【新荒】片想いが溶けるまで

◆◆ caption ◆◆
・大学2年の新荒です。
 両片想い→いろいろあった末に結ばれるお話。(高校時代はつき合っていません。ただし、性行為あり)
・2ページ目後半に性行為描写があります。苦手な方はご注意ください。

≪注≫
・待宮くんin洋南大学設定。他にも“佐々木さん”という先輩がでます。
・登場はしませんが新開さんに彼女がいます。
・Pixivに投稿済みですが、話の筋は変えずに文法や言い回し等を全体的に修正しました。

これは私が初めて書いた長編の新荒話で、とても思い入れが強いお話です。
書き方や文節がめちゃくちゃでしたが、これを越えられるお話は今でも書けていないような気がします。

 
 固く目を閉じて枕に歯を立て、漏れる吐息を隠すように思いっきり噛みつく。
 クリスマスの箱根には珍しく雪が降っていた。カーテンの隙間から漏れる冷気が火照った肌に染み込み、荒北靖友は後ろから突かれるたびに小さく呻き声を立ててシーツを握った。
「ちょっと抜くな」
 彼が体内を去る感触とともに下半身に広がっていた圧迫感がなくなる。仰向けになるように身体を動かされ、はずむ息を抑えながら素直に従う。
 両足を高く抱え上げられたせいで腰が宙に浮いた。露わにされた後孔に再び彼が押し入り、胸の奥から喉にかけてむず痒いような苦しいような甘い感覚が奔る。彼を受け入れる瞬間はいつもこの感覚に襲われて、この瞬間が荒北は一番好きだった。
 何度も突き上げられて、そのたびに必死に声を抑える。手の甲を噛み、それだけでは足りずに腕の肉を噛む。行為のあとは自身の噛み跡で腕が赤く腫れてしまうのが常だったが、それでも構わずに腕を噛んで言葉を抑えた。
「もう……いい?」
「……っん、オレももうでる……」
 薄暗い室内で交わされるのはいつも必要最低限の会話と吐息だけだった。
 クリスマスが終われば新年を迎え、すぐに受験が始まる。興味本位で始まったこの関係ももうすぐ終わるのだろうか。
 卒業してもこのまま続くとは思えなかった。
 環境が変われば彼はきっと忘れてしまうのではないかといつまでもそんな思いに囚われている。彼をとりまく大勢の中から自分が特別な一人に選ばれるとは到底思えなかった。お互いの気持ちを確かめたことはないが、かといって確かめるのも怖い。
「靖友……」
 名前を呼ばれても目を開けられなかった。
 もうじき達してしまう。こんなときに顔なんて見たらうっかり好きだと口にしてしまうかもしれない。新年など来なければいい。このまま時間が止まってしまえばと思いながら、荒北は声を押し殺して果てた。

 
1.
 高校を卒業してから2度目の冬。
 11月も半ばを過ぎ、陽の落ちる時刻はずいぶんと早くなった。工学部が所属している6号館を出ると、18時前にしてすでに外はまっくらだった。
 建学祭が終わったキャンパスは、今度はクリスマスに向けて一気に浮き足立ち始めている。つき合いたてのカップルが急に増え、学食でクリスマスソングが流れるようになった。
 この時期だけイルミネーションが灯される並木道を、荒北は憂鬱な気分で部室棟へ歩いている。クリスチャンでもねぇくせによォと毒づく彼は、一年の中でこの時期が最も嫌いだった。

 個人によって差はあるが、10月末で今季の荒北のレース期間は終わっていた。
 現在はロードバイクにも乗らず、筋トレ等の基礎練習もしない回復期間に入っている。あと数週間もすれば軽いトレーニングメニューが始まるが、それまでは年に一度だけの短い休息期間。本来は部活棟に近づくことすらないのだが、次シーズン用の練習メニューを取りに来いと先輩に呼び出され、荒北は寒空の下を渋々部室へ向かっていた。
「2年、荒北、入りやーッス」
 ドアを乱暴にノックして中を覗くと呼び出した張本人は不在で、代わりに室内にいたのは金城慎護だった。
 突然の訪問者にペダルを漕ぐ脚を緩めて金城が振り返る。身体を濡らす汗の量を見ると一時間ほどは乗っていたのだろう。先週末に行われた浜松クリテリウムが金城の今期最終レースのはずで、もう年内の大会はない。レース後のトレーニングにしてはずいぶんハードワークだと思ったが、大会の結果を思うと乗らずにはいられなかったのかもしれない。
「またローラーやってたのかヨ。ったく、このクソ寒い時期に乗るヤツの気が知れねェ」
 自転車を降りた金城にベンチに置いてあったタオルを投げる。一緒に置かれていた書きかけの練習日誌には、こなしたメニューがビッシリと書き込まれていた。
「まぁな。来年に向けて基礎は作っておきたくてな。それに、福富もまだ乗っているだろう」
「……あー、間違いなく乗ってんネ」
 荒北は高校時代のトレーニング風景を思い浮かべた。
 福富寿一は箱根学園自転車競技部の創始者である父親と、現役ロードレーサーの兄を持つロードレーサーの家系で育った。彼自身も箱根学園の自転車競技部に入部し、3年のときには部の主将を務めている。
