【新荒】片想いが溶けるまで

 眩しくて目が覚め、重い瞼をあげると知らない天井が目に入った。見渡した部屋に見覚えはなかったが、室内に置かれていた黒いサーヴェロがここが誰の部屋なのかを物語っていた。
 黒や青で統一された室内に、暖色系の雑貨が映える。それらは新開が選びそうもない色だったので、有無を言わせず彼女の存在を荒北に思い出させた。
 気だるい身体をノロノロ起こす。とたんに酒臭い息とひどい頭痛に襲われて、また飲み過ぎたのだと理解した。
 襟足をかきむしりながらうなだれると、テーブルの下が目についた。積まれた雑誌の中に紛れたシワシワの紙。ハッキリ見えたわけではなく実物すら見たこともないので、アレがそうなのかはわからない。ただ、テレビでよく見る婚姻届と同じだった。
 見てはいけないものを見た。その事実に身体が震えて一気に冷える。
 先輩の結婚報告を受けたときとはまったく違った。まさかここまで衝撃を受けるとは思いもせず、早鐘のように鳴る自身の鼓動が耳に煩くて、新開が目の前に来たことにも気がつかなかった。
「靖友? 大丈夫か? 水持ってきたけど飲めるかい?」
 目の前に水の入ったグラスが差し出されたが、受け取る気力もなくて頭を横に振る。
「ワリぃ……もう少し寝るわ」
 足を伸ばしてまたベッドに横たわると、新開はベッドのサイドランプだけを残して灯りを消した。
「明るいと寝れなかったもんな、おめさんは」
 そう言って自身はベッドの脇に背を向けて腰を下ろす。そのままふたりとも何も言わず、しばらくして仄暗い室内に紙のこすれる音が響いた。また本でも読んでいるのだろう。ページをめくる間隔が長く、こんなときはいつも推理小説を読んでいたはずだった。
 読書が好きな新開は一緒にいてもよく本を読んでいた。
 読む本は推理小説が多く、トリックを考察しながらじっくり読むのが好きだと嬉しそうに話していたのを思い出す。「靖友も読んでみたらいいよ」と何冊か勧められたがどれも小難しくて、飽きて突っ返すのが常だった。
 荒北は自分が本を読むよりも、小説を読んでいる新開の横顔を見ているほうが好きだった。漫画を読むフリをしながら彼の静かで穏やかな横顔を見ていた。
 目の前にある背中をじっと見つめる。
 手を伸ばせばすぐ届く距離に新開がいて、わずか2年前まではこれが当たり前だった。消灯時間まで何をするでもなく一緒に過ごし、ときには消灯後にこっそり逢瀬を重ねる――。もう過ぎてしまった取り戻せない時間が恋しくて、荒北は思わず新開の背中に頬を寄せた。
 頬の下で鍛え上げられた背中がピクリと揺れた。
「新開、オメーさァ……結婚……すんの?」
 唐突な質問だっただろうか。声が震えないように精一杯虚勢を張ったが見破られていないだろうか。
 返事を求めているわけではなく、むしろ聞きたくもなかった。ただ、見つけてしまった婚姻届を前にこのまま言わずにいることが耐えられなかっただけだった。
 しかし、意に反して新開は背中を向けたまま何も応えなかった。
「……なんでオレは女じゃねーんだろーナァ」
 つい、口に出していた。ヤバいとは思ったが長年の想いが堰を切ったように唇を開かせる。
「……オメーがさァ、結婚するってのは正直聞きたくねぇ。彼女がいたってだけでもイヤんなるってのにヨォ……でも、いつか誰かに結婚したって聞かされんのもヤなんだよナ」
 新開の背中から離れて仰向けになった。「いきなりこんなん、ワケわかんねぇよな」と自嘲しながら髪をかきむしる。
「ハッ! 想像したらさァ、死にたくなンだよネ……こんなんヤベェよなァ。ごちゃごちゃ考えんのは好きじゃねぇってのによォ……まいるぜ。まぁ、アレだ。とりあえず、オメーの良さもわかんねぇよーな女はやめとけヨ……」
 眠気に負けて後半は何を言いたいのか自分でもわからなくなっていた。新開が振り向いて何か言った気がしたが、聞き取ることもできずに眠りに落ちた。
 
*
 頭痛とともに目が覚めた。ともすれば閉じてしまいそうな瞼を必死に開けて身体を起こす。
 すでに新開は起きていたらしく、呻く荒北に「大丈夫かい?」と苦笑して本を閉じた。グラスに何かを注いでソファから立ち上がると、「持てるか?」と荒北の手を取ってグラスを渡す。
「ベプシはないけど炭酸水ならあるからさ。飲んだら少しはスッキリすると思うぜ」
 グラスの中で小さな気泡が揺れて弾ける。どんどん湧いて片っぱしから消えていくのを荒北はじっと眺めていた。
「オレは今日寿一と一緒に大学で取材があるんだけど、おめさんどうする? 土曜だし、まだ辛いならこのまま寝ててもかまわねぇけど」
「あー……泊めてもらって悪かったナ。迷惑だったろ? でェ、あの、オレさァ……お前に何か……何か言わなかったか?」
 顔をあげる勇気は微塵もなく、グラスの泡を見つめたままで問いかける。
「ん? 何かって?」
「いや、なんもねーんならいい」
 グラスに入った炭酸水を一気に飲み干す。
「大丈夫。迷惑だなんて思ってないし、何も言ってなかったぜ。オレも本読んでたらいつの間にか寝ちまってたしさ」
 荒北の頭をポンと叩いて微笑むと、新開は空になったグラスを持って立ち上がった。彼の顔は普段通りで、荒北が昨日何か言ったようには見えなず、思わず安堵のため息が漏れる。
「あー、よかったァ。昨日店出てから何やったか覚えてねぇんだわ。ヤベェこともしてねーみてぇだし、マジでホッとした」
「……覚えてないって……よくあるのか?」
「最近多いかもナ。つい飲み過ぎちまって」
 ついつい飲んじまうんだよな、と頭をかくと新開の表情が曇った。
「なぁ、昨日はオレがいたからよかったけど、飲み過ぎるのはもうやめてくれ。前に尽八から聞いたけど、おめさん、かなり酔っぱらって酷かったらしいな。何かあったらどうするんだ? そうやって周りを心配させるようなことはもうするなよ」
 静かだが強い口調で諌められた。睨むような視線を向けられて、明らかに苛立っている新開を見るのはこれが初めてだった。
「……心配させるって……オレが何したってオメーには関係ねーだろ」
 自分が悪かったとしてもついつい反論してしまうのは昔からの荒北の悪い癖だった。いつもならそれをわかったうえで諭してくれる新開だったが、今回ばかりは譲らず、「もうしねぇって約束してくれ」と繰り返す。
「あァ!? だからてめーには関係ねーだろ!? ったく急に何なんだヨ」
 二日酔いの頭痛と相まって、ワケもわからず責められるのは最悪な気分だった。
 記憶が曖昧になるまで飲み過ぎたのはたしかに自分が悪いし、泊めてもらった恩もある。それでも迷惑はかけていないと言ったのは新開だ。それなのにわけもわからず責められて、荒北も段々と苛立ちが募っていく。
 これ以上この場にいても口論が続いてしまいそうで、荒北はため息をつきながら立ち上がった。「もういい。帰る」と呟いてコートとカバンを乱暴に掴む。そのまま玄関に向かおうとしたが、新開が荒北の腕を掴んで引き止めた。
「靖友! 悪い……こんなふうにしたかったわけじゃねぇんだ」
 振り返って見た新開に先ほどまでの強い視線はなく、打って変わって泣きそうな目で荒北を見ていた。新開の表情で、また先に謝らせてしまったことに気がつく。
「前に酔っぱらったとき、尽八と電話しただろ? その後で尽八がおめさんの様子がおかしかったってオレに連絡くれたんだ。それ聞いてすげぇ心配したんだよ。おめさんに電話しても繋がらねぇし……」
(あぁ、なんだ。そんなモンか……)
 ふいに荒北の口から小さな笑い声が漏れた。
 あの日、新開の着信履歴に怯えた自分が惨めで、悩んでいたことがバカらしくて、それに対して出た笑いだった。
「あの日はすげぇ眠くて電話も気づかねぇで寝ちまったんだヨ。どんだけ酷かったのかわかんねーけど、ちゃんと家にも帰れたし、今ここにこうやっていンだから。そんな心配しなくても平気だってェ。それに酒飲めんのは今の時期だけだしな。ムダな心配してんじゃねーヨ」
 マジで大丈夫だから、と笑ってみせる。
「オメーは自分の心配でもしてろ。強化合宿っていっても結果ださねーとすぐ外されんだろ? オメーは甘チャンだからな。変に考えてっとすぐダメんなるくせに」
 まだ不安そうに眉をひそめる新開の頬を摘まみ、左右に引っぱってムニムニといじる。
「オラ、出かけんだろ? さっさと支度しろヨ」
 新開の背中を押して部屋へ戻す。「待ってっから」と言うと新開は慌てて着替え始めた。

 
6.
 部屋を出てから駅までの道のりはふたりとも無言だった。新開が何を考えているのかわかるはずもなかったが、荒北は彼のことばかり考えていた。隣りを歩く横顔を何度も盗み見ては、こうやって並んで歩くのはこれで最後にしようと今この瞬間を噛みしめる。
 荒北は新開との諍いを思い出していた。 

――前に酔っぱらったとき、尽八と電話しただろ? その後で尽八がおめさんの様子がおかしかったってオレに連絡くれたんだ。それ聞いてすげぇ心配したんだよ。おめさんに電話しても繋がらねぇし……

 新開が電話をくれた理由。それは至極単純なもので、あれこれ悩む必要もなかった。酔った友人の醜態を聞いて心配した、ただそれだけでしかない。
 察するべきだったのかもしれない。2年も連絡がなかった時点ですでに答えは出ていたのだ。もしかしたら新開も自分を想ってくれているかもなんて、何を勘違いしていたのだろう。
 バカ過ぎて笑えてくる。過去ばかり見ていたのは荒北だけだった。
 新開はとっくに前に進んでいて、彼が歩いている道は荒北とはもう違う。その証拠に新開の横には彼女がいて、荒北はそこにいない。だが、それが本来のあるべき姿なのだろう。淡い期待に縋っていた恋心は完全に途切れた。
 そもそもの話、新開には元から何もなかったのかもしれない。
 新開は昔からモテた。彼に好意を寄せる者は数多く、部活の『男女交際禁止』の掟がなければ相手などいくらでも選べただろう。そのたくさんの中から自分を選ぶわけがないとわかっていたのに欲が出た。
 肌を合わせるようになったのも興味本位からだった。多感な時期にたまたま荒北がそばにいただけで、それ以上の意味はなかったんだと思う。高校時代、ふたりの間にあったものは若さとただの性欲で、荒北はそれを恋だと勝手に勘違いした。それだけだった。

 新開の家から駅まではあっという間に到着し、切符を買ってホームに向かった。
「あ……静岡行くには逆方面なのか……」
 ホームに設置された案内板を見ながら新開が呟く。
(ハッ! まるで今のオレたちみてーじゃねーか……)
 心の中で自嘲気味に呟きながら荒北は何の気なしに空を見上げた。だが空は鉛色の厚い雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうな匂いがする。最後くらいは快晴の下で終わらせたかったが、どうやら人生はそう上手くいかないらしい。
「オレは新宿乗換だから……こっちか。新開、泊めてもらってほんと悪かった。でも、あんがとネ」
 軽い調子で声をかけると、家を出てから一度も荒北を見なかった新開がやっと荒北を見た。「やっぱり送りたい」と言う彼の表情は暗く、拗ねたときの下唇を噛む仕草は昔のままで変わらない。
「ハッ! わがまま言ってんじゃねーヨ。取材遅れんだろ! 福ちゃんを困らせたら承知しねーからな」
 軽快な電子音が流れて電車の到着を告げるアナウンスが響いた。「でも……」と渋る新開に「早く行け」と脛を蹴って送り出す。“早く行ってしまえ”という気持ちと“行かないでくれ”という想いに揺れながら、何度も振り返る新開を車両の入り口間際まで見送る。ドアが閉まる瞬間に「靖友!」と名前を呼ばれた。
(んな泣きそうな顔すんなヨ……ズリィじゃねーか)
 つられて泣いてしまいそうな自分を叱咤する。
(最後まで笑って、別れる)
 ドアに手をついて荒北を見つめる新開に、バァカと言ってあっかんべーをした。新開には最後までいつも通りの自分を見せていたい。精一杯の強がりだった。
「じゃあ、元気でナ」
 もう聞こえないだろう新開にさよならの言葉を告げた――
 
*
 残されたホームでベンチに腰掛けたまま荒北はしばらく動けなかった。
 電車が到着するたびにホームに降りる人を眺めて、新開が戻ってくることを期待していた自分に気がつく。しかし、何本か電車を見送るうちにようやく戻ってくるわけがないとハッキリ実感できた。
 電車の到着を告げるアナウンスが流れて、次の電車で帰ろうと重い腰をやっと上げる。
「あ、オメデトって言ってねェ……」
 オレが言うまでもねぇか、と呟いた声は電車の音でかき消された。
 新開を想う気持ちは告げないままでよかったのかもしれない。前途洋々の未来に進むだろう新開に余計な負担をかけさせたくなかった。
「っし! 行くかァ」
 ホームに電車が到着して、乗車口へと歩き出す。
 この先ただの友人として過ごす第一歩目は思った通りに重かった。

 
7.
 5講目を終えた荒北はこの時期に珍しく部室にいた。
 世間はクリスマスイブで浮かれているが、何の予定もない荒北は部室で自主トレーニングを行っていた。
 固定ローラーに乗って一時間が経とうとしている。浜松のクリテリウムを断念した太ももの張りも今は問題なく、脚は良く動いた。
 時刻は午後7時。
 窓から見える暗闇に一瞬の閃光が奔ったかと思えば、遠くから雷鳴が聞こえる。朝に見た天気予報で夜半は雨になると言っていたのを思い出した。
 静岡県は雪が降る代わりに雨が多い。たびたび白く光る闇を見ながら、出がけに傘を持たなかったことを後悔した。
 セットしていたタイマーが時間を告げる。ペダルを漕ぐ足を緩めながらドリンクで喉を潤す。ひさしぶりの自主トレだったがキツさはなく、ペダルを回している間は余計なことを考えずに済むのでむしろ気分はよかった。
 ベンチに置いた携帯電話が震えて着信を知らせていたが、それを横目に見ながらケイデンスを緩めた5分間の回復走を終えた。冬場でも固定ローラーに長く乗っていれば汗が噴き出す。額に伝う汗を拭いつつ荒北はベンチに腰掛けた。
 タオルで汗を拭きながら携帯電話を開く。着信履歴を確認すると、そこには思わぬ名前が残っていた。一時間ほど前に『新開隼人』、先ほどの履歴には『福富寿一』と記されている。慌ててリダイヤルボタンを押した所で画面が暗転し、“see you”の文字が現れて電源が落ちた。
「ハァ!? なんだよ!」
 元から携帯電話に執着しない荒北は、最後に充電したのがいつだったのか思い出せなかった。ふたりの着信は気になったが、「あとで連絡すっか」とひとまず携帯をカバンに放り投げる。ジャージを脱ぎ捨ててTシャツに着替え、「あちぃー」とベンチに身体を横たえた。
 運動後の充足感が心地良く、疲労の余韻を楽しむ。タオルを頭から被るとそのまま目を閉じた。
 

 肩を揺すられて目が覚めた。
「荒北」
 目を開けても頭がまだ働かず、ゴシゴシと目をこする。なんとか瞼をこじ開けて身体を起こすと、大きくため息をついた金城が隣りに座った。
「荒北、また連絡がつかなかったんだが。まったくお前は……」
 眉根を寄せる金城に「携帯ならあるけどォ?」とカバンから取り出して見せる。だが、先ほど電源が切れてしまったことを思い出した。
「あー、ワリィ。さっき電池きれちまってヨォ。何か用だったァ?」
 金城が無言で自分の携帯を取り出すと、それを荒北に手渡した。表示されていたのはメール画面で、それは福富からのものだった。
『新開がそっちに向かったようだ。荒北に伝えてくれ』
「お前に連絡がつかなかったらしく、代わりにオレにきたんだ。新開の様子が普段と違ったらしい」
「新開が? なんでだよ」
と、金城に聞いても仕方がないのに思わず口に出していた。金城は「さあな」と頭を横に振る。
「お前はとりあえず自宅に向かえ。新開は福富にお前のアパートの住所を訊いたそうだから、おそらくそっちに向かうはずだ。オレはこのまま残ってもう一度福富と連絡を取ってみる。万が一、新開が大学に来るようならお前の家に連れて行こう」
 状況が飲み込めず、動けずにいる荒北の肩を金城が叩く。
「お前が今何か思い詰めているのはわかっている。ここ最近の様子がおかしいからな。何が原因なのかは知らないがただ言えることは、逃げるな。オレの知っている荒北という男は決して逃げたりしない。前を向いてひたすら突き進むのがお前なんじゃないのか?」
 それを聞いて自分はまた逃げていたのか、荒北はハッとした。だからガラにもなく自主練なんてして、余計なことを考えないようにしていたのか。
「……ハッ! オレはそんなできたヤツなんかじゃねェ。オメーは買い被りすぎなんだヨ」
 そう言いながら急いで身支度をする。
 時刻はそろそろ午後10時を過ぎる。新開からの着信があった時刻からすでに4時間は経過したことになる。
「ワリィ、行くわ」
 金城の「お前なら大丈夫だ」の声が走り出した荒北の背中を強く押す。金城が言うなら大丈夫かもしれない、と思えてしまうのが彼のすごいところだ。荒北は鼻で小さく笑い、振り返らずに片手を挙げて応えた。
 
**
 予報通りに降り出した雨が地面に黒い染みを作る。点だった染みは急速に広がって、地面を黒く塗り潰して行った。思ったよりも雨脚は強く、一歩進むたびに全身を容赦なく濡らした。
 一心不乱に家へとひた走る。
 行きかう人々が雨の中の全力疾走を何事かと見ていたが、周りを気にする余裕はすでになかった。
 自転車とランニングでは使う筋肉が違う。自転車に乗り慣れた足では思うようにスピードが出せない。運動部で培った走るための足はもう5年以上も前の話しだ。気持ちばかりが先行して転びそうになり、喉の焼けるような痛みに胸をかきむしる。何度も立ち止まりそうになったが、そのたびにゴール前でのスプリントを思い出して自分を鼓舞した。
 アパートまで数メートル。エントランスの階段に座り込む人影が見えた。電灯に照らされた髪は赤茶色……。
「……しんっ、かいっ!!」
 呼吸も整わず、掠れる声で名前を呼んだ。雨に濡れてぐちゃぐちゃの顔で、それでもかまわずに駆け寄る。とにかく必死だった。こんなにもかっこ悪い自分は誰にも晒したことがない。
「よう、靖友」
 荒北を見つけて新開が無邪気に微笑む。彼が笑うと元から垂れた目尻がさらに緩み、それは荒北がずっと好きだった光景だった。
「おまっ……何やってんだヨ!? 濡れてんじゃねーか! バカかオメーは!」
 この寒空の下で一体どのぐらいの時間そこに座っていたのだろう。髪の毛から覗く耳や鼻の先は赤く染まり、雨が全身を濡らしていた。
「待ってたんだ。おめさんのこと」
 駆け寄って手に持っていた自らのマフラーを新開の頭にかける。マフラーもとっくに濡れていたが、新開を濡らす冷たい雨から少しだけでも守ってあげたかった。
 立ち上がる新開に手を貸し、握った手に冷たい体温が伝わる。
「オメー、どんだけココにいんだ!? いや、とりあえず早く中入れ」
 何で連絡しねーんだよ、と言ったものの携帯の電源が切れていたことを思い出した。手の中の指先は冷たくて、なぜあのとき着信に気がつかなかったのかと自らを恨んだ。
 ジーンズのポケットから鍵を取り出し、エントランスに立ったままの新開を連れて部屋へ向かった。

 鍵を開けて新開を招き入れる。
「タオルとってくっからココにいろヨ」
と、靴を脱ぎ散らしながら急いだが、突然後ろから抱きすくめられた。遠慮がちに回された手が、小さく震えている。
「……新開、離せヨ」
「嫌だ」
「……んなことしたら、オメーが濡れンだろーが」
「今さらだろ。もうとっくに濡れてる」
「……拭かねーと風邪ひくからァ。新開、いいから離せ」
 強めの口調で言ったつもりだったが、荒北を抱きしめる腕に余計に力がこもった。そして、新開の頭が肩に乗る。
「急に来てわりぃな。でも、ずっと会いたくてさ……。来ちまった」
 会いたくてのひとことに身体が震えた。鼻の奥が痺れるように熱くなり、涙腺が緩む。
「ハッ……そんなのはなァちゃんと顔見て言えヨ、バァカ」
 涙声はもう隠せなかった。
 新開の腕を解いて振り向く。今、新開が目の前にいることを確かめるように彼の頬を手のひらで包んだ。そっと頬を撫で、彼を濡らす雨をぬぐい、目にかかる長く伸びた前髪を指でかき分けて恋しい垂れ目を正面から見つめる。
「なぁ……顔見て言えヨ」
 言い終えると同時に新開の顔が近づいて、ふたりの唇が重なった。そっと触れるだけの軽い口づけだった。
「靖友、会いたかった」
 あのときやっぱり帰すんじゃなかった、と正面から抱きすくめられる。
(何で来てんだヨ……)
 背中にそっと腕を回して、服をきつく握りしめた。
「……オレの決意が台無しじゃねーか、このボケナスがァ」
 新開の首元に顔を埋めて涙を隠す。その頭に新開が頬をすりよせて「靖友」と名前を呼んだ。
「靖友……泣いてくれるってことは、それ……期待してもいいってことか……?」
「ハッ! なんだよそれ」
「だって、そうだろ? 違うか?」
 節くれだった長い指に髪を梳かれる。このまま素直にその通りだと答えてしまいたかった。それでも気にかかっているあることが、荒北に言葉を飲み込ませる。
「つーか、それ以前にオメーには彼女がいんだろーが」
 新開の突然の来訪で平静さをなくし、会いたかったのひとことに涙ぐんでしまったが、思い返せば新開には彼女がいる。おまけに今日はクリスマスイブなのだから、ここにいること自体がおかしい。
「だからァ、オレがお前をどう想ったってムリだろ。あんとき……オレは諦めるって決めたんだ。今さらどうこうしたって……」
 そこで言葉を詰まらせた荒北に、新開は静かな声で「とっくにフラれてるよ」と呟いた。彼の言葉に驚いて顔を上げると、目が合った新開が困ったような顔で笑った。そして涙が滲んだ荒北の目尻を指でそっとぬぐう。
「4人で飲んだ次の日、おめさんと駅で別れた日な。あの日にフラれてんだ」
「え、フラれたって……強化合宿の件でか?」
「いや……」
と、言いにくそうに新開が口ごもる。だが、荒北を見つめると意を決したように言葉を続けた。
「彼女とは……もうダメになりそうだったけど、おめさんに会ってオレの気持ちもはっきりしたんだ。やっぱりなかったことにはできねぇって。それで、彼女に気持ちを伝えたんだけど……。忘れられないヤツがいてしかもそれが男だなんていきなり言ったらさ、そりゃあフラれるよなあ」
 忘れられないヤツ、の部分に驚いて目を見張る。
「おめさんはどう思ってたかわかんねぇけど……オレはずっと忘れられなかったんだぜ。まぁ、忘れようって思ってたんだけどな。無理だったよ」
 知らないところで新開が自分を選んでくれていた事実が胸を熱くする。
「この2年間靖友からの連絡もなくて、オレからもなんとなくできなくて……オレだけがずっとくすぶってんのかと思ってた。正直、おめさんを問い詰めてやろうかとも思ったんだぜ? オレらの関係は何だったんだよってさ。でも、そんなことしてもうざいだけかなって思ったら……怖くて何もできなかった。ほんと情けねぇよな」
 自嘲気味に笑いながら新開が濡れた前髪をかきあげた。髪の毛から雫が垂れて頬を濡らす。
「靖友は覚えてないって言ってたけど……あの夜のおめさんの言葉が本当に嬉しかった」
「……言葉? つーかお前、オレは何も言ってねぇって……なんだよ、やっぱり何か言ってたんじゃねーか!」
 荒北が歯を剝いて抗議すると「マジで覚えてねぇんだな」と新開が小さく驚いた。
「でも、覚えてなくてもいいさ。ただ、オレはおめさんが女じゃなくてもかまわねぇし、あのときの言葉に背中を押されたのも事実なんだ」
「女ァ? なんだそれ。ったくワケわかんねー……」
 鼻で笑いながら新開の肩を小突く。するとその手を掴んだ新開が手の甲に優しくキスをした。一見キザなこの仕草も彼がやると様になる。荒北は思わず見とれて、されるがままに任せた。
「オレはもう後悔したくない。どう思われててもいいから、今度こそ必ずおめさんを掴まえるって決めてきたんだ」
 肩を引き寄せられてまた厚い胸板に抱かれる。
「おめさん、卒業したらどうするつもりだ?」
「え?」
 唐突な質問に拍子抜けして新開を見た。だが彼の表情はたじろいでしまうほど真剣だった。
「……まだ決めたわけじゃねーけど……機械工学科に進んでメーカーに入ろうと思ってる。一生レーサーで食ってけるだけのモンはオレにはねーからナ。そんぐらいは自分でわかってるつもりだ。それでもチャリに関わる仕事はしてぇなって思ってる」
 自転車に関わることで新開と少しでも繋がっていたい、というのが本音だったがそれは言わずに隠す。
「たしかに……自転車に関わっていればいつかはまた会えるかもしれない。でもいつかじゃダメなんだ。靖友……卒業したら絶対に戻ってきてくれ。オレはレーサーの道を進むつもりだ。だから……ずっとオレを支えてくれないか?」
「あ? なんだそりゃ。まるでプロポーズじゃねぇか」
 冗談のつもりで言った言葉だった。
 すると新開は荒北を抱く腕を緩め、濡れたカバンの中から封筒を取り出して差し出した。訝しげに思いながらも受け取って中身を取り出すと、中に入っていたのは新開の名前が書きこまれたシワシワの婚姻届だった。
 新開の部屋で見てしまい、自分の一切の気持ちを捨てようと決意したきっかけになった物。彼女のためだと思っていたモノが、今目の前にある。
「んだよコレ……」
 紙を握る手に力が入る。
「ほんとは高校の……卒業前に渡そうと思ってて……でも結局渡せなかった。何度も捨てようとして、でも捨てきれなかったんだ」
「ハァ!? てめぇはコレ、意味わかってんのか?」
 ふざけているのかと荒北は新開に用紙を突き返した。その荒北の手を用紙ごと新開の手のひらが包み込む。
「意味なら充分わかってる。あの頃はまだ自分に何ができるのかもわからなかった。それに……怖くて逃げたんだ。でも今は違う。なぁ、靖友……」

―これから先の時間、全部オレにくれないか―

 そう囁かれた。
「コレを書いても届出ができないのはわかってる。それでも……オレはおめさんに書いてほしい。そんで、一緒に暮らす日まで靖友に持っててもらいてぇんだ」
「……ハハッ……オメー、正気かヨ……」
 もちろん、と甘く耳に囁いた新開が荒北を腕に抱いた。突然すぎてされるまま立ち尽くす荒北をぎゅっと抱きしめていた。優しく、でも決して離さず。

 
「ックシュ!」
 どれぐらいそのままでいたのだろうか。新開のくしゃみでふたりがずぶ濡れだったことを思い出し、顔を見合わせて「さみぃな」と笑った。

 
8.
 たっぷりとお湯の張った浴槽は二人で入るには狭く、動く度に肌が触れ合う。
バスルームにピチャピチャとお湯とは違う水音が響いていた。バスタブの淵を掴んでいた荒北の手が思わぬ強い刺激に、股の間で揺れる新開の髪の毛を掴んだ。
「あっ……そこ、やばいって」
 鈴口を舌先で強くえぐられ、我慢していた声が漏れた。思わず赤茶の髪の毛を掴んだが、掴まれたまま新開が視線を上げた。
「ココ、強くされんの好きだったよな」
 そう微笑んでさらに舌を押しつけ、荒北の弱い部分をじわじわと嬲る。彼の肉厚な舌が溢れでる先走りを舐めとると、奥まで一気に咥えこんだ。
「あっ、しんっ、かっ……やばっ……」
 たまらず新開の頭を押さえる。果ててしまわないように奥歯を噛みしめ、射精感をこらえた。それをわかっている新開は敢えて動きを早め、さらに口の締めつけを強めた。
 頬をすぼめて舌を陰茎に密着させる。わざと唾液の音を大きく立てると、荒北の声も大きくなった。耐えていても荒北の腰は新開の動きに合わせて自然と揺れた。
「しんかい、はぁっ……も、あ……やべェって」
 途切れ途切れに喘ぐ声が、荒北の余裕のなさを表していた。射精が近い。反り返る陰茎を新開の手でしごかれて、彼の手が陰嚢を揉んだとき、勢い良く新開の喉奥へ放出した。
「あ……うぁっ……しんかいぃ」
 果てながら名前を呼ぶ。呼ばれた新開は精液をごくりと飲み干して唇を舐めた。荒北を見上げる目が欲情に燃えている。
「部屋、行こうか」
 肩を抱かれて浴槽を跨ごうとしたが膝に力が入らない。崩れ落ちそうな荒北を見兼ねて、新開が胸に抱え上げた。
「なっ、ちょっ……っざけんな! おろせ!」
 抵抗してももちろん敵わず、濡れたままベッドに横たえられる。
「もう我慢できねぇんだけど……」
 自らの性器をこすりながら新開が荒北に覆い被さる。黒髪を撫でる手のひらにうなじを掴まれ、赤茶色の襟足を握り返した荒北も顔を寄せてそれに応えた。
 食べられてしまいそうな荒いキスだった。口を大きく開けさせられ、そこに新開の熱い舌が侵入する。舌をこすり合わせ、甘噛みし、顔の角度を変えてより深く繋がる。口の端から唾液が垂れるのもかまわずに何度もなんども重ねあった。口内をかき回され、
「はぁっ……んっ、んん」
 わずかな隙をついて息を吸い、酸欠寸前になりながらも新開を離すことができなかった。長い間求め続けたものが目の前にあるというのに手を離せるわけがない。
 新開の足が荒北の股を割り、彼の指が臀部に触れた。指先を新開自身の先走りで濡らして荒北の後孔に触れる。痛みがないようにまずは小指が潜り込み、ゆっくりと中を探った。
 2年以上誰にも触れさせていないそこは慣れるまでに時間がかかる。なかなか一つになれない時間がもどかしくて、荒北は逸る気持ちを抑えながら、こんなときは女の身体ならどれだけいいかと思っていた。いじれば濡れて緩くなる身体が羨ましくて妬ましい。
 わかってはいるが、荒北の身体を気遣う遅い指の動きにすら歯がゆさを覚えた。挿入された指が荒北の身体に感覚を思い出させるようにじっくりと犯す。だが荒北自身、もう待てる余裕がなかった。
「しんかっ、い……も、あんま待てねェ」
 首にしがみついたまま新開の腹部に腰をすりつける。煽られた新開の指が一瞬動きを速めたが、すぐにまたスピードを緩めた。代わりにもう一本、指が侵入する。
「まだ挿れても痛いだけだから。な?」
 不満げな目をする荒北に、宥めるように囁く。
「いいからっ……早く、挿れろヨ。我慢できねぇんだって」
 催促するように新開の陰茎に手を伸ばし、竿まで垂れた彼の先走りごと上下にしごく。「う……」と呻いた新開が荒北を軽く睨んで苦笑した。
「せっかく抑えてるってのに……もう知らねぇからな」
「ハッ、だからいいっつってんだろ」
 新開と目を合わせながら硬く張った彼の陰茎を強くこする。この脈打つもので早く満たして欲しい、ただそれだけだった。
「早く来いよ、なァ」
 わざと耳に囁くと乱暴に股をこじ開けられ、中心に新開が腰を落とした。まだ溶け切っていない部分に亀頭が触れ、容赦なく突き立てられた。だが予想に違わずそこは新開の侵入を拒んで、半分も埋まらずに挿入が止まる。
「ってぇ……!」
 こじ開けられる痛みに怯んだ荒北は思わず新開の胸板を押し返していた。顔をしかめつつ薄目を開けると、押しのけられた新開が不安そうに眉を寄せている。
「靖友……すげぇ辛そうだな。やっぱりやめとくか……?」
「んな顔すんなヨ……大丈夫だからァ」
 そう言ったもののこのままでは入りそうもなくて、いったん引き抜かせると今度は新開を仰向けに寝かせた。彼の股を割り、そこに顔を埋める。少しでも早く挿入できるようにと反り返る性器に舌を這わせ、喉の奥まで咥え込み、口内に溜めた唾液でべっとり濡らした。
「じゃ、いくぜ」
 唇の端から垂れる唾液を手の甲で拭い、新開の腰に跨る。起立するものに手を添えて後孔に当て、少しずつ、ゆっくりと腰を落として深く挿れた。ひさしぶりの行為に鈍い痛みと違和感が全身に広がる。深く息を吐いて耐え、目を閉じて身体が慣れるのをじっと待った。
 新開の形をなぞるようにゆっくり腰を上げて、確かめるように静かに下ろす。そのたびにふたりの口からは短い吐息が漏れた。
 ゆるゆると動き出した荒北に合わせて、下から新開が突き上げる。同時に性器をゆっくりしごかれて、そこから与えられる快感が後ろの痛みを緩和した。
 身体が徐々に新開の動きを思い出していくようだった。圧迫感とキツさが減り、代わりに甘い心地良さを拾い始める。
 抜けてしまいそうなギリギリの場所で抜き差しされ、ふいに荒北の一番感じるポイントをえぐられた。喘ぐ声を抑えようと反射的に手の甲を噛んだが、それに気づいた新開が腕を掴んで引き剥がす。
「我慢すんなよ。おめさんの声が聞きてぇんだ」
 身体を起こした新開に抱えられながら繋がったまま後ろに倒された。腕をシーツに押しつけられ、何も隠すものがない状態で深く挿し入れられる。
「ひっ……あァっ」
 思わぬ高い声が漏れてしまい、羞恥で顔が熱くなった。そんな荒北を見ながら新開が小さく笑う。
「いつも我慢して枕か腕噛んでたもんな。おめさんの声、やっと聞けた」
「うるせェ……笑ってんじゃねェ」
 潤む目で睨んでも効果はなく、「意味ねぇよ」と意地の悪い笑みを浮かべる唇が重なった。
 膝が胸につくまで身体を折り曲げられ、新開の体重が乗る。奥深くまで犯されて、荒北は喉を反らせて喘いだ。
「奥、やべェ……」
「靖友……気持ちいい?」
 顔を覗き込んでくる新開の首に腕を回して絡めとる。目を合わせながら厚い唇に舌を這わせて挑発したが、新開の熱い息を間近に感じたせいでたまらず後孔に力が入った。
「そんなに締めると我慢できねぇんだけど……もっと強くしても平気か?」
 余裕のなさを滲ませる顔に欲情する自分はおかしいのかもしれない。思わずニヤリと口角を歪めた荒北は返事代わりに新開の陰茎を締めつけた。
「もう知らねぇ」
 ひとりごとのように短く呟いた新開は組み敷いた荒北を見下ろして舌舐めずりをした。首に絡む荒北の腕を乱暴にはずすと、自身の体重を乗せるように思い切り腰を打ちつけた。身体が壊れてしまうのではないかと思うほどに強く求められ、衝撃で喘ぐ声も出せず、掠れた息が絶え間なく荒北の口から漏れる。
 ふたりの腹部の間でこすれる陰茎が苦しくて、苦しさから逃れようと無意識で目の前の胸板を押したが、敵わずに喘ぐ口を塞がれた。厚い舌が口内を這い回り、歯がぶつかってもお構いなしで貪るように求められ、新開の激情を受け止めるのも必死だった。
「あっ……しんかいっ、しんかい……」
「ん、はぁっ……靖友……」
 何度も確かめるように名前を呼び合う。
 昔とはまた違う厚い胸板に抱きしめられながら、触れ合う肌の温もりを懐かしく愛おしく思った。こうやって触れ合うのは高校3年のクリスマス以来だろうか。腕を噛んで耐えていた自分に思いを馳せた。
 もう噛み跡は作らなくてもいい。
 想いを押し殺さなくてもいい。
「しんかい……すきだ」
 快感の狭間でずっと隠してきた言葉が口をついて出た。
 新開の首にしがみついて壊れたように何度も好きだと囁く。普段なら決して言えないことも、長年の気持ちが胸を押し上げて溢れ出てしまう。好きだと荒北が言うたびに新開も抱きしめる腕に力を込めて応えた。
「オレも好きだよ、靖友」
「すきだ……ずっと……あっ……しんか、いっ」
 好きだと自由に言えることが気持ちをさらに昂らせ、好きだと言われることがさらに涙腺を緩ませる。
「……すき」
 たった2文字がどれだけ苦しかったか。
「しん……っか……い」
 腰をしたたかに打ちつけられて、最後の声は声にならずもう出なかった。全身が硬直してつま先から頭へと快感が抜けていく。
 新開の背中に爪を立てる。射ぬかれるような視線を受け、溶けそうなほど甘く微笑む顔を見ながら果てた。身体の奥に注ぎ込まれる感触に幸せだと思いながら。

 
 何度か重なり合い、それでも離れがたいふたりはまだ繋がったままでいた。
 新開の手のひらが荒北の頬を包む。そのまま顔を寄せて額を合わせ、鼻先がぶつかったあとで唇が重なった。行為中の噛みつくような荒さはなく、啄ばむように何度もキスが落とされる。
「靖友」
「……ん?」
「好きだ」
 やっと言えた、と笑う新開は今にも泣きだしそうな顔をしていた。泣くか笑うかどっちだよと苦笑した荒北は「オレだってやっと言えたんだヨ」と呟くと、新開の首にしがみついて照れた顔を隠した。

 
9.
 ほとんど荷物がなくなった室内を見回して、メモ帳の“やることリスト”にバツ印を書きこむ。
 ふたりで暮らすには狭く感じた1LDKの部屋も、荷物がない今はこんなにも広くて寂しい。そう思ってしまうのはひとり足りないせいもあるのだろう。いるとうるさくて暑苦しいのに、いないといないで寂しくなる。ここにいない彼は荒北の気もしらず、指で銃を模したポーズをとりながら写真立ての中でウインクしていた。
 写真立てが割れないように布で包み、スーツケースに入れる。ダンボールに詰めようかとも思ったが、一緒に連れて行きたいと自分で持っていくことにした。
 写真の横に置かれていた赤い小さなケースを手に取る。この家にある雑貨で赤い色はこのケースだけだった。
 新開も荒北も寒色系を好むので赤色はめったに選ばない。それでもこれだけは特別だからと、新開が目立つ赤色に決めた。
 中身が入っているとはわかっていたが念のために開けて確認すると、大事に納められている銀色の細い輪がライトに反射して白く輝いた。左側の空いているスペースには対の指輪が入っていたが、今は遠く1万キロも離れた海の向こうにある。普段からアクセサリーの類を身につけない荒北は、渡されたときに一度だけ指に嵌めた。それからはなくさないようにケースにしまっている。
 だが、新開はひとときも離さずに今日まで身につけたままだった。ブレーキングの邪魔になるから外せと諭しても、それでも彼は聞き入れなかった。レース中は指輪の上にテーピングをしているらしい。
 ブレーキコントロールやシフトチェンジなどのタイミングは長年の経験がモノをいう。わずかなタイミングのずれで勝敗が決まることもある。だからこそ指輪をつけることで身体に染みついたタイミングに狂いが生じるのではと懸念したのだが、新開は譲らなかった。タイミングが狂うならまた身体に覚えさせればいいと、いつものように飄々とした調子で笑うだけだった。
「おめさんと一緒に走ってるって思うと、すげぇ踏めるんだよな」
 そう言ってくしゃっと笑った顔を今でも覚えている。アホかと罵ったが、内心は照れ隠しで必死だった。
 指輪のケースを閉じた荒北は写真立てと同じようにスーツケースに入れた。
「あとは……家具の買取りだけか」
 電話番号控えてたかな……と携帯電話を手に取るとタイミングよくスカイプのアラートが表示された。
「よぉ、靖友」
「よォ」
「送別会どうだった?」
「どーって、準備もあるだろうからって早く終わったヨ。最後まで気ぃ遣って貰ってさぁ、なんかワリィことしたナ」
 年末という繁忙期での退職願いがまさか受理されるとは思わなかったが、上司もチームも皆が荒北のためにサポートをしてくれたおかげだろう。無事にこの日を持って退職となった。
 海外に渡おうとを決めてから会社での引継ぎや退職準備、資格取得のための勉強と、常に何かしらに追われる日々が続いた。新開との電話も久しぶりで気分があがる。
「もう寝てるかと思ったけど、どうしても電話したくてよ。起きててくれて良かった」
「荷物詰めてたからな。もうすぐ全部終わるトコ」
 やっとだな、と新開が電話の向こうで嬉しそうに笑った。
「ってかマジで準備がめんどくせーンですけどォ。オメーはそっちでちゃんと片づけてんだろーナァ!? そっちもオレがとか、ぜってーヤだかンナ!」
 向こうでの新居が決まったのはつい一週間前。新開に家の手続きと片づけを任せたがマイペースな新開のことだ。実際に自分の目で見るまでは安心できず、荒北は渋い声をだした。
「はは……オレ的には片づいたと思うんだけど」
 自信ねーな、と小さく呟く。
「そーだ、今日おめさんのビアンキ届いたