寄った。自分のビアンキは帰省の準備ですでに輪行袋の中にいる。今はそれを組み立てている暇はない。
「いや……オレはもうバラしてしまっているな。お前はどうだ、新開」
「オレもだ。すまねぇ」
 ふたりが悪いわけではないが反射的に舌打がでる。
「じゃぁ、リンゴ! リンゴってコンビニにあんのォ!?」
「たぶん……」
 東堂と新開の声を背中に聞きながら、荒北は食堂の出口へ向かって走り出していた。途中で何人かの生徒にぶつかったが「ワリィ!」と謝るのが精いっぱいで振り返ることもできなかった。
 いったん自室に戻って財布を鷲掴みにする。上着を羽織るのも忘れて、もつれる足で外に出るとコンビニ目指して走り始めた。
 病み上がりの身体にダッシュはキツく、吹きつける風は身を刺すような向かい風。それでも今の荒北には心地いい。
 
 走りながら福富のことを考えていた。
 最初の印象は最悪だった。
 エリート一家に生まれてまっすぐその道を歩む彼と、怪我というアクシデントでエース街道を転げ落ちた自分。自転車と原付での勝負に負けてから改めて福富の人となりを知り、同じ学年でもここまで違うのかと強い劣等感を抱いた。それからは何とかして見返してやろうとそればかり考えた。
 毎日言われるままにペダルを回し続ける日々。変わらぬ毎日に憤りを覚え、福富の超然とした態度も気に食わなくて「鉄仮面」だなんて突っかかっていたこともある。
 荒北の求める答えを問いかけても「乗っていればわかる」とそれしか言わず、表情をピクリとも変わらない福富は食えない男だった。
 だが高校2年のインターハイ後に福富は変わった。総北高校の選手との間に何かがあったという。直接本人に聞いたわけではないが、先輩たちの話が耳に入って荒北は大体の事情を知った。
 福富は笑わなくなった。
 元々感情を表に出さない人間だったが、常に福富のそばで指示に従い、反発しながらもその姿を見てきた荒北には彼の変化はすぐにわかった。
 それからは荒北以上に自転車に乗り続ける姿をよく見かけるようになった。主将になっても奢ることもなく、自らを罰するようにひたすら練習に打ち込む。エリート人生から一転し、挫折と弱さを味わっただろう福富の痛みは充分過ぎるほど共感できた。
 もしかしたら同情だったかもしれない。
 それまでは福富をどこか人間離れしていてよくわからないヤツだと思っていた。だが、彼もやっぱり同じ人間なのだと知ったとき、福富に向けていた負の感情は少しずつだが荒北の中から消えていった。
 福富のアシストによってレースで優勝を飾り、以降、彼と組んだレースでは誰にも負けなかった。腐っていた自分を高校3年のインターハイという最高の舞台に引き上げてくれたのも福富のおかげでしかない。
 目標として、男として、人間として。その憧れはいつの間にか恋心へと変化していた。だがこれは伝えていけない気持ちであることも充分自覚していた。自転車競技の選手としてこの先の明るい未来に進むだろう彼の邪魔にはなりたくなかった。だから荒北が福富をどのように想っているのか、彼が知るはずもない。それなのに……。
 昨夜のアレは少しは期待してもいいということなのだろうか……。

 喉を痛みが焦がし、肺が、心臓が、全身が潰れてしまいそうだった。
 コンビニの看板が見えたとき荒北の口元に自嘲気味な笑みが浮かんだ。走るなんてキツいことは昔から大嫌いだったはずなのに、それでもこうして彼のために走っている。
 渇いた口にはリンゴの甘酸っぱさが恋しくて、理性を溶かすほどに甘いあの実は確かに禁断の果実なのかもしれないと走りながらそう思った。そしてそんなガラにもないことを考えている自分がおかしくて「頭沸いてんだろ」と、顔をクシャクシャにして笑った。
 
***END***

-今後更新予定のないもの
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