【新荒】 彼と彼 【高校生編】

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高校生の新荒です。
・高校1年、2年、3年の各学年ごとに書きたかった話をまとめました。
・カップリングよりもブロマンスに近い感情です。
・『彼と彼シリーズ』の1作目。

 
1.【高校1年 冬】
 11月、午前6時。
 日の出前の薄暗い箱根路を一台の黒いロードバイクが走っていた。粗い息づかいと車輪の音が箱根学園の裏門へと続く坂道に響いている。普段はもう一台の自転車が隣りに並んでいるのだが、今朝の自主練は彼ひとりだけだった。
 季節が冬めいてきたせいか吐き出す息が白い。ハンドルを握る指先も赤毛の隙間から覗く耳たぶも、冷えた空気に触れるすべてがジンと痛む。とはいえ運動すればきちんと汗はでるもので、額から滑り落ちた汗が垂れた目尻の横を流れていった。
 坂の頂上まで残り数メートル。「ラスト!」と自分に発破をかけた新開隼人は、サドルから腰を浮かせて一気に踏み込んだ。
 
「はぁ……さすがに朝から山道はきつかったな」
 肩で息をしながら空を仰いだ新開は、スプリンターと呼ばれる短距離や平坦な直線が得意なタイプだ。それでもインターハイメンバーを目指すなら、傾斜のきつい道もそれなりの速さで走れなければならない。だから最近は自発的に苦手なコースを選んでいるのだが、ひとりきりだとペースがわからずに無茶をしてしまう。この日もペースを上げ過ぎたのか右足に張りを感じ、足を庇いながら自転車をおりた。
 息を整えるため深呼吸を繰り返しながら歩く。普段は活気にあふれた学校も生徒のいない早朝はあまりにも静かだった。新開の通う箱根学園は市街地から少し離れた場所に建っているため、学校関係者以外の車の往来は多くない。シューズについたクリートが歩くたびにカチカチと音をたて、その音だけがシンと静まる敷地内に響いていた。土曜日の早朝という時間帯のせいもあるが、テスト期間中の今はすべての部活動が休みに入っている。文武両道を謳う箱根学園とはいえ、わざわざ試験期間中まで自主的に朝練する生徒はめったにいない。いつもなら新開もまだ布団の中なのだが今日は目が冴えて二度寝ができず、しかたなく自転車を走らせてきたのだ。
 ふいにカラカラという聞き慣れた音がして、新開はその場で足を止めた。今まさに向かっていた部室の引き戸が開いて、中から自転車を引いた人物が姿を現した。あくびをしつつヘルメットを被った彼はこれから外周に出るのだろう。そのまま自転車に跨ると、新開に気づかないまま正門のほうへ走り去った。
「ずいぶん乗れるようになったな、靖友くん」
 すでに見えない背中を追うように、新開は自転車が消えていった方向をじっと眺めていた。
 荒北靖友が乗っているチェレステカラーの自転車は福富寿一のものだ。秦野中で出会ったときにはすでに乗っていて、彼はあの自転車を何よりも大事にしていた。偽物のフクトミを捕まえたり、自転車競技部の部長・副部長として数々のレースを共に闘ったり、新開にもあの自転車にはそれなりの思い入れがある。だが、あれほど大事にしていた愛車を譲ったということは、荒北の中になんらかの物をみつけ、そこに期待しているのかもしれない。
 
『聞いたか? 1年のあのアラキタってヤツ、インハイ出場が目標だって言ったらしいぜ』
『ああ、聞いた聞いた。現実をひっくり返すとかどうとかってヤツだろ? 素人が何言ってんだって感じだけどな。ハコガクチャリ部もナメられたもんだ』
 
 荒北が入部したての頃、ロッカールームで先輩たちの嘲笑を偶然耳にしたことがある。それは新開にとっても初耳で、突然現れた得体の知れない男がインターハイ出場を目指しているのだという。確かに荒北は何かの運動経験があるようだし、なんとなくだがロード乗りとしての筋もいい。
(インハイ出場……経験者でもない彼がなんでまた)
 興味を抱いた新開はある日、荒北になぜ自転車に乗るのかと問いかけてみた。自分の存在を証明したいのだと、今にも噛みつきそうな勢いで答えた荒北の姿は忘れることができない。嘘をつけそうにもない性格と意思の強い目。福富の言葉を借りるなら『意思の強いヤツは速くなる』、だ。
 福富は変わったものを好むが、それは新開も同じなのかもしれない。荒北がどこまでのぼってくるのか、彼の進む先を見届けてみたいと思うようになっていた。同じ自転車乗りとして、そして部活仲間として伸びしろの広い荒北に興味がある。
(インハイを目指すなんて無茶に思えることでも、たぶん彼なら現実にしちまうのかもしれない)
 同じチームメイトとして走る日は必ずやってくる、そんな予感がしていた。

 目線の先にはすでに誰もいない。とりあえず荒北が戻るまでクールダウンを兼ねたストレッチでもしていようと、また部室に向かって歩き出した。
「一緒に走ったらおもしろかったかもな」
 次は誘ってみようかと思ったが、煩わしそうに「なんでオメーと」と断られるのがオチだろう。片眉を吊り上げる顔が容易に想像ついたが、それでも最近は「靖友くん」と呼んでも嫌がらずに応えてくれるようになった。たまに調子に乗って「靖友」と呼ぶとまだ睨まれてしまうが、睨むだけで以前のような文句は飛んでこない。このことを、荒北なりに気を許してくれているのだと解釈するのはポジティブすぎるだろうか。
 ようやく日の出を迎えたようで、後方から射し込んできた朝日が荒北の走り去った先まで伸びていく。まるでその照らされた道が荒北の自転車乗りとしての今後を暗示しているようで、「オレも負けてらんねぇな」とハンドルを握り直した新開は静かに闘志を燃やして微笑んだ。

 
2.【高校2年 夏】
 土曜日の午後は軽い筋トレとローラー練習で部活が終わる。だが部活後も自主練を課せられている荒北は、その日もローラー練習を終えるとひとりで外周にでていた。外周といっても遠くまで行くわけではなく、部で使っているルートの一番短いコースを3本走るというものだった。
 荒北に練習を課した福富は今いない。2年生にしてインターハイメンバーとなった彼は、サブメンバーと共に金曜から3日間の合宿に出かけている。数名のメカニックとマッサージャーも同行しているが、それ以外の部員たちは学園に残って普段通りに過ごしていた。
「……クソあちぃ」
 7月の初旬だというのに気温も降り注ぐ日差しもすでに真夏に近い。ボトルに口をつけたが中身はすでにぬるく、冷えた自販機を探そうにもこんな山道に設置されているはずがない。今年の夏は猛暑になると梅雨明け前から報道されていたが、これほどまでに暑くなるとは思いもしなかった。
「ベプシ飲みてぇ……」
 冷えたベプシが恋しいが、とりあえずぬるいスポーツドリンクで渇きをごまかす。せめて風だけでもと走るスピードをあげてみたが、湿度の高い重い空気が身体にまとわりついて離れない。
 現在走っている道は山の中腹で二股に分岐し、そこがこのコースの折り返し地点となっている。左の道は小田原方面に戻る県道へ、右に進めば芦ノ湖付近を通って三島方面へ出る。その分岐地点を目指して坂をのぼり始めたとき、前方を走る一台の自転車が目に留まった。サイクルウェアは自転車競技部のものではなかったが、あの後ろ姿と自転車は間違いなく彼だろう。この辺りで黒いサーヴェロに乗る人物は荒北が知る限りひとりしかいない。ここのところ姿を見なくなっていた新開だ。
「アイツ……しばらく見ねぇと思ったら自主練してんのか? しっかし、スプリンターのくせにこんなとこで山登りかヨ……」
 もしこのまま新開に追いついたとして、声をかけないのは不自然かもしれない。だが、もともと特別仲がいいわけでもないし、むしろ一方的に絡まれて迷惑していたのはこっちのほうだ。
(練習か?は見りゃわかるし、部活サボって何してんだよ、も別にオレが言うことじゃねぇしな……つーか、めんどくせぇからいっか)
 距離が縮まらないようになんとなく速度を落とす。そのおかげでダラダラと登坂することになってしまい、ふくらはぎへの負担がキツイ。
(つか、こんなタリィのはムリだっつーの……あの野郎さっさとのぼれヨ。これだからスプリンターはァ!)
 心の中で毒づいてみたがそれで何かが変わるわけでもない。じわじわと身体を包む蒸し暑さをこらえながら黙々と坂をのぼる。下り坂に入ったら一気に追い抜こうとハンドルを握り直したとき、ようやく新開がのぼり終えた。
(よっしゃ、追い抜く)
 腰を浮かせてスピードをあげようとしたのだが、新開は校舎に戻る左の道ではなく、芦ノ湖へ続く右の道に曲がっていった。思わぬ新開の行動に拍子抜けした荒北は、バランスを崩したせいで危うく転倒するところだった。
「どこ行くんだ? つーか、アイツも学校に残ってたんだナって当たり前か……」
 インターハイ出場を辞退したのだから新開が学校に残っていてもおかしくはない。だが、なんだかんだいっても新開の実力は本物だし、認めるのも悔しいが確実にチームの戦力になる。だから結局はサブメンバーとして合宿に参加し、そこで説得されてインハイに出場するものだとばかり思っていた。
(アイツ、ほんとに行かねぇんだナ)
 込み上げてくる悔しさから荒北は奥歯をギリッと噛みしめた。
 新開とは自転車経験も実力もレベルが違う。比較対象ですらないことは充分にわかっているが、それでも荒北にとってインターハイは約3年の月日をかけて人の3倍の練習をこなし、そこまでしてやっと行けるかもしれない大会だ。必死で掴もうとしているシングルゼッケンを、すでに手にした新開が自ら捨ててしまったことが許せなかった。
 新開はあの一件以来あまり部に顔をださなくなっていたが、荒北にとってそれは『インハイメンバーの枠がひとつ空いた』だけにすぎない。人が減る分だけ来年のメンバーに選ばれる可能性があがるし、みすみすチャンスを棒に振るなんてバカなことを自分なら絶対にしない。
「……もったいねぇことしやがって。マジでバカだろ」
 坂の頂上である分岐地点に停まったまま、荒北は小さくなっていく新開の背中をじっとみつめていた。
 
*
 あの日以来、ひとりで練習する新開の姿をたびたび見かけるようになった。荒北の前方を走っているときもあったし、気づいたら新開が後ろを走っていることもあった。が、一定に開いた距離をつめることはなく、お互い無言でただ黙々と練習をこなし続けた。
 いつものように前方に新開をみつけた荒北が、彼のあとを追ってみることにしたのはただの興味本位からだった。新開は芦ノ湖方面へ向かうルートをよく走る。そして向こうに消えてしまうと学校に戻ってくるのはかなり遅い時間になってからだった。どこまで行きどんな練習をしているのか、ただ単にそれを見てやろうという好奇心だった。
 新開が芦ノ湖へ続く道を曲がり、荒北も気づかれないように距離をあけてあとに続く。前を走る新開にかつてのスピードはなく、このままだと追い抜いてしまいそうでスピードを緩めた。
(なんか……最近はアイツの後ろ走ってばっかだナ)
 フンと鼻を鳴らして荒北が苦笑しているとガシャンという嫌な音がして、ほどなくして新開が自転車を止めた。自転車をおりた彼は空を見上げながら苦しげに呼吸している。表情はわからないが不調は明らかで、次期エーススプリンターと期待されていたことが嘘のようだった。
「……こんなときにっ」
 いらだたしげにヘルメットを脱いだ新開は、ガードレールに車体を預けると屈んでチェーンをいじり始めた。どうやらさっき聞こえた音はチェーンがはずれた音らしい。
(あーあァ、大丈夫かよ)
 助けようかと思ったがこっそりつけてきた手前何となく声がかけづらい。それに、自分が新開の立場だったらこんな姿は誰にも見られたくないかもしれない。あれこれ悩んだせいで完全に声かけのタイミングを逃してしまい、結局荒北はその場に立っているしかなかった。
 もうすぐ日没だというのにうだるような暑さは残ったままで、立っているだけでも汗が落ちる。手元が見えづらくなってきたのかそれとも暑さが邪魔をしているのか、チェーンをいじる音がなかなか止まない。
(もうすぐ日ぃ暮れちまうし……やっぱ手伝うか)
 終わりそうもない様子に焦れた荒北が一歩踏み出したとき、ふいに新開が「なんで」と呟いた。自分に話しかけられたのかと驚いて、荒北の足が止まる。
「オレにはもう走る資格なんてないのに……なのになんでまだチャリに触ってんだ。乗っても……走れねぇくせに」
 自転車を整備する音がやんだ。そして新開の肩が小刻みに震え始め、「でも……どうしても諦められねぇ」と嗚咽まじりの声が続く。どうやら荒北に気づいたわけではないらしいが、初めて見る新開の姿に荒北はひどく狼狽していた。
(なんだよコイツ……何があったってんだ)
 新開がこうなった原因はわからない。ただ、もう自転車を辞めるのだと思っていた新開が目の前で「諦められない」と泣いている。懐かしい痛みが疼いた気がして、荒北は無意識に右肘をぎゅっと押さえた。
 荒北は中学時代を思い出していた。
 右肘を故障した荒北は自暴自棄になり、ひとりきりになった気がして輝いていた過去とのギャップが辛かった。肘の故障明けはなんとか取り戻そうと必死になったが、それでも調子は変わらず、もがけばもがくほど焦りといらだちが邪魔をする。手の中の野球ボールはいくら投げてももう応えてくれず、どうにもならない現実に気づいたときすべてがバカらしくなった。
「……くそっ」
 目元をぐいっとひと拭いして、新開は再び手を動かし始めた。チェーンが立てる金属音の中に鼻水をすする音がたびたび混じる。
(オメーもひとりで……もがいてんのか?)
 もちろん、あのときの荒北と今の新開が同じ境遇だとは思っていない。新開に何が起きて彼が何を思っているのか荒北にはわからない。それでも新開は「諦められない」と確かに言い、夢を諦める苦しさを荒北は誰よりもよく知っている。
 荒北はその場に立ったまま拳を固く握りしめた。もがいているのなら誰かが引いてやればいい。自分が福富のおかげで前に進めたように。
 
**
 福富に集められて新開の事情を聞かされたのは夏が過ぎた頃だった。目の前でうなだれる新開の姿に、あの日泣きながら震わせていた背中が重なる。
(誰かが引いてやらねぇと)
「オレが練習つきあってやんヨ」
 照れ隠しでヘルメットを放ると新開は驚いた顔をしていた。
 
 
「なかなかいい場所だろ? 芦ノ湖が一望できるんだ」
「たしかにイイ場所だけどォ……」
 気まずい雰囲気に荒北が言葉を濁す。新開もこの時間はまずかったと思ったのか、
「まあ……そうだな。でも、日中は本当にいい場所なんだ」
と横に腰をおろしながら苦笑した。
 新開に誘われてやってきた場所は芦ノ湖を一望できる展望台だった。夕暮れと夜景を見にきているのか等間隔に設置されたベンチには寄りそうカップルの姿が目立つ。そんな中に男が二人というのはかなり居心地が悪い。
「ここ、ひとりでよく来てるんだ。こうやってでかい芦ノ湖を眺めてると、なんか気分が晴れるっていうかさ」
「……ふうん」
「でも、夕方とか夜はダメだな。今みたいにカップルが多くてすげぇ気まずい。こん中にひとりでいると逆に気が滅入っちまう」
「あー……こりゃ地獄だナ」
 荒北が眉を寄せて顔をしかめると新開も「だろ?」とおどけて肩をすくめた。新開の顔に暗さはなく、以前のような柔らかい表情が戻りつつある。
「靖友、今日つきあってくれてありがとな」
「あ? 急に礼とかなんだヨ」
「……来週、スピードレースがあるだろ? オレにとっては復帰戦みたいなもんだし……なんか落ち着かなくてさ」
「あー……でもまぁ、もう大丈夫なんじゃねーのォ?」
「……そうかな。じつはまだ自信ねぇんだ」
「しけたツラ見せんじゃねーヨ。オメーはいつもみてぇにニヤけて余裕ぶってりゃいいんだ」
「余裕ぶってって……そんなふうに見えてるのか」
 複雑な表情を見せた新開の背中を、荒北は発破をかけるようにバシッと叩いた。
「いっ……!」
「ブランクがあったとしてもだ。今はオレらにちゃんとついてこれてる。ごちゃごちゃ考えずにパーッと走ってこい。オメーはムダに考え過ぎっからダメなんだヨ」
「……それって励まされてんだか、けなされてんだかわかんねぇな」
「なんだとコラ。テメーがヒヨってっから励ましてやってんじゃねーか」
 軽く舌打ちした荒北に新開が「そうだな、ごめん」と笑う。
「つーかさァ、インハイに出ようってヤツがこんなとこでビビッてんじゃねーヨ」
「オレは……まだどうなるかわかんねぇだろ」
「はぁ? どうなるか、じゃねぇ。獲るんだヨ! 福ちゃんが戦力になるってオメーをメンバーに望んでんだ。ゼッケン獲らなかったら承知しねーぞ」
 元から大きな目をさらに見開いたあとで、新開がプッと吹きだした。
「おめさん、いつの間にかすっかり寿一びいきになったよな。前は鉄仮面呼ばわりだったのに」
「……るっせ。びいきとかキモイこと言ってんじゃねぇ」
「だって今は『福ちゃん』だろ?」
「それはっ……鉄仮面じゃなげぇからァ、ただそれだけ」
「そうか」
 ニヤリと笑う新開の顔が夕日に染まる。赤毛の髪がキラキラと眩しくて、荒北は目を細めた。
 太陽が箱根の嶺に消えていくのをしばらくの間ふたりで眺めていた。髪の毛を揺らす風はすっかり涼しくなって、汗をかいた身体にひんやりとしみる。荒北がタオルで首の汗を拭っていると新開がポケットから携帯電話を取り出し、それを荒北のほうにかざして見せた。
「ミーティング終わったってさ。尽八からメールだ」
「じゃ、腹も減ったしそろそろ戻るか」
「そうだな」
 次の部長と副部長に選ばれた福富と東堂は、顧問や監督とのミーティングに頻繁に招集されるようになっていた。インターハイも終わった今は世代交代が近い証拠なのだろう。3年生の追い出し壮行会はまだだが、2年生を中心としたチーム作りとゼッケン争いはすでに始まっている。
「……出るぞ、インハイ」
 思いがけず呟いてしまったが荒北の決意は固い。迷いや気弱さが吹っ切れたのか新開も「ああ」と力強くうなずき返した。彼の目の中に誰よりも負けず嫌いな鬼の影が一瞬だけチラつく。新開から微かに漂う不敵な匂いも鬼の復活が近いことを告げていて、荒北はニヤリと口角を上げた。
(来年も王者は王者だ。どこにも負けねぇ)
 来年の夏、荒北と新開はシングルゼッケンのついたユニフォームに身を包み、優勝旗を手にして笑っているだろう。福富の作るチームに東堂を含めた自分たちは必ずいる。必ずゼッケンを獲ると誓って、荒北は愛車のビアンキに跨った。先に漕ぎだした新開を追うように思い切りペダルを踏み込む。
 暗くなり始めた箱根路を2台の自転車が駆け抜けていく。その車輪の音は軽快で、乗っているふたりの顔は明るい。
「はえーよバカ! 下り坂だからってとばしすぎだろ。すっ転ぶぞ」
「オレがアシストしておめさんを学校まで引いてやるよ。あ、でも靖友がついてこれたらの話だけど」
 どうやら新開には軽愚痴を叩く余裕もでてきたらしい。
「ハッ! 言うようになったじゃねーか。つーかそれはアシストって言わねぇんだヨ! アシストなんかいらねぇ……テメーもぶち抜いてやる」
 荒北は新開の横に並んで挑発するようにニッと笑い、そして「こっから勝負ナ!」と言い終える前に飛び出した。
 

 結局勝負は同着に終わり、部室前には地面に寝転ぶふたりの姿があった。
「はぁっ、すげぇ苦し……」
「つか、はあっ、テメーのせいだろーが」
「ひでえ。おめさんが急にしかけるからさ」
「るっせ、じゃあノッてくんじゃねーヨ」
 上下する胸板の動きは速く、息を切らして罵りながらも声は明るい。力が入らない腕をなんとか持ち上げ、
「もう全力でいけんだろ。ぶっちぎってこいよな」
「ああ、ありがとよ」
と手のひらを叩き合う。確かな手の感触に新開はもう大丈夫だと思った。全力疾走後の喉の痛みと疲れきった身体が何よりの証拠だ。
(……コイツが諦めなくてよかった)
 隣りに寝転ぶ新開の粗い息づかいを聞きながら、荒北はニッと笑って汗を拭った。

 
3.【高校3年 夏の終わり】
 それを初めて目にしたのはインターハイが終わった日の真夜中だった。
 
 消灯時刻をとっくに過ぎた室内は静かで、隣りのベッドで眠る福富の寝息が穏やかに続いている。眠れないままでいた新開は寝息を聞きながら薄闇の中でずっと起きていた。寝ようと目を閉じても数十秒ともたなくて何度も寝返りをうつ。シーツにこすれる服の音がやけに大きく聞こえた。
 大きな瞳を瞬いて天井に取りつけられた照明をじっと眺める。疲労の蓄積された身体はずっしりと重く、マッサージを受けたはずなのにまだ怠い。いつもは目を閉じると数秒後には夢の世界なのに、どうしても今日はダメだった。
 レースの興奮がまだ抜けていなかった。おまけに悔しさが次から次へと溢れてくるので一向に眠れる気がしない。新開は深いため息をついて身体を起こすと、福富を起こさないよう自室をそっと抜け出した。
 廊下の自販機で水を買ってひとくち飲む。なんだか無性に風を浴びたくなったのでそのまま外に向かうことにした。
 寝静まったホテルの敷地内に玉砂利を踏む足音が響く。新開は中庭に向かっていた。富士湖畔を臨める庭がホテルの売りなのだと、従業員が東堂に話していたのを思い出したからだった。
 飛び石を踏みながら歩いていると、草木がきれいに借り揃えられた場所に辿り着いた。おそらくここが中庭なのだろう。見渡した広い庭の一角に四阿を見つけ、座る場所があるかもしれないと近づく。思った通りに座れる造りのようで、薄闇の中にぼんやりとベンチのような形が見えた。はっきりと見える距離まで近づいたとき、木の枝か何かを踏んでしまったのか足もとで乾いた音がして、四阿の内部で黒い影が揺れた。思わず身構えた新開が息を詰めて身体を硬くする中、振り向いた黒い人影は荒北だった。
「ビビった……靖友か」
 ほっと胸を撫で下ろして近づくと、荒北はTシャツの裾で顔を拭いながら
「ビビったのはこっちだっつーの。なんでテメーがそこにいんだよ。さっさと寝ろヨ」
と理不尽な悪態をつく。
「いや、なんか眠れなくてさ……っていうか靖友こそ寝なくていいのか?」
「うっせ……寝れねーんだヨ」
 そっけなく呟いた荒北が手元のベプシに口をつける。彼の隣りに座ると炭酸飲料の香りを乗せた涼しい風がふたりの髪を揺らした。
「風が少し冷たいな。昼はあんなに暑かったのに」
「まぁ、夜中だからじゃねーの?」
「そうか」
「そォ」
「月、結構明るいな」
「月ぃ? あー、だな」
 短い会話のあとに沈黙が続く。ふたりとも今は積極的に会話をする気分ではないらしい。
 水を飲もうとペットボトルのキャップを捻ったとき、ぶつかってしまった荒北の腕が冷たかった。いつからここに座っていたのかはわからないが、ついさっきではないことを冷えた腕が告げていた。
「そういえば明日は出発が早かったな」
「つーか8時出発って早すぎだろ。インハイも終わったんだしさぁ、朝ぐらいもっとゆっくりさせてほしいぜ。おまけに学校戻ってミーティングって……てっきりすぐに解散かと思ってのに」
「ミーティングは軽くって話だけどな」
「ったくダリィんだヨ。もう夏休みも始まってんだから、さっさと家に帰りてェわ」
 ハァ、と深いため息をつく横顔を眺めた。
 レース後に救護室からチームテントへ合流したとき、荒北の顔色は真っ白だった。特に怪我をしたわけではないらしいが疲労と軽い脱水症状のせいで彼の足はしばらくふらついたままで、後輩に支えられるようにして歩く後ろ姿はなんだか痛々しく見えた。
「おめさん、もう体調はいいのか?」
「あ? あぁ、なんとかな。メシも食えたし」
「そうか。良かった」
 最初に振り向いたきり荒北が目線を合わせない。なんだか不自然な気がして「なぁ」と肩を掴むと、ビクッと肩を震わせて荒北が新開を見た。
 初めて見るその顔に新開は息を飲んだ。
 赤く充血した瞳と赤みのにじむ鼻先。頬にうっすら残る涙が流れた痕。同年代の、特に男の泣き顔なんて最後に目にしたのはいつだろう。それも泣くなんてまったく想像もつかないあの荒北が、ここでひとり暗闇に隠れながら泣いていたのだ。
「んだよ急に」
 すぐに顔を逸らした荒北が新開の手を払って目元をゴシゴシこする。ごまかすためなのだろうが、そのせいで目元の赤さが余計に目立っていた。
 この顔を他の誰かに見せたらいけないような、自分以外には見せたくないような複雑な思いが新開の胸の中にわいた。唐突に荒北の頭を引き寄せて自分の胸に抱いたのは意図してやったことではない。気がついたら抱いていた、そんな感じだった。
「テメッ、新開、ナンのつもりだヨ」
「いいから。今だけ」
「ふざけんな、離せ!」
 言葉に反して離れようとする荒北の抵抗は弱く、抱きしめる腕に力を込めると荒北の身体から力が抜けた。ポン、ポン、とあやすように背中を叩いて黒髪に頬を寄せる。
「靖友……悔しいな」
「……あァ」
「……インハイ、もう終わったな」
「……あァ」
 メンバー全員が自分が持てる力をすべて出しきっての結果だった。それでも総合2位は決して望んだ数字ではない。たかが順位ひとつの差だが、1位と2位ではまるで意味合いが違う。王者であり続けた箱根学園にとってはなおさらだった。
 新開は荒北を抱きながらある思いに揺れていた。
 スプリントラインの手前、一瞬でも勝ったと油断して慢心していなかっただろうか。
 最後まで緩まずにペダルを回せただろうか。
 そもそも高2のあの時期に自転車から離れていなかったら今とは違う結果になったのではないか。
 たくさんの「もし」が頭の中を駆け巡ったが終わってしまったものはもう二度と戻らないし、最後の夏は苦い記憶としてこの先も残っていくのだろう。
 時間が経てばこの記憶も『いい思い出』に変わるのだろうか。そのときは「あんなこともあったな」なんて笑いとばせるようになっているのだろうか。
 腕の中の荒北は何も語らず、新開も無言のままだった。それでもひとりでいるよりはマシで、誰かの体温がこんなにもありがたいものなんだと初めて知った。今はまだ、この結果が苦しくてたまらない。
「終わった……」
 新開がそう呟いても荒北はもう何も応えない。ただ、チラリと見えた荒北の手のひらは、悔しさをにじませるように固く握られたままだった。
 
*
 秋が過ぎて冬が訪れ、あっという間に卒業の春を迎えた。
 卒業式のあとで部室に集まったとき、泣き顔の3年生が多い中で荒北の表情は普段通りだった。泣いた様子もなく、少し離れた場所でみんなを見ている。
 後輩とひと通り話をしたあとで、新開は窓際のパイプ椅子に座る荒北に近づいた。窓枠に腕を載せて頬杖をついた姿勢のまま、荒北がめんどくさそうに視線を寄越す。
「靖友、おめさんちに遊びに行くからな」
「あ? ならテメーは食糧持参で頼むわ」
「食糧?」
「オレ、たぶん自炊しねぇから。だったら外食だろ? でもオメーとメシ食いに行ったら金がヤバい。だから自分のメシは自分で持ってこいってこと」
 軽愚痴を叩きながら荒北がニッと口元を歪めて笑う。
「なんだよソレ。オレ、そこまで食わねぇだろ?」
「どうだかナ」
 目の前で笑う荒北にわざとため息をついてみせながら、やっぱり彼に涙は似合わないと思った。それでもあの夜に見た顔はまだ頭の中に焼きついている。赤く腫れた目と、素直に腕の中にいた荒北の体温。あの夜のことは誰にも話していないし、たぶん荒北も話していないだろう。ふたりだけの秘密だな、と懐かしく思い出したときふいに心臓を掴まれるような感覚がして、新開は首を傾げながらブレザーを握った。
「なに? どっかいてぇの?」
「え? あ、いや、たぶんなんでもない」
「……そ。変なヤツ」
 目を細めて朗らかに笑う荒北が眩しい。また胸がぎゅっと苦しくなって、新開は思わず荒北の肩を掴んだ。
「へ? ビビったァ。いきなりなんだよ」
 なんだと問われても新開もわからない。とりあえず「ごめん」と手を離し、なんとか取り繕うとした挙句に発した言葉は「今日は泣いてないんだな」だった。
「泣いて……? あっ! てめぇまだ覚えてっ……!」
 荒北も思い出したのか彼の頬にサッと赤みがさす。そして眉を吊り上げながら「早く忘れろ」と新開のすねを蹴った。
 荒北の恥ずかしそうな顔がくすぐったい。この妙な気持ちが一体何なのかわからなくて新開は戸惑っていた。
(まだ見ていたい。まだ離れたくない)
「靖友……」
「あ? 今度はナニ」
 相変わらず睨むような視線を向ける荒北は少しだけたじろいだように見えた。新開の言葉で自分の調子がまた狂うのを警戒しているのかもしれない。
「オレ、やっぱり何かおかしいのかも」
「は?」
「なんだろう。なんかここがすげぇ痛い」
 心臓の上に手のひらをあて、制服をぎゅっと握る。
「靖友の顔や言葉に反応するんだよ、ここが。これってなんだと思う? おめさん、知ってるか?」
「何ってオレに聞かれても……んなもん知らねぇヨ」
 眉をひそめながら荒北が小首を傾げたとき、「みんなで集合写真撮るぞ。部室前に並んで」と集合をかける監督の声が聞こえた。
「卒業式ってのは何回写真撮りゃ気が済むんだァ?」
 欠伸をしながら荒北が立ち上がり背を向けて歩き出す。が、新開がついてこないことに気がついたのか足を止めて振り向いた。
「新開? おら、呼んでっから行くぞ」
 ぶっきらぼうに呼びかけるその声ですら新開の胸をしめつける。なんだか本当に身体がおかしくなってしまったようで、新開は困ったように笑った。
「靖友、ほんとに感謝してるよ」
「……なんだよ」
「オレが走れなくなって、でも寿一も尽八も靖友もみんながオレを引っ張ってくれた。オレが今日ここに立っているのも、みんながいたからで……本当にありがとな」
「はぁ? ナニ言ってんだ。オレらがいたからじゃねぇ。オメーが諦めなかった、そんだけだろ」
 荒北がため息をつきながら肩をすくめて「早く行くぞ」と顎をしゃくる。歩き出した背中に向けて「……ありがとよ」と呟いた新開は少しだけ涙ぐんで微笑んだ。
 最後の集合写真でわざと荒北の横に並んだ新開は、何度かシャッターが切られる中、
「靖友もオレんとこにいつでもこいよ。またオレが泣き止むまで受けとめてやるから」
と荒北の耳にそっと囁いた。その言葉は本心で、決してからかったわけではない。が、驚くほどの速さで新開を見た荒北は小さく身体を震わせ、引きつって歪む口から犬歯を覗かせた。
「てめぇ新開!」

 
 耳まで赤く染めた荒北が新開の胸倉を掴んでいる集合写真は、新開の新しい部屋に飾られている。
「ええと……今日は2限のあとに部室集合だったな」
 トートバッグにサイクルジャージとタオルを詰めながら新開はチラリと腕時計を確認し、「やべえ」と慌てて家を出た。
 箱根学園を卒業した彼らは大学生になった。新開の中に芽生えた感情が静かに成長していることを、まだ誰も、新開でさえも気づいていない。
 
 そして、再会の夏がやってくる。
 
***つづく***
 
次→彼と彼【大学生編1】

-ペダル:新荒
-, ,

int(1) int(1)