【銅悠】こんな恋の始まり方

◆◆ caption ◆◆
銅橋(高校2年)×悠人(高校1年)の銅悠です。※悠人の入学からインターハイ前までのお話。
・銅→←←悠 くらいの関係。ふたりの共通点はお兄ちゃん(新開隼人)かなぁという想像から生まれました。
・悠人の本誌登場くらいに思いついたので、本誌とは多々齟齬があります。
・悠人のお面は「別人になりたい」という解釈で、少女願望は「ヒーロー(=兄)への憧れ」という解釈です。

 
「秦野第一中出身、新開悠人です。クライマーです」

 自己紹介をしたときに相手が自転車競技をかじっていた場合、その反応は大体2通りにわけられる。羨望の眼差しを向けるか、明らかに落胆するかだった。悠人をチラリと見るなり「なんだよ。つまんねェ」と口にした銅橋正清は後者のタイプだった。
 ざわつく部室の中、ボソッと呟かれた低い声だけが耳に残る。呟いた本人は新入生など興味がないらしく、湧き立つ部員たちをよそに窓の外をじっと眺めていた。
「新開、兄貴に負けない活躍を期待してるぞ」
 監督に肩を叩かれ、悠人はうんざりした気分を笑顔で隠しながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 この春、悠人は卒業した兄と入れ替わるようにして箱根学園へ入学し、兄の活躍した自転車競技部に入部した。悠人の大きな瞳や垂れた目尻、特徴的な厚い唇は上級生たちにとっては馴染みが深く、それゆえ悠人の意思とは関係なしに強い印象を残してしまう。ヒソヒソと囁かれる兄の名前が耳に入り、悠人は周囲に気づかれないようにため息をついた。そしてチラリと銅橋を盗み見たが、あの先輩は相変わらず暇そうに外を眺めたままだった。
(また言われちまったな。つまんないって)
 後者の反応を示す人は皆揃って同じことを言う。「つまらない」と。
 

1.
 部内のインターハイメンバー予選が迫った時期、掃除用具を手にした1年は壁際に整列して上級生がシャワールームへはけるのをじっと待っていた。もちろん悠人もその場にいたが先輩には目もくれず、お気に入りのお面を被ってデッキブラシをくるくる回していた。一回転させて掌の上に立たせる遊びをしているのだが、ブラシの柄が2か所も折れている上にへたくそな縛り方で繋ぎ合わされていて、うまくバランスが取れない。
「新開くん、遊んでると怒られちゃうよ。ほら、まだ銅橋さんが残ってるし」
 あの人上級生でも殴るらしいから、とこっそり耳打ちしてきたのは同じクラスの“コバヤシくん”だった。2年の高田城と同じ中学の出身で、同中の先輩を信奉する彼は新入生の中でもなにかと世話を焼くポジションに収まっている。
「へぇ……でもそれって噂だろ? コバヤシくんは見たことあるの?」
「いや、ないけどさ……。今は大人しくなったらしいけど、昔はずいぶん荒れてたって評判だよ」
 お兄さんにでも聞いてみなよ、と言う言葉がチクリと胸に刺さる。ムッとしたので「ふーん」と興味がなさそうな返事をして会話を終わらせた。
 部室の片隅でローラー練習を続けている銅橋に視線を移すと、その近くに待機していた1年生数名が銅橋を見ながらひそひそと話し合っていた。おそらく、掃除が進まないので早く降りてほしいと彼に告げたいのだろう。“怪道銅橋”と呼ばれているこの先輩は大きな体格と荒っぽい言動、それに先程の変な噂のせいで部内でも怖がって近寄らない者が多い。相談中の同級生たちも『どいてほしいが怖くて声はかけられない』ようだった。
 悠人は顔を覆うお面を斜めに被り直して銅橋へと近づいた。尻ごみする同級生たちの代わりに近づいたのではないし、自転車を降りろと言いたいわけでもない。ローラーは好きな方なので銅橋の横で一緒に続けたいくらいだった。ペダルを回している間は何も考えなくてすむし、なにより純粋に楽しいので時間を忘れるくらいにハマるときもある。そういえば兄の隼人もそうだったなとふと思い出し、そのせいで胸がまたチクンと痛んだ。
 銅橋の邪魔にならないようそっと近づく。ローラーに固定された細い車体が大きな身体の下でギシギシと音を立てて揺れていた。回る車輪のスピードは練習だというのに恐ろしく速い。現在この先輩は今シーズンに出場したスプリントレースにおいて全戦全勝という記録を更新中である。史上初と騒がれているが銅橋が勝つのは当然だろうと悠人は密かに思っていた。部の練習後に最後まで自転車に乗り続けるのはいつも銅橋だけだったからだ。見かけによらず結構マジメな人。悠人は銅橋に対してそんな印象を抱いていた。
 悠人の気配に気づいた銅橋が怪訝そうな表情を浮かべながら顔をあげた。「なんだてめぇ」とドスの効いた声を出されたが、構わずニコッと微笑んでみせる。悠人は以前からこの先輩に聞いてみたいことがあったのだ。
「銅橋さん、ちょっと聞いてもいーすか?」
「あ?」
 首にかけたタオルで汗を拭きながら面倒臭そうに眉をひそめる。少しだけペダルを踏む足が緩んだがそれでもまだ速い。車輪の音に負けないように「ちょっと聞いてもいいすか?」と声を張って再び問いかけた。
「あぁ? なんだよ。忙しいっつーの」
 もう少し待てと言われたので窓際のベンチに大人しく腰掛けた。銅橋が自転車を走らせているローラー台の横には、歪められた自転車のハンドルがいくつか転がっている。メカニックの先輩がまた怒るだろうなと思いながら車体をギシギシと軋ませる姿をじっと眺めた。
(いいなぁ、ローラー。オレもまだ乗っていたかったのになあ。フフ、銅橋さんもすっごい回す人なんだ。オレとおんなじ)
 10分ほど経った頃にタイマーが鳴り、それを止めてようやく銅橋が自転車を降りた。「なにニヤついてんだよ」と悪態をつきながら悠人の座るベンチに近づき、どけ、と手で合図する。
 素直に席を譲るとドカッと大きな音を立てて銅橋が腰を下ろした。その音に驚いたのか一瞬部内の音が止み、銅橋が小さく舌打ちして視線を遮るようにタオルを頭から被る。
「ったくどいつもこいつもビビりやがって……で、てめェはなんの用だ?」
 悠人をひと睨みしてペットボトルのキャップを捻る。大きな口に勢いよく吸い込まれていくスポーツドリンクに一瞬見とれ、「ナンだよ」と凄まれたので視線を外した。
「ナンかあんじゃねーのかよ」
「ちょっと……聞きたいことがあるんすけど、隼人く……うちの兄貴ってそんなに凄い人でした?」
「はぁ? 新開さんか? んなモン泉田さんに聞けよ」
「もう聞きました」
「で?」
「兄貴との出会いから始まって、たくさんのエピソードを丁寧に話してくれました」
「じゃあそれがすべてなんじゃねぇの? つーか自分の兄貴のことはてめェが一番よく知ってんだろ」
「いやあ、あまり一緒に走ったことがないからわからないんすよね。周りが凄い凄いって言うから、そんなだったのかなぁって思って。近すぎるからわかんないってヤツすかね。ほら、隼人くんって自転車に乗ってないときはのんびりした人でしょう? いつも『いいんじゃないか?』でテキトーだし、食い意地は張ってるし。勝手にヒトのもん食べちゃうんすよ? ホント、信じらんない。それに泉田さんは兄貴を信奉してる人だから、実際は凄くなくてもたぶん凄いって言うと思うんすよね。だから銅橋さんにも聞きたいんすよ。同じスプリンターだし、去年一緒だったわけだし」
 銅橋は「自分の兄貴なのにわかんねぇのか?」と一瞬呆れたような表情を浮かべたが、「そうだなぁ」と腕組みしながら目を閉じた。眉間に皺を寄せるその表情を見ながら悠人も兄のことを考えていた。
 新開隼人は悠人にとって小さい頃から自慢の兄で、一言でいえばヒーローだった。普段は穏やかで優しいが、自転車に乗れば風のように速くていつも一番になる。子供の頃はなにかに秀でた子がクラスの人気者になるように、例に漏れず兄もそうだった。
 自転車レースで優勝するたびに兄の記事が新聞に載り、そしてその記事はいつも校内の掲示板に張り出される。悠人は隼人の弟であることを羨ましがられ、そのためか悠人の周りにも取り巻きができた。兄の活躍は自分のことのように嬉しくて「ボクの兄ちゃん、すごいんだぜ」とよく口にしていた。
 その自慢の兄を疎み始めたのはいつからだったか。
 物心がついてから良くも悪くも兄の名前を意識しなかった日はない。小、中ともに兄と同じ学校だったので悠人は全てにおいて『新開隼人の弟』だった。3歳の年齢差では兄を覚えている教諭も多く、いつも「隼人くんは凄かった」の話題になる。それは自転車でも同じだった。
 兄への憧れで始めたロードバイク。脚質が違ったせいか同じレースに出場したことはほとんどない。兄はスプリンターとして平坦道でのレースに出場し、山登りが得意だった悠人は山道でのヒルクライムレースが多かった。
 とはいえ兄弟というものはそれだけで有無を言わさず比較されてしまう。大会で1位を獲れば「新開の弟だから」と言われ、獲れなければ「新開の弟なのに」と言われる。

――隼人くんなんかいなければよかったのに

 何度そう思ったかわからない。
 いつからか自分の前には常に『新開隼人』がいて、だが、それを疎みながらも兄の背中に憧れて追い続けてしまう自分もいる。憧れと嫉妬は案外同じ場所から生まれるのかもしれない。
 
「新開さんは確かにスゲェよ。速いうえに練習量も体力もハンパねぇ人だったからな」
 黙っていた銅橋が目を開けて応えた。腕組みを解いてペットボトルに手を伸ばし、半分ほど残っていた中身を一気に飲み干してボトルをぐしゃりと潰す。
「泉田さんもスゲェけどオレは新開さんとも走ってみたかった。オレが練習してきたことは間違いじゃなかったってのを、あの人を追い抜くことで証明してみたかったからな」
 負ける気はしねぇと不敵に笑う銅橋が癇に障り、悠人は思わずキッと睨んでしまった。
「隼人くんは銅橋さんなんかに負けないっすよ。だって最強最速っすから」
 絶対に負けない、とムッとして頬を膨らませる。すると悠人を見る銅橋の片眉が徐々に吊り上がり、しまった殴られるかもと歯を噛み締めたが予想外に目の前の先輩は頬を緩ませた。
「ブハッ! おめェさぁ、新開さんが嫌いなのか好きなのかどっちなんだよ」
「どっちって……オレが兄貴を悪く言うのはいいんすよ。でも、他の人が隼人くんをけなすのは許せないんすよね」
「はぁ? バカかてめェは。ハナっから自分でわかってんじゃねーかよ。兄ちゃんスゲェって思ってんだろ? なら他人がどう言おうがいいんじゃねぇの? ったく……アホらしすぎて付き合ってらんねぇ」
 銅橋は悠人をひと睨みすると傍らに置いたジャージを肩に引っかけて、「つーか掃除に戻れよ1年」と一向に動かされないデッキブラシを顎で指図した。悠人が握るブラシを見て一瞬だけギョッとした様子だったが、「アホの相手は疲れる」とボヤきながら立ち上がって歩き始める。悠人はブラシと銅橋を交互に見ながら見送ったが、肝心な質問を忘れていたことを思い出して銅橋のジャージを掴んで引き止めた。
「銅橋さん、もう一つだけいいすか?」
「ああ? ナンだよ」
「オレのことつまんないって言いましたよね? あれってなんすか?」
 その問いに「は?」と銅橋が首を傾げる。
「んなこと言ったかぁ?」
「言いましたよ。入部して最初の自己紹介のときに。クライマーって言ったときっす」
 銅橋だけではない。今までに何度も『つまらない』と言われてきた。言われるたびに自分の全てを否定された気がして、悠人はあの言葉が大嫌いだった。
「自己紹介んときのクライマー? ああ、アレか。新開さんの弟が入学してくるって話は知ってたんだよ。新開さんから直接聞いたわけじゃねぇけど部内でケッコーな噂んなってたし。で、新開さんの弟っつーことはやっぱスプリンターなのかって思うだろ? だから勝負してぇって思ったんだよな。あの人の弟なら当然速ぇだろって」
(また『隼人くんの弟』か……)
 いつになってもその言葉が付きまとう。自分は『新開隼人の弟』で、『新開悠人』として見てくれる人はほぼいない。兄の名前は悠人にとって立ち塞がる大きな存在だった。
「新開さんを負かしてやりてぇって思ってるヤツはたくさんいる。あの人に負けたんなら特にな。でもよ、新開さんはもう卒業しちまったからそれは叶わねぇ。だからせめて弟とって気になんだよ。なのにフタ開けてみたらクライマーじゃねぇか。そもそもの畑がちげーのに勝負なんかできるわけがねぇ。だからつまんねぇって言ったんだよ」
 わかったかと銅橋が視線を向け、悠人の手からジャージを引き剥がして頭にタオルを被り直す。
「それって、オレがつまんないって意味じゃなくて?」
「あ? てめェはバカか? いつオレがんなこと言ったんだ」
 銅橋の目は嘘をついているようには見えなかった。まっすぐなその視線に悠人の気持ちが少しだけ緩んでいく。
「オレね、いつも言われるんすよ。つまんないって。だから兄貴と比べてオレはつまんない人間なのかなっていつも思ってたんすよね」
「オレはつまんねぇなんて思ったことはねぇぜ。まぁ、変なヤツだって思ってるけどな」
 ソレとか変わってんだろ、と悠人の頭にあるお面を指で弾く。
「つーかなんなんだよ、ソレ」
「……これは、お守りっす。オレがオレであるための」
 幼い頃のある夏の夜、近所で催された夏祭りに両親と兄と4人で出かけ、そこでお面を買ってもらった。
 兄は当時流行っていた戦隊アニメの主人公のお面を選んだ。その主人公は強くてカッコよくて、男子なら誰しもが憧れるヒーローだった。悠人も同じものにするかと聞かれて、自分はヒーローになれないからと泣いて母親を困らせた覚えがある。悲しいけれどヒーローは兄であって自分ではない。それに変な意地のせいで兄と同じものは選びたくなかった。
 最初は渋々選んだ女の子のお面も、被っているうちに不思議と気持ちが楽になった。兄も「ソレもかわいいね」と褒めてくれたし、お面を被ればそこにいるのは『新開隼人の弟』ではなくなる。『兄と比べられる新開悠人』じゃない、ヒーローに憧れる一人の女の子になれた。それからは嫌なことがあったときや自分を隠したいときにお面を被るようになった。お面は悠人を別人に変身させてくれるお守りなのだ。
「お守りだぁ? やっぱ変わってんな。なんの意味があんのか知らねえけど、んなモン被んなくてもてめェはてめェだろうがよ」
「……銅橋さんはオレと隼人くんを比べないんすか?」
 銅橋にとっては突然すぎる妙な質問だったかもしれない。しかしその質問をバカにすることなく、銅橋はニヤリと悠人に笑い返した。
「比べてどうする。そもそも新開さんとてめぇは違う人間だろ」
 長年抱えてきた悠人の悩みをいとも簡単に、なんでもないようにあっさりと否定する。この人が自分と同じ立場だったならこんな悩みも気にせず、くだらないと笑い飛ばしてしまうのかもしれない。
「マジでアホなんじゃねぇの」
 大きな身体を揺すって笑う銅橋の姿に、なんて朗らかに笑う人なんだろうと釘づけになった。その笑顔には怪物と恐れられるものはなにもない。
「銅橋さんて、意外と笑った顔がかわいいんすね」
 からかっているわけではなく、それが素直な感想で思わず口からこぼれていた。
「はぁ? なに言ってんだ? やっぱてめぇの考えてることは理解できねぇわ」
 辟易した顔で銅橋が悠人の肩を小突く。だがそれは軽いもので痛みはない。「さっさと掃除しろよ」と言って今度こそ部室を出ようと悠人に背を向けた。
 肩を押さえながら銅橋の広い背中を見つめる。なんとなく頭からお面を外して机に置いた。銅橋に自覚はないだろうが、彼の言葉が悠人の背中を押す。なんとなく避けてしまっている兄にも、今なら久しぶりにメールでも送れそうな気がした。そうだ、銅橋のことを訊いてみるのもいいかもしれない。
「銅橋さん!」
 部室のドアから身体が半分出かけていた銅橋が、呼び止める声に振り向いた。小さく「げ……まだなんかあんのかよ」と言ったのも聞こえないふりをして駆け寄る。
「銅橋さん、またお話ししてもいいすか?」
「あ? 話ぃ? オレは話すことなんかナンもねーよ」
「そんなことないっすよ。オレ、もっと色々知りたいなぁ。銅橋さんのこと」
「オレのことだぁ? マジで物好きなヤツだな……まぁ、練習の邪魔しねーってんなら相手にしてやってもいいぜ。ダベってばっかのヤツは嫌いだからな」
「ほんとっすか!? ありがとうございます! フフッ、銅橋さんって優しいっすよね。そのギャップってズルいなぁ。オレ、好きになっちゃいそうですよ」
「はぁ?」と目を白黒させる銅橋にニッコリ微笑んで背を向ける。チラリと振り向いて銅橋に手を振り、ブラシをくるくる回しながら掃除の持ち場に戻った。
「新開くん、これ。置きっぱなしだと捨てられちゃうよ?」
 机に置いたままだったお面を差し出され、受け取って頭に被り直す。
「鼻歌なんて、なにかいいことでもあった?」
「鼻歌?」
「うん。今、掃除しながら歌ってたよね。だからなにかいいことでもあったのかなーって思ってさ」
 きょとんとする悠人に「いや、言いたくなかったらいいんだ」とコバヤシが遠慮がちに笑う。その顔にフッと微笑んでお面で顔を覆い、「内緒」と背を向けてその場を逃げた。
(鼻歌なんて歌ってたんだ。オレ、ずいぶん浮かれてるなぁ)
 この気持ちは誰にも見せたくない、ひとりだけの秘密にしたかった。暖かいものが胸に満ちてお面の中で顔が緩む。嬉しくて顔を隠したことは今までになかったかもしれない。
 お面のふちをそっと指で撫でた。今はまだお守りとして必要でも、いつかはただのお面に戻る日がくるかもしれない。顔を隠さなくても悠人自身のままでいられるような日。
(銅橋さん、笑ったときの口もおっきかったな。あれじゃヒーローよりも悪役って感じだけど)
 大きく身体を揺すって笑う姿を思い浮かべ、悠人もフフっと小さく笑ってお面を上げる。あの先輩の色々な表情が見てみたい。
 

2.
「おめェ、いい加減にしろよ」
 顔をしかめて腕組みをしながら銅橋が睨む。なにに対して怒っているのかがわからず、「なんすか?」と小首を傾げて問いかけた。
 昼休み、ご飯を食べた後は銅橋に会いに行くのが最近の悠人のマイブームだ。悠人もそうだが銅橋のクラスメイトたちももう慣れたもので、入り口から覗く前に「席にいるよ」と教えてくれる。この日も同じように教室を訪ね、その悠人に対して銅橋が「いい加減にしろ」と発したのだった。
 銅橋の前の席、この席の持ち主が快く貸してくれた椅子に座って、飲んでいたバナナオレのストローを口から離す。
「なんすかってなぁ、この状況だよ。いちいち教室までくんじゃねぇよ。さっさと自分とこに戻れ」
「えーっ、まだ昼休みは20分もあるじゃないっすかぁ。オレ、昼休みは銅橋さんに会いに行くって決めてるんすよね」
「勝手に決めてんじゃねぇ。それにオレは飯の後は寝たいんだよ」
「じゃあ銅橋さんが寝るの見てます」
「はぁ!? ざっけんなよ」
「いいから、オレのことは気にせずに。どーぞどーぞ」
「バカじゃねぇの……」
 アホらしいと言いながら銅橋が机に伏し、本当に寝るつもりのようで両腕に額を乗せて顔を隠す。
(顔伏せちゃうんだ。寝顔見たいのに)
 仕方なく頬杖をついてその寝姿を眺めていると、長めの襟足についた寝癖が目に留まり、それをそっと指でつまんでみる。下から銅橋の「やめろ」と言うくぐもった声が聞こえたが、構わずに指を入れて梳いた。寝癖を直してあげるつもりだったが、持ち主に似てなかなか強情な髪の毛はすぐにあらぬ方向にピンと跳ねる。
 しばらく寝癖と格闘していたのだが、「くすぐってぇんだよ」と顔を上げた銅橋は無情にもガシガシと襟足を掻きむしった。
「やめろって言ってんだろーが。人の髪でナニやってんだよてめぇは」
「襟足に寝癖がついてたから直そうかなって思ったんすけどね。いやあ、なかなか直らなくて」
「寝癖ェ? んなもんほっときゃいいんだよ。気になんねぇし」
「でもはねてるっすよ」
「いいっつーの。触んじゃねぇよ」
 強めに拒否されてシュンとしていると横から銅橋に非難の声がとんだ。一つ机を挟んだ席に集まっていた3人組の女子が「バッシーひどーい」と声を投げる。
「悠人くん、そんなヤツに構わなくたっていいのに」
「そうだよ。こっちおいでよ」
「甘いの好き? これあげる♡」
 悠人に向けて細い手が伸び、両手を出して受け取るとかわいいピンク色の包装紙が手のひらに転がる。それはバナナ味のチョコレートだった。
「あざっす。わぁ、バナナ味!」
「悠人くんいつもバナナオレ飲んでるから、バナナが好きなのかと思って。ねえ、なんでバッシーのとこなんかにいるの? 次からはこっちに遊びにおいでよ」
「そうそう。昼寝しちゃうヤツなんかほっといてさぁ」
 くすくすと笑いつつも声が柔らかいのは冗談のつもりなのだろう。クラスでバッシーと呼ばれているのも新発見だったし、意外にもクラスではからかわれる立ち位置なのかもしれない。銅橋は「うるせぇ」と呟いて舌打ちしたが、彼の言い方も普段部室で聞くよりも穏やかだった。
「オレだってなあ迷惑してんの。寝れねえし、うるせえし」
「え? 迷惑だったんすか? オレ、気がつかなくて……ごめんなさい」
 素直に謝ると銅橋が気まずそうに「いや、つーか謝んなくてもよぉ」としどろもどろになる。「あーあ、バッシー悪者じゃん」とまた非難の声が飛び、たまらず銅橋は悠人の腕を掴んで「ちょっと来い」と教室の外へ連れ出した。
 どこまで行くのかわからなかったが、手を引かれるまま素直に従って歩く。悠人の手首を掴む銅橋の手は温かく、少し太い指も大きな手のひらも、同性なのにすべてが自分とは違っていた。腕を引かれて歩くこのシチュエーションが少女漫画のようでなんだか余計にドキドキしてしまう。
 銅橋が先導して階段を上り、向かった先は屋上だった。昼休みも残り時間が少ないためか晴れているのに屋上は閑散としていた。
「うわ、すっごいイイ天気っすね。山行きたいなあ。自転車でのぼったら気持ちいいだろうなあ。ね、そう思いません?」
 遠くまで広がる青空と頬を撫でる風の気持ち良さにテンションが上がる。ニッコリと銅橋に問いかけたのだが「山は好きじゃねぇ」と苦い顔で短く応えた。
「クライマーってやつはほんっとすぐ山に行きたがるよな。マナミもそうだけど、オレには坂が好きって気持ちが全くわからん」
「ん? そうすか? 坂があるってだけでテンション上がりますけどね」
「……わかんねぇ」
 手すりにもたれて景色を眺める。遠くには小田原の市街地が広がり、その向こうにキラキラしているのは相模湾だ。
「あれ? 向こうの白いのって富士山っすよね。学校から見えるって隼人くんが言ってたけど、ホントに見えるんだ。秦野も駅から見えるんすけど小さくて。やっぱり見る場所が近いと大きく見えるなあ」
 ね、とはしゃぐ悠人に銅橋もつられて口もとを緩ませる。だがすぐに真顔になり、「なんのつもりだ」と低い声で凄んだ。
「ん? やだなぁ怖い顔しちゃって。どうかしたんすか?」
「最近なんかしらねーけどやたらと絡んでくるよなぁ。懐くんなら同じクライマーのマナミか目ェかけてくれる黒田さんだろ。なんでオレにくっついてくんだよ。なにがしてーんだてめェは」
「なにがしたいって……オレは銅橋さんと一緒にいたいだけなんすけど」
「は? 一緒にいたいって意味がわかんねぇ。オレはなぁ、懐かれんのは苦手なんだ。だからもう教室にもくんじゃねぇ」
 わかったかと悠人に問いかけたが返事を求めるような訊き方ではなかった。有無を言わさず黙って従えという意味の言い方だった。そして言いたいことを言って満足したのか悠人を置いてさっさと入口へ向かってしまう。大きな背中を見送った悠人は再び手すりに背中を預けた。
「あーあ、行っちゃった。でも、色んな銅橋さんが見れたからまぁいっか。フフ。バッシーだって。葦木場さんみたい。いいなぁ、オレもそう呼びたいな」
 少しは銅橋に近づけているだろうかと考えた。一方的に悠人が話しかけているだけだが、質問すれば一言二言は返してくれる。隣でローラーに乗っても嫌な顔はされなくなったし、他の1年に比べたら仲はいいと思っているがまだなんとなく壁が残る。
「どうしようかなぁ」
 誰に言うでもなく呟いて、遠くに見える富士山を恨めしく睨む。なかなか縮まらない距離のもどかしさに深いため息をついた。

-ペダル:銅悠
-,

int(1) int(2)