 いついかなる場合でも強者でいなければならなかった彼の重圧は、並み大抵ではなかっただろう。主将でありながらも彼の練習量は人一倍で、部活だけでなく、時間があれば個人練習に明け暮れていたのを荒北は知っている。
 荒北は目の前の金城を見ながら、福富と金城は似ていると思った。
 勝利への飢え。強さへの執着心。決しておごらず、ストイックなまでに自らを追いつめる姿勢。そして、不器用で誠実でバカ正直な性分。
 似たもの同士は引かれあうのだろうか。大学に進学してからも互いを認め合うようなライバル関係は続いているようだった。
「ちょっと走り込み過ぎなんじゃねーかァ?」
 ベンチに腰掛けて日誌を覗き込みながら問いかける。日誌には几帳面な字で『全力スプリントを3セット、回復走を挟んでアタック用のメニューを3セット』と記されていた。
「まァた膝壊したらどーすんだよ、オメーは。練習にも程度ってもんがあンだろーが。また故障でもしたらどーすんだよ、バァカ」
 高校最後のインターハイで金城は左膝を痛めてリタイアしている。一生に一度きりのレースにおいて福富との対決を、自身でのゴールアタックをどれだけの思いで断念したのか。
 荒北にも肘を痛めて野球人生を諦めた経験があるので金城の気持ちもわからなくはないが、今は完治しているらしい膝をより鍛えようと少々無理をしすぎるのは金城の悪い癖だった。
「金城、オメーがレースに出れなくなったらこっちが困んだヨ」
 練習量に呆れて文句を言うと、金城はドリンクを飲もうとした手を止めて驚いた顔をした。
「まさか心配してくれるのか?」
「はぁ? ったりめーだろーが! オメーはうちのエースだぞ。悔しいのはわかっけど、もっと自重しろっ! いいから今は休め!」
 一気に捲くし立てて閉じた日誌を金城に押しつけると、彼は「わかった、もう終わりにする」と珍しく素直に頷いた。
 
*
 部室をあとにして、ひとりで来た並木道を今度は金城と歩く。ブラスバンド部や軽音楽部が演奏する音が遠くから風に乗って流れてきた。
「さっみ! なんでこんなに寒ィんだヨ。これだから冬ってヤツは好きじゃねぇ」
 黒いマフラーを首にぐるぐると巻き直して、風を少しでも避けようと背中を丸める。すると金城が
「荒北。お前、夏も嫌いって言ってなかったか」
と白い息を漂わせながら笑い、荒北は「オレは暑いのも寒いのも嫌いなんだヨ」とモッズコートのポケットに手を突っ込んだ。
「そういえば聞いたか? 佐々木さん、結婚するらしいぞ。子供ができたそうだ」
「え、さっサンがァ? マジかよ!?」
「ああ。本当だ。荒北が来るまで部室にいたんだが、そのときに聞いた」
 佐々木義人は一学年上の洋南のエースクライマーである。酒が強くて口が悪く、それでも後輩の面倒見がよくて憎めない先輩だった。荒北は1年の頃から何かと彼に絡まれて、飲み会やレース会場を引っぱりまわされた。それでも大学内やロード界隈での知り合いが増えたのは彼のおかげだった。
「結婚なんて早くねぇ? まだ21だぜェ? まぁ、ガキができたンならしょうがねぇか……」
 自分と年齢がひとつしか違わないのに、その歳で生涯の伴侶を持つという。結婚ともなれば今のような自分だけの生活とはワケが違うのだろう。家族を支え、かつ、男なら自分が養っていかなければならない。
 いつかは自分にもそんな相手ができて、結婚を考えたりする日がくるのだろうかとぼんやり思ったが、荒北にとってそれはまったく想像もつかない未来だった。
「いや、べつに早いわけでもないだろう。オレの地元の仲間はすでに何人か結婚して、子供がいるヤツもいるからな」
「エッ、タメで子持ちィ!? ってまさか総北の誰かじゃねーだろうな?」
 総北の知った顔を思い浮かべる。
(まぁ、東堂が騒いでねーから巻島はないものとして、あのでかいスプリンター……もねぇか)
「ハッ! あのメンツじゃまずねーナ」
「いや、案外わからないぞ。巻島はもちろんだが、最近は田所にもなかなか会えていないからな。もしかしたらがあるかもしれない」
と、神妙な顔をして金城がメガネのフレームをあげる。名前を挙げなくても荒北が誰を想像していたのか彼にはちゃんと伝わっているようだった。
「いーや、どう考えてもねーだろ」
 ナイナイ、と目の前で手を振ってみせると、金城はフッと小さく笑ったが突然マジメな顔をして荒北を見た。
「お前こそどうなんだ? 箱学メンバーとは連絡を取っているのか?」
 金城の問いかけに荒北の笑い顔が一瞬だけひきつった。慌てて「急になんだヨ」と目を逸らしても金城は無言のままじっと荒北の横顔を見ていた。
「あー……福ちゃんはたまに連絡してる。東堂は勝手にメールがきてうぜェ」
 そんぐらいだネ、と努めて軽い口調で返してみる。
(コイツが一緒に帰ろうだなんて珍しいとは思ったけど……なんのつもりだァ?)
「つーかさァ、大学入って環境もつき合いも変わってんだから、連絡ってそんなに取らなくなるモンなんじゃねェの? それにオレは元からマメじゃねぇし」
と自嘲すると、「そうか」と呟いて金城は押し黙った。
「どーしたァ金城」
 笑顔が消えないように顔に張りつけさせる。
「いや、浜松で福富と新開に会ったんだがそこでお前のことを訊かれてな。なんとなくだが気にしているようだったぞ」
「えっ!? 福ちゃんがァ? なんだよーったくよォ、直接オレに連絡くれりゃーいいのにさァ。そーか、そーか、福ちゃんがオレのことをねェ」
 誰が、とも言われていないのに勝手に福富ということにした。横顔に金城の視線を感じたがそれも気がつかないフリをして、「さみぃなァ」と視線を遮るようにコートのフードを被る。
「……さっサン、結婚なんてよォ、学校どーすんだ? あと1年あンのに」
 金城はまだ何か言いたそうにしていたが荒北はワザと話題を戻した。
「……まだ未定らしいが辞める選択肢も考えているそうだ。出産のために金が必要だと話してたし、だから式も挙げないそうだ」
「マジかよ。実業団入りの話もあったのにナ」
「まぁ、まだわからないことだ。とりあえずお祝いは何か考えよう。お前は特に世話になっているからな」
「なってねーヨ! 連れ回されてんの! 礼がほしーのはこっちだっつーの」
 辟易したような顔を装い抗議すると、金城は何も言わずに笑った。
「荒北の声は大きいのぉ。響いてうるさくてかなわん。暗いのにきしゃっとわかったわ」
 後ろからの声に驚いて振り向くと、そこには輪行バッグを肩にかけた待宮栄吉が立ってていた。その姿に荒北は「はァ!?」と歯を剥き出して詰め寄る。
「おーおー、そがぁに威嚇せんでも。金城、2代目野獣使いは大変じゃのぉ、エエ?」
「誰が野獣だコラァ」
 荒北に凄まれても待宮は涼しい顔で前髪をイジる。
「待宮も今帰りか? 今日は部に顔を出さなかったな」
「コイツがちぃと調子が悪ぅて。シーズンも終わったし、オーバーホールに出さにゃぁいけんのじゃ」
 待宮は肩に提げた袋を愛おしげにすりすりとさすって目を細めた。彼も先週の浜松でレースシーズンを終えている。出場できなかった荒北の代わりに金城のアシストを担ったのが待宮だった。
 待宮を加えて横並びで歩いていると、「そうじゃ」と何かを思い出したように待宮が携帯電話を開いた。
「そーいやぁ知っとるか、荒北。おまえんとこの福富とあの鬼のスプリンター、全日本の強化選手に選ばれたらしいのぉ」
 その言葉に荒北は金城と顔を見合わせた。知ってたかと目線で問いかけられ、首を横に振って知らないと応える。
「井尾谷から電話がきてのぉ。15時過ぎに発表された情報らしい。井尾谷はワシに福富の情報をすぐに教えてくるけぇ」
「……待宮ァ、オメーまだ根に持ってんのかヨ」
「まさか。もはやただの趣味じゃ」
「うぇ……気持ちワリィ」
「良くてファン、正しくはストーカーだな」
「なっ、金城までそがぁ言わんでもええじゃろ!?」
 金城に詰め寄りつつ待宮は強化合宿は年明けに始まるとか、他にも数名選ばれるらしいとか、他にも色々話していたが、荒北は彼らの会話は頭に入ってこなかった。
 夏に行われたインカレでは、トラック競技とロードレースの両方で高得点を獲得した明早大学が総合優勝を飾った。そしてトラック競技の個人男子スプリントでは、優勝候補だった新開隼人が期待通りに2連覇を達成した。浜松でのクリテリウムでも1、2フィニッシュを飾ったのは福富と新開だった。
 あのふたりなら選ばれて当然だと元チームメイトとして誇りに思う。それなのに、ふたりの朗報を耳にするたびに嫌な気持ちが胸を占めるのも事実だった。
 また置いて行かれたという劣等感や、まだ追いつけないという焦燥感。同じ競技の選手として嫉妬もしているかもしれない。しかし、それだけならどうにでもできる。
 勝てないのならさらに練習すればいい。
 かつて福富に「毎日人の三倍練習しろ」と言われた荒北は、ひとりでそれを実行した。シンプルな目標はわかりやすくて好きだったし、練習をすればするほど結果として目に見える。
 それよりも厄介なものは長年心の奥底に隠したままの感情だった。
 どうにもできなくて、誰にも言えずに隠すしかなかったもの。このまま最初からなかったことになればいいと期待していたが、今になってもまだ燻り続けている。モヤモヤした気持ちを抱えたまま、すでに3年が経とうとしていた。
 ハァ、とため息をつきながら見上げたイルミネーションが目に眩しい。抑えているある想いが波立つのはいつもこの時期だった。
 今日のように風が冷たい寒い日は、治ったはずの右肘が少し疼いて最悪な気分になる。荒北は横を歩くふたりにバレないようにフードを深く被り直し、ポケットの中で拳を固く握りしめた。

 
2.
