【新荒】 彼と彼 【社会人編1】

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社会人の新荒です。
・それぞれがロードレーサーとしての道を歩き始めたアラサー新荒のお話。
・キスと、行為を匂わせる薄めの描写があります。
・『彼と彼シリーズ』の4作目。

 
 シャワールームから出てきた荒北は、自分のロッカーを開けると一番先に携帯電話を確認した。だがホーム画面はデジタル時計が時刻を表示しているだけでなんの変わりもない。4月1日、金曜日、午後21時すぎ。明日は自分の誕生日だというのに社会人にもなればもうその意識もなく、そういや明日は誕生日だったと思っただけで、だがそれもすぐに消えた。
「お疲れーっ」
「うっす」
 自主練を終えたチームメイトたちが続々とシャワールームに消えていく。
 新年度の初日である今日、チーム練習は休みのはずだった。だが、いつもの習慣が抜けないのか気がつけば全員が集まっていて、それぞれの練習メニューをこなしていた。来月末に行われるロードレースには何組かの海外チームの参加が決まっている。日本のプロチームや実業団はもちろん、海外のチームに勝利すればそのメリットはとてつもなく大きい。だからこそチームメイト全員がこうして奮起しているのだろう。
 帰り支度を終えた荒北はいつものスエットではなく、再びスーツに身を包んでいた。ジャケットに袖を通す荒北に「お前、スーツのままなんて珍しいな」と同期がにやけながら声をかけた。
「なに、どっか行くのか? ああ、今日は金曜だしなぁ。もしかして?」
「バーカ、ちげぇよ。ジャージ忘れちまったんだヨ」
「なんだ。てっきりデートかと思ったぜ」
「ハッ! まさか。んじゃ、お先ィ」
 デートという単語のせいで荒北の頭の中にはあの男の顔が浮かんだが、室内練習場を出る頃には晩飯をどうするかといったものに変わっていた。
 大学卒業後に荒北が就職した先は自転車の部品を扱う大手メーカーだった。設計技術課に所属して定時時間内はそこで業務を、定時後は自転車チームの選手として二足の草鞋を履く日々が続いている。
 大学を卒業しても自転車に乗りたい。
 漠然とだったが荒北が将来の進路を決めたとき、誰もが驚く中で一番驚いていたのは荒北自身だった。まさかここまで自転車というものに夢中になるとは思いもしなかったからだ。
 自転車という自分の世界を大きく変えてくれた存在にまだ関わっていたかった。そう思うようになったのは荒北が生まれ持った勝気な性格があのスピード勝負の世界観に向いていたのかもしれない。それに加えて、前を見ろと道を示されたあの言葉と諦めないという強い信念を見せ続けてくれたチームメイトの存在、そして常にライバルとして先を行く恋人の存在が大きかったのだと思う。
『お先に』
 そう言って柔らかく笑った彼は今は遠い海の向こうだ。
 
*
 コンビニに立ち寄って生姜焼き弁当と缶ビール1本、悩んだあげくに手に取ったサラダを買い、ビニール袋をぶらぶらさせながら歩いた。
 練習の疲労で身体が重い。この1週間は少し無理をしすぎたと思ったが、今はただもっと走りたくて仕方がなかった。身体がついていかないような練習はただの無駄だ。怪我をすれば元も子もないとわかっているのにそれでも身体が自転車を、あのスピードを求めてしまう。
(焦ってるな……)
 負けたくない、追いつきたいと思うこの気持ちは生まれて初めて出場したあのクリテリウムに似ていた。質問があれば追いついて来いと言われたあの日のレース。必死にペダルを廻して、がむしゃらに走って、追いついたはずが結局リタイアになった。
 先を走る福富と新開の背中は今でもまだハッキリと思い出せるし、初めてのあのレースはそれほどまでに自分にとって衝撃的で悔しい記憶だった。

「あー、乗りてぇ。走りてぇ……」 
 そう呟きながら床に寝転んだ荒北は、疲労のせいか缶ビールを半分ほど飲んだ時点ですでに酔っぱらっていた。指先までふわふわとした感覚に包まれて、自分が軽く回っているような気さえしている。
 テーブルの上に置いていた携帯電話を手探りで掴み、画面を覗いてみたがやはり何もなく、デジタル時計が23時を表示していた。時差があるとはいえ、向こうはすでに昼を過ぎているはずだ。
「んだよ……」
 携帯電話をポイと放り投げ、あーっと言いながら前髪をかく。置いていかれたという感覚を自分がこんなにも引きずっているとは思いもしなかった。
 現在、新開はオランダの自転車チームに所属している。そして荒北は決して置いて行かれたわけではない。新開が先にプロデビューをして、先に海外で挑戦するチャンスを得たというただそれだけだった。そこに至るまでは簡単な道のりだったわけじゃないし、どれだけの練習と悔しさを重ねてきたのかは彼の隣りにいたからこそよくわかっている。
 追いついたつもりがまた先に行ってしまう。恋人として応援したい気持ちと、同じ選手だからこその嫉妬。最近は嫉妬に駆られるほうが多くなり、だから荒北は走りたかった。何も考えずに頭の中をからっぽにして風とスピードに身を浸してしまいたい。溜まったフラストレーションはひたすら練習に打ち込むことでしか発散できずにいた。
「オレも早く向こうで走りてぇのに」
 プロ選手となって自転車競技の本場である海外で挑戦したい。いつからか抱き始めた目標は新開と荒北のふたりに共通する夢だった。だが荒北の所属するチームは前期の成績がいまいち振るわず、スカウトされようにも自分を売り込もうにもまだまだ実績が足りていない。
『先行って待ってろ。ぜってー追いつく』
『ああ。楽しみにしてるよ。じゃあ、お先に』
 空港で新開を見送ったのはもう2年も前で、彼にはあの日以来会っていない。現在はいわゆる遠距離恋愛中というもので、ふたりにとってはこれが2度目の経験だった。それでも今回は大学時代とは比べ物にならないほどに遠く、新開が暮らす場所は何万キロも離れた海の向こう。いずれ荒北も行くであろう場所で新開は先に世界と闘っている。
「だけどさァ……連絡ぐらいしろっての」
 ツアーに追われて忙しいのもわかっているし、時差の都合上生活がすれ違うのも仕方がない。どちらかがメールを送り、その数時間後にやっと返事が届く。そんなやり取りを細々と続けているが、リアルタイムで会話をしたのはいつだったか思い出せないくらいだ。
 自分で思っている以上に新開を想っている。「くそ」と呟いた荒北は身体を起こして一気に残りのビールを飲み干すと、そのまま机に伏してしまった。うとうとと浅い眠りに引き込まれ、その中に登場した新開は2年前と変わらない顔で荒北に微笑んでいた。
(ちくしょう……会いてぇなぁ)
 夢の中の新開に手を伸ばしながら荒北は意識を手放していった。
 