 酩酊した意識で夜道を歩いていた。
 深夜に近い時間帯のせいか気温はかなり低く、アルコール臭い白い息が顔にまとわりついて溶けて消える。それでもアルコールのおかげで寒さは感じなかった。
 大学を出た脚で待宮と金城と自転車屋に寄った。そのまま軽く一杯のつもりで居酒屋に入ったが、待宮に煽られてついつい飲みすぎてしまった。
 荒北と待宮が揃うと、どちらがより飲めるのかいつも意地の張り合いになる。現在の戦績は10勝11敗8分けだが、今日は勝敗が決する前に金城のストップが入った。まだ飲めると抗議しても「今日はもうやめておけ」と渾々と諭され、結局そこで解散した帰りだった。
 足がもつれて立ち止まる。
 自分が思うよりも酔いが深く、家まで送ると言った金城の提案を素直に受けておけば良かったと、荒北は今さらながらに後悔していた。シラフだったら家まで10分程度のこの距離も、酔いに眠気も相まって道のりは果てしなく長い。
 何度目かのつまずきにうんざりして荒北はため息をついた。
 前方に自販機の明かりを発見して酔い醒ましに水でも買おうと財布を探ったとき、コートのポケットに入れたままだった携帯電話が震えた。おぼつかない手つきで取り出してみると、着信画面には『東堂尽八』の文字表示されていた。
「ヨォ、東堂チャン。ひさしぶりィ」
「……荒北? どうしたのだ一体。東堂ちゃんなどと気味が悪いぞ……」
 東堂の怯えた声に気分を良くした荒北は「とーどーチャン、とーどーチャン」と何度も歌うように繰り返した。呼ぶたびにテンションが上がって、自分でも何が楽しいのかもわからずひたすら笑う。
「荒北、お前大丈夫か? もしかして酔っているのか?」
「そーそー、オレ、今酔ってんのォ。待宮と金城と飲んだ帰りィ」
 携帯電話を肩と耳で挟み、財布を取り出して自販機に近づく。小銭入れを開けようとして盛大に中身をぶちまけた。ついでに電話も落としてしまい、派手な音をたてて地面を転がっていく。
「どうした!? 荒北!?」
 少し離れた場所で東堂の慌てた声が響いていた。それをノロノロと追いかけ、拾った電話を耳にあてる。
「あー、悪りィな。金とケータイ、飛んでったわ」
「飛んでったって……大丈夫なのか? お前そんなに飲んでるのか?」
「だいじょぶだってェ。こんなんよくあるし、オレはぜんっぜんまともだからァ」
 話しながら何とか小銭を拾い集め、それをザラザラと自販機に流し入れる。
「荒北、充分まともではないぞ。お前に話があったのだが……今話しても忘れてしまいそうだな」
「だいじょーぶだってェ、ちゃんと聞けっからァ」
 ペットボトルを取ろうと自販機の前に屈む。うっかりその姿勢のまま寝落ちしそうになって、慌てて体を起こした。眠ってしまう前に何とか帰ろうと買ったボトルを手にしてまた脚を動かす。
「荒北、本当に大丈夫か……?」
「あ? へーきへーき。で、ナニ?」
「フクと新開が全日本の強化選手に選ばれたのはもう知っているか?」
「あ? キョウカセンシュ? あー! らしいな。でも福ちゃんならとーぜんだろ」
 強化選手という言葉を理解するのもやっとで、荒北の脳みそはそろそろ限界が近いらしい。
「それでだな、ふたりの壮行会的なものを開催しようと思うのだが、荒北、お前は強制参加だからな。必ず来るのだぞ」
「ソウコウカイ? あー、ちょっと待て」
 ペットボトルのキャップが開けられず、携帯電話を地面に置いた。なんとか開けて口をつけたが含んだ水の量はほんの少しで、なぜか襟元が広く濡れた。濡れて冷える服をつまみつつ、荒北は再び携帯電話を耳にあてた。
「なぁ東堂ォ。水がいねェんだけどさァ、どこ行ったんだろーなァ。口ん中に入ってこねェんだけど」
「水がいない……? おい、それはどんな状況なんだ? というか周りに誰かいないのか?」
「あー、ひとり。つーかマジでだれもいねェ」
 静まり返る住宅街に荒北の声が響いた。
「そんな状態でひとりで帰るな! ならんよお前は本当にっ……! こんなときはこの距離を、何も助けてやれないことを恨むよ」
「ハッ! なんでオメーが謝んだヨ。助けるってそりゃームリだろ。ココ、静岡だぜェ?」
「……わかっているが心配でな」
 ボソッと呟く東堂の声が眠気のせいでやけに遠い。
「なぁ荒北……物理的な距離というのはどうにもならず歯がゆいな。離れてしまったのだと本当に実感させられる。寮では誰かしらがそばにいたし、何かあった場合にすぐに助けることもできたが……今はそれも叶わない。お前が熱を出したときも隼人がすぐに気がついて、対処も早かったな」
「……だったなァ」
 高校時代の冬の時期、風邪をひきやすいくせに薄着でないと眠れない荒北はよく熱を出していた。荒北の体調の変化に一番に気がつくのはいつも新開で、何かと世話を焼いてくれるのも彼だった。
 だが新開は加減を知らなかった。
 看病のためとはいえ、スポーツドリンクやゼリー、何に効くのかわからない栄養ドリンクまで大量に買ってくる。自身の小遣いを使い果たしてしまったらしく、あとになって「新開に泣きつかれて大変だった」と東堂に小言を漏らされたことは今でも忘れない。
 熱にうなされて目を覚ましたとき、横のデスクチェアに座る新開を見てひどく安心したのを覚えている。風邪がうつるから自室に戻れと行っても聞かず、自分は滅多に風邪を引かないから平気だと笑っていた。
「……そういやぁ誰かさんはオレのドリンク盗ってたよネ。風邪うつるっつって何もしてくんねーし」
「む!? それは違うぞ。あれは新開が自分がやるからっていつも譲らなかったのだ! それにフクだって何もしてなかったはずだぞ」
「福ちゃんはァ、いてくれるだけでいンだヨ」
「はぁ!? なんだその扱いの差は。けしからんな!」
 結局、新開が買ってきたドリンクを飲みきる前に回復し、寮の共同冷蔵庫に詰め込んだせいで寮母にずいぶんと怒られた。おまけに小遣いを使い果たしたせいで新開はしばらく昼食が買えず、彼へのお詫びとしてふたりで学食を分け合って食べた。
 酔いも手伝ってか思い出がどんどん頭をよぎる。どれもが新開とのものばかりだった。
「……会いてぇな」
 思わずポロッとこぼした言葉は無自覚だった。口にしてはいけないことを言ったような気がして、なんとか思い出そうとしたがもう覚えていない。「荒北」と呼びかける東堂の声で現実に引き戻されて、気がつけばあとひとつ角を曲がれば恋しい我が家だった。
「東堂チャン、もうすぐ家着くわ。ちゃんと生きて帰れてっから心配すんな」
「荒北、今度はちゃんと参加するんだぞ。お前はいつも忙しいだなんだと言い訳して顔を出さないからな」
「いやいや、オレ、ほんとに忙しンだってェ」
 実際に荒北は毎日慌ただしい生活を送っていた。自転車の練習はもちろん、レベルの高い授業内容についていくのも大変だったし、実験やレポート課題も多く、3年への進級を前にこの先の専攻も決めなくてはいけない。それを理由にしていつも誘いを断っていたが、正しくはただ会いに行けないでいるだけだった。
「壮行会なんだからなっ! フクのために絶対参加しろよ」
「あー、時間が合えばァ」
「お前なぁ……こんなときに言ってもしょうがないが、皆心配しているのだぞ。卒業以来、新開に連絡をとっていないらしいな。ケンカでもしているのか? お前らがそんな調子なのはどう考えてもおかしいだろ」
 痛いところに触れられて言葉に詰まった。答えたくない気持ちと、疲労と眠気で頭の中はぐちゃぐちゃで、一気にすべてが面倒になった。
「わーったヨ! ちゃんと行くってェ」
「絶対だぞ? 酔って覚えていないなどと絶対に言わせんからな。また連絡するからな!」
 水分をしっかり取って暖かくして眠るのだぞと言って電話が切れた。お前は母ちゃんかと言ってやりたかったが、眠くてすでに唇は動かなった。
 鍵をジーンズのポケットから引っ張り出して乱暴に鍵を開ける。携帯電話をベッドに放り投げ、着替えもせずその上に倒れこんだ。
 ベッドにめり込みそうなほど身体が重い。目を閉じれば宙をぐるぐる回っているようで、だんだんと吐き気が込み上げてきた。
 酔いが酷い。
 身体の下で携帯電話の震えを感じたが手に取る気力もなかった。それでも電話は身体の下でしばらく震え続け、止んだかと思えば再び震え始める。2度目の着信を感じたところで荒北の意識は途切れた。

 
3.
 2限目に間に合うよう走ってきたがあいにく授業は休講だった。
「ハァ!? またかよ……」
 寝坊したせいで掲示板を確認し忘れた自分が悪いのだが、苛立ちに舌打ちして頭をガシガシかく。
 次の講義は90分後。家に帰るにも中途半端な時間で、仕方なく荒北は部室へ行くことにした。
 自主トレを行う部員もいないこの時期、部室は荒北にとって格好の仮眠室になっている。先輩に貰った合鍵で開錠し、床にカバンを放り投げてベンチに横たわった。暖房は入れられないのでモッズコートの前をしっかり閉めてフードを被る。
 目を閉じたがなかなか眠気が訪れない。どうしたものかと何度か寝返りをうっていると部室のドアが開く音がした。
 なかなか入ってこないのでフードの隙間からそっと覗いてみる。すると入り口には金城が呆れた顔で立っていた。
「荒北、お前、電話はどうした? メールで休講情報を送ったんだが」
「え? あー、ワリィ。今持ってねぇわ」
「……ここしばらく電源も入っていないだろう? お前に連絡がつかないとオレが代わりに先輩にどやされるんだぞ」
「あー……ほんとワリぃ」
 寝るのを諦めて起き上がると、「こんな所で寝るのは寒いだろう」と金城に缶コーヒーを手渡された。受け取った缶は冷えた手には熱いほどで、危うく落としそうになった。
「何があったのかは知らないが、とにかく東堂に電話してやってくれ。お前に連絡がつかないと巻島づてに連絡がきてな。東堂が取り乱しているらしく、巻島が困っている」
「ハァ? 東堂ォ? なんでェ?」
 だが、金城は応えずに入り口へ向かった。
「今日は早く帰って寝たらどうだ? 最近、顔色が酷いぞ」
 代返くらいならしてやってもいい、と笑ってドアが閉まる。
「オメーの声じゃすぐにバレんだろーが」
と独りごちながらカバンを拾い、荒北は素直に部室をあとにした。
 
*
 ベッドの下に投げっぱなしだった携帯電話を手に取り、充電器のコードを繋いで電源を入れる。
 酔いつぶれた次の日、東堂から着信があったことまではかろうじて覚えていた。だが、何を話したのかはまったく覚えおらず、再度用件を聞こうと携帯を手にしたときに不在着信表示を見つけたのだ。
 2件の不在着信。何気なく確認したそこには『新開隼人』の名前が残っていた。
 なぜ今になって連絡をよこしたのか想像もつかない。確かめるために掛け直す勇気もなくて、携帯の電源を切って投げた。それが一週間前のことだ。
 電源が入った画面には不在着信と未受信メールを知らせる表示が点滅していた。
「ハァ!? んだヨ、これ」
 ほとんどが東堂からで、残りは金城、先輩、自転車競技部の部員が数名。東堂からの着信履歴に恐怖を覚えると同時に総北の緑頭を思い出して同情した。
 まずは東堂に電話をかけることにした。
 履歴を呼び出して通話ボタンを押す。コール音が鳴る間、延々と小言を言われるであろうことを想像してため息がでた。だが、珍しく電話は繋がらないまま留守番電話のアナウンスが流れ、舌打ちして終了ボタンを押した荒北は「とりあえず電話はしたからナ」と誰にでもなく呟いた。
 次にメールを開いてみると繋がらない電話への抗議メールと、福富と新開を祝う飲み会のメールが届いていた。日にちと場所が細かく記載され、ていねいに店の地図までリンクが張られている。
 東堂はこういったところは昔からマメだった。
 普段は自分の話題か女子の話題がほとんどで、ふざけているように見える男だったが、幹事的な役割りや人をまとめる能力は優れていた。
 飲み会の日づけを確認した荒北は慌ててカレンダーを見直した。メールに記載された日づけは3日後の金曜日だった。
「あぁ!? 今週じゃねーか! しかも都内かヨ」
 ベッドにもたれ、目を閉じて考える。
 まず頭に浮かんだことは『このまま飲み会に参加しない』だった。東堂の怒った顔が容易に想像できたが、今までと同じく「忙しくて」と返事をすれば済むだろう。
 その次は『飲み会に行って新開に確かめる』、だった。
 いつからこんなに臆病になったのだろう。いつだって前だけを見て進んできたはずだった。それなのに今はどうだろう。まるで昔の、肘を壊して荒れた15歳の自分に戻ってしまったかのようだ。終わったものをごちゃごちゃと考えて、いつまでも引きずってしょうがない。
 深呼吸をして瞼をあげる。選択は当然2つ目だった。東堂に「行く」とだけメールを送って携帯を閉じた。

 
4.
 東海道本線の遅延の影響で、居酒屋に到着したのは約束から一時間も過ぎたあとだった。
 遅れそうだとあらかじめ東堂に連絡していたがまさかここまで遅くなるとは思わず、新開の件もあってなかなか入店の踏ん切りがつかない。それでもずっとそこにいるわけにもいかず、来てしまったものはしょうがない。両手で頬を叩いて発破をかけると「よし」と呟いてドアを開けた。
 案内されたテーブルは簡易的な個室に仕切られた座敷タイプの部屋だった。大部屋をすだれで各テーブルごとに仕切り、周囲の客は互いが見えないようになっている。
「待ち合わせのお客様がお着きになられました」
 引き上げられたすだれの内側には福富、東堂、そして新開の3人しかいなかった。壮行会という名目上、大人数で集まっているのかと思ったが思わぬ少なさに拍子抜けした。
「遅かったな荒北。お前なぁ、携帯は携帯しないと意味がないのだぞ」
「久しぶりだな、荒北」
 並んで座る東堂と福富の懐かしい顔。東堂はトレードマークのカチューシャを外し、伸びた髪を後ろで結んでいた。人を指さす無礼なところは今も変わっていないらしい。
 福富も腕を組むポーズや鉄仮面ぶりは健在だった。荒北が憧れていた、何事にもどっしりと構える強い福富のままそこにいて、思わず頬が緩む。
「遠くまでありがとよ、靖友」
 少しだけ鼻にかかる柔らかい声。身体の奥がチリッと痛んだが、それに気づかないフリをしてふたりの向かいに座る新開を見た。大学入学後も何度かレースで見かけたが声をかけることはしなかった。眺めるだけで過ごしてきた相手が今目の前にいる。
 昔と同じ柔らかな空気を纏っているが、高校時代に感じられた脆く危うい雰囲気はどこにもなかった。以前よりも成熟した、男性の色香を放っている。数多くの大舞台で勝利してきた自信がそうさせているのかもしれない。その佇まいに一瞬見とれ、でもすぐに視線を逸らして東堂に詰め寄った。
「東堂てめぇ、なんで福ちゃんの隣り座ってんだァ? そこはオレの席だろーが」
 東堂の肩を掴み、立たせようと揺すってみたが彼は珍しく譲ろうとしない。
「オレだってフクとは久しぶりなんだ。たまには部長と副部長で並んでもいいではないか」
「あァ!?」
「なぁ、フク」
「福ちゃん!」
 ふたりに同時に声をかけられて福富が目を瞬かせる。その様子に苦笑した新開が「まぁまぁおめさんたち」と止めに入った。
「新開、オメーも笑ってんじゃねーヨ。つーかメインが隣り同士で座ればいんじゃねーの?」
 新開の隣りだけは気まずくて、何とか回避しようとしたが「残念だったな! さっき席替えしたばかりなのだ!」と東堂がニヤリと笑った。
「あァ? 席替えって……合コンかヨ」
「合コン? 荒北は合コンに行くのか?」
 腕組みしたままやり取りを見守っていた福富がそこで割って入る。
「福ちゃん……そこは喰いつかなくていいトコだからさァ」
 誤魔化そうとしたが無言の福富にじっと見上げられ、昔からなぜかこの目に逆らえない荒北は、小声で「行ったヨ」と白状した。
「でもっ、先輩に連れてかれただけで自分から参加したんじゃねぇから! マジで。信じてくれるよな? な?」
「荒北、とりあえず座ったらどうだ? どうやらお前の声はかなり目立つらしい……」
 東堂に袖を引かれて他に客がいたことを思い出す。何組かがすだれを上げてこっちの様子を伺っていた。
「靖友。とりあえずここ座れよ」
 自分の隣りをポンポンと手で叩いて新開が微笑む。数秒だけ躊躇したがどうにもならず、東堂をひと睨みした荒北は渋々新開の横に腰かけた。
「靖友、久しぶりだな。元気だったか?」
「……福ちゃんの隣りじゃなくて、今元気ナクナッタ」
「ははっ。まぁ、オレの横で我慢してくれよ」
 我慢どころか本当は今すぐにでも逃げ出したい。入り口でかけた発破など、新開の顔を見た瞬間に粉々に砕けていた。
 先に集まっていた3人はすでに話題が済んでいるのか、3人の近況報告もそこそこに荒北に話題が移った。東堂が矢継ぎ早に質問し、荒北の話を聞くフリをして結局自分の話題に持っていく。この会話の流れは高校時代に戻ったかのようで懐かしく、あの頃は口喧嘩ばかりしていた東堂だったが、今日ほど彼に感謝したことはない。東堂のペースで話が進み、それに応戦していると新開を気まずいと思う暇もなかった。張りつめていた緊張もほぐれてアルコールが進んでしまう。
 荒北が参加して一時間ほど経ったとき、福富の携帯電話が鳴った。それを確認した福富がそろそろ辞すると告げる。
「えぇ!? 福ちゃん帰っちまうのォ!?」
 引き留めるようと彼の腕を掴んだが、東堂がふたりの間に割って入った。
「元々フクには予定があってな。でも他に空きがなくて無理言って今日にしてもらったのだ」
 話を聞くと福富の兄が海外から一時帰国をしているため、このあと身内で集まるのだという。「ひさしぶりなのにすまないな」と謝る福富に、「代表、オメデトーな。福ちゃんなら当然だと思ってたヨ」と伝えて見送った。
 
*
「で、合コンに行く荒北さんは彼女はできたのかね?」
 意地の悪い笑みを浮かべながらテーブル越しに東堂がにじり寄る。明らかにからかいを含んだ笑顔に荒北は思わず舌打した。
「るっせんだよ! ったく、下らねーことをいつまでも覚えてんじゃねぇヨ」
「そうだろうなぁ、それじゃできないよなぁ」
と、満足そうに東堂が頷く。
「できてねぇなんて言ってねーだろうが」
「いやいや、言わずとも態度でわかる」
「ハァ? じゃー始めっから聞くんじゃねェヨ」
と東堂の額めがけて手を振りあげたが、おろす瞬間に避けられてしまう。
「じゃぁ今のところは新開だけか。これじゃ昔と変わらんな。荒北に彼女ができていれば、巻ちゃんにいい土産話になったというのに」
「あんだとォ!?」
と東堂に詰め寄りかけて手が止まった。
「……え。新開、カノジョいんの?」
 荒北が驚きを持って見つめると「あー……まぁね」と新開がバツが悪そうに頭をかく。それを見た荒北の口から「ハッ!」と乾いた笑い声が漏れた。
「なんだよ、いんのかよ。あ、アレだろ。彼女っつーのはどーせまた細っせー体型で貧乳なんだろ? 東堂知ってるか? コイツの貸してくるAVって貧乳ばっかで、女優がすっげーほっせーの。で、ちょいブスでツンデレ学園モノ。いっつもそんなんでよー、ヌけねーヌけねー。オレはさァもっとむっちりしたくらいが好きなんだヨ。貧乳よりはでかいほうがぜってぇイイだろ。んで、口がでかくて……こう、コイツみたいに厚かったらサイコーだナ」
 自分の唇を引っぱりながら東堂に向けて一気に捲し立てる。新開の顔は見れなかった。
 荒北の剣幕に押されながらふたりを交互に見た東堂は、
「いや、可愛いい子だったぞ? 貧乳……ではないと思うが……」
と、 少し戸惑ったように新開に視線を送る。ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した新開は「彼女の話は今はいいだろ」と珍しく吐き捨てるように言った。
「尽八、ボタン押してくれるか」
「ぼ、ボタン?」
「これ。おかわり頼むから」
 空いたジョッキを新開が揺らす。「あ、ああ、わかった」と東堂は慌ててオーダー用のボタンを押した。
「……というか、アレだな! お前らの好みってお互いを指しているみたいだな。細くて貧乳でブスが荒北で、ぽっちゃりで唇オバケが新開」
 まったくフォローにもならないことを言った東堂は、この微妙な空気を変えようとしたのかもしれない。だが、結果的にそれが良かった。
「誰がブスだァ!?」
「誰が唇オバケだって?」
 思わぬところで声がハモり、新開と荒北はふたりで顔を見合わせた。お互いフッと笑って「ハモるなよ」と口にした言葉がまた重なる。新開の表情から硬さが消えて、彼は少しだけ躊躇しながらも「じつはな」と口を開いた。
「正直もうダメかもしれない」
 困ったように笑って、新開が頬をかく。
 続きを聞きたかったが訊いてもいいのかわからず、じっと新開の言葉を待った。だが、「何かあったのか!? それは別れそうな状況ってことか?」と東堂は遠慮なしに問いかける。
「おい、言いたくなきゃ言わなくていンだぞ新開。東堂ォ! テメーもズカズカ踏み込んでんじゃネーヨ」
 東堂の額を指で軽目に弾くとパチンと軽快な音がした。
「だって、心配ではないか。友人が辛そうにしているんだぞ? これが聞かずにいられるか」
 額をさすりながら東堂が荒北を睨む。そんな東堂に「ありがとよ尽八」と薄く笑い、新開は運ばれてきたビールをひとくち飲んで続けた。
「彼女とはつき合いだして1年くらいになるかな。自転車の練習と試合が忙しくてなかなか会うための時間が作れないんだ。最初はそれでもいいって言ってくれてたんだけど、でも、元々そんな状況なのに今度は強化合宿も始まるだろ? 合宿の話ししたら泣かれちまって……情けない話、オレは何も言ってやれなかったんだ」
「それはあれか? よくある自転車とわたしのどっちがってヤツか?」
「まぁ、そんなとこかな」
 東堂の問いかけに困ったように眉を下げて新開が笑う。
「ハァ!? なんだよそれ。比べるモンじゃねーだろ! オメーはんなこと言うバカ女とつき合ってんのかよ? このボケナスがァ!」
 思わず膝荒北は膝を立てて新開に詰め寄っていた。「あ、荒北!?」と東堂に制止されて初めて新開の胸倉を掴んでいたことに気がつく。一度火がついた苛立ちは収められず、渋々手を離したが納得できない。
「荒北、大丈夫か……? ここでお前が新開に掴みかかってもっ――
「わーってる! だってよォ、あんとき、コイツがどんな思いで戻ってきたかも知らねーんだぜ!? んなヤツが自転車と私ダァ? ハァ!? 知るかよ、うっぜ!」
 怒りを込めて言い散らし、チッと舌打ちして新開を見る。胸の奥のざわつきが不快だった。
「テメーももっとマシな女とつき合えヨ。ったく何やってんだ、このバァカ!」
 勢いで自分のジョッキを空け、ムシャクシャついでに新開のビールも流し込む。驚いた他のふたりが止めに入ったが、構わず一気に空にした。
「荒北、なんでお前が怒ってるんだ?」
「……おめさん大丈夫か?」
 ふたりをチラリと一瞥して、「うぜーんだよ」とどちらにでもなく言葉を返す。
「靖友、ありがとな」
 横を向くと困り顔で微笑む新開と目が合った。
「……礼とかうぜーんだよ。ってか何もしてねーし」
 言い散らかしてスッキリしたのか苛立ちは徐々に引いた。だが、途端に自分のしたことが恥ずかしくなり、とりあえず間がもたなくて荒北はまたビールを呷った。
 ふと、畳についた荒北の手に新開の手が重なった。偶然かと思い、置いた手をずらそうとしたが動かせない。むしろギュッと強く握られたせいで彼の行為がわざとだと知った。
 振り払おうとしたが強い力で押さえつけられてできなかった。離そうとすればするほど、新開の手に力が込められ、彼の指が逃がすまいと絡まる。テーブルの下で。誰にも見られないように。
 新開を睨んだが彼は素知らぬ顔で東堂と会話を続けていた。荒北を見ようともせず、それでも手を離しはしない。荒北は彼の真意がわからず、もうどうにでもなれとやけくそで目の前のビールをひたすら飲んだ。
 
**
 揺れる感覚に意識が戻る。それでもまだ半分以上は夢の中で、今が現実なのかそれとも夢の続きかがわからない。
「え!? まさか背負って帰る気か?」
「ああ。オレが連れて帰るよ。今日はどの道そうしようと思ってたんだ」
 間近でふたりの声がして、同時に荒北の身体がまた揺れた。揺れるたびに懐かしい香りが鼻先に漂い、もっと嗅いでいたくて目の前に見えた赤茶に鼻をすり寄せる。そしてそのまま頭を預けて目を閉じた。
「匂い……スゲーなつかし……」
 長年焦がれていた新開の匂い。これが夢なら覚めなければいいと、荒北は揺れに身を任せた。

-ペダル:新荒
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int(1) int(2)