**
 何かの音で目を覚ました荒北は、それが電話の着信音だとしばらく気がつかなかった。
「うるせぇ……」
 いつものアラームが鳴ったのかと思って放置していたが、一度止んでもまたしつこく音が鳴る。おかしいなと思い、ノロノロと手を伸ばして掴んだ携帯電話には新開隼人の名前が表示されていた。
「は? え? もっ、もしもし新開ィ!?」
『靖友、遅いよ。ってその声の感じじゃ、もう寝てたかな?』
「え、あー、寝ちまってたのか……」
『靖友の寝起きの声、ひさしぶりに聞いた気がする』
「え? そうだな。ひさしぶりだな」
『ちょっと掠れててさ。オレ、おめさんのその声がすげぇ好きなんだ。色っぽくて』
「は? なっ、バカじゃねーのォ?」
『はは、怒った?』
「るっせ、怒ってねーよ」
 電話越しだが柔らかい声が耳にしみる。目を閉じてみるとすぐ目の前で会話をしているような感じだった。その感覚に違和感を覚えた荒北は目を開けて起き上がった。
「なぁお前今どこいんの? なんかいつもとちげぇんだけど」
『そうかな。何が違うんだ?』
「なんかやけに近いっつーか、いっつもはもうちょっと声が小せぇし、こもってるっていうか……」
『するどいな。さすが靖友』
 新開の笑い声に重なるようにしてインターホンが鳴る。そして『開けてよ』と新開が言った。
「は!? えっ、お前、マジで?」
 慌てて立ち上がり、小走りで玄関に向かう。ドアスコープを覗いて確かめるのももどかしく、勢いのままにドアを開けた。
「ただいま」
 目の前と耳元で声が重なる。
 新開が携帯電話をおろすと伸びた髪が頬に落ちて、懐かしい指がそれをわずらわしそうに耳にかけた。2年の間に置かれた環境のせいか、甘さの強かった顔には精悍さが増している。
「靖友は何もねぇの? おかえりのキスとかさ」
 わざと不満げに唇を尖らせる子供っぽいところは何も変わっていない。驚いて言葉の出ない荒北を「まぁいいけど」と言いながら新開が抱きしめて、そのまま後ろ手にドアを閉めた。
「びびった? 身体硬いぜ?」
 耳元で新開がくすっと笑い、そのまま耳たぶを噛む。彼の体温と噛まれた感触がようやく荒北の身体をとかす。
「おまっ、なんでここにいんだよ? わけわかんねぇんだけど」
「来月の宇都宮のレースがあるだろ? あれにオレんとこも出場が決まってさ。って発表されたはずなんだけど知らなかったかい?」
「えっ!? マジで?」
「ハハ、マジだって。靖友のチームも出るんだよな?」
「ああ、出るけどさぁ……つーかなんで言ってくんねーんだよ。レースもそうだけど、ここに来んのも言ってくれりゃあ……いや、マジでびびったぜ」
「レースのことはもう知ってると思ったんだよ。あ、そうか。日本じゃ今日発表ってことになんのか。まいったな、先に言っちまった」
「まいったのはこっちのセリフだ。急に来やがって……あ、だから今日は何の連絡も寄越さなかったのかよ」
「靖友を驚かせようと思ってさ。うまくいって良かった」
「てめぇ……」
 舌打ちしようとした唇を新開の厚い唇が押さえる。ついばむように軽く当て、下唇を甘噛みし、荒北が抵抗しないとわかるとそのまま舌先で歯列を割った。ぬるっとしたひさしぶりの感触に荒北の身体が震える。他人の熱はこんなにも熱かったかと、舌を絡め返しながら思った。
「靖友、ただいま。会いたかった」
「……オレ」
 オレもと言おうとした唇を粗く新開が塞ぐ。そのまま玄関先で始まってしまいそうな勢いで、荒北は苦笑しながら身をよじった。
「待てっつーの。もっとお前の顔が見てぇ」
「顔?」
「そ。あー……すげぇひさしぶりに見てもやっぱいいツラしてんなぁ、お前。これがオレのもんかと思うとゾクゾクするぜ」
 ニヤッと歯を見せながら新開の顔を手のひらで包む。瞼を撫でて目尻に触れ、頬を滑らせた指でうなじを掴むと、強く引き寄せてキスをした。角度を変え、息をつく暇も与えないほど深く求める。ときおりハァっと漏らす呼吸すらも惜しくて、新開が生み出すものを全部吸い取るように口を塞ぐ。やがて耐えられなくなったのか新開が苦笑しながら唇を離した。
「靖友、嬉しいんだけどさ、これじゃお互い死んじまう」
「手ェだしたのはお前が先だろ?」
 肩を揺らして酸素を求めながら新開の手を引く。もどかしそうに脱いだ靴が廊下に転がったがお構いなしに寝室に連れ込んだ。ベッドに組み敷いて、キスをしながらシャツのボタンに手をかける。新開も荒北のスラックスに手をかけたが「そういや、スーツ?」と気づいて手を止めた。
「会社帰りだからな。着替える前に飯食って酒飲んだらそのまま寝ちまったんだ」
「おめさんのスーツ姿ってなんだか新鮮だな。ジャケット着てねぇのが残念だけど。あ、どうせならネクタイも締めててほしかった」
「あれ、お前にそんな趣味ってあったっけ?」
「高校んときを思い出すだろ? それに告白した日もスーツ姿だったし。おめさんのスーツ姿って、結構思い入れがあるんだよ」
「ああ、そういやぁそうだったナ」
 おぼろげに成人式の日を思い出し、あのときは新開の部屋だったなと記憶を辿る。あれからたくさんの時間を過ごして、喧嘩もしたし甘い時間も重ねてきた。
「いろいろ思うこともあんだけど、やっぱオレ、お前が好きだわ」
 感慨深げに呟いてしまった言葉に新開が目を丸くした。そして「どうした靖友」といいながらも嬉しそうに目を細める。
「いろいろって何を思ってたんだ?」
「……いろいろはっ……そりゃいろいろだヨ」
「答えになってねぇって。気になるなぁ」
「るっせ。気にすんな! オレが好きだっつってんだから、それでいーじゃねぇかヨ」
 ごまかすようにボタンを外す手を再開させる。新開は「秘密主義なとこは変わんねぇなあ」と嘆きながらも荒北のベルトに手をかけた。新開に触れられた下半身はすっかり熱を灯している。
「あー、かわいい」
 冗談とも本気とも取れる顔で新開が笑い、空いた手で荒北の頭を引き寄せた。
「靖友、オレも大好きだ。今日だって休みがもらえたからおめさんのために帰ってきたんだぜ? なぁ、喜んでくれた?」
「……ったりめーだろ」
 照れ隠しに新開の目を塞ぎ、そしてわざと唇に噛みついてからキスをした。新開が優しくうなじを撫で、もう片方で性器をこすられて、そのたびにぞわぞわと快感がはしる。唇を離して「あぁ……」と喘いだ荒北に新開が唇を舐めながら微笑んだ。
「靖友、誕生日おめでとう。2年分のお祝いをしにきたよ」
「あ……そういやオレの……」
 すっかり忘れていた誕生日をまた思い出し、顔を上げてヘッドボードの時計を見ると、すでに日付は4月2日になっていた。
「一週間は日本にいる予定なんだ。取材とかチームの仕事もあるんだけど、おめさんが良かったら夜はここに来てもいいか?」
「……ダメっていったらァ?」
「それでもくるよ」
 歯を見せて笑う顔が子供っぽくて、荒北もつられて笑ってしまった。そこにいるだけで場を柔らかくしてしまうのは、新開の雰囲気がそうだからだろう。
「来るって言ったな? じゃあ、何があってもぜってー来いよ」
 ニヤリと笑い、「もちろん」と応えた新開が身体を起こす。逆に組み敷かれる形になったが荒北は喜んで身体を開いた。
 新開が触れた部分が熱を持ち、嫉妬や不安といったフラストレーションが消えていく。一緒に過ごすこと、いや、新開の存在そのものが最強のビタミン剤だなと思いながら彼の熱の中に溺れていった。
 
***つづく***
 
次→彼と彼【最終話】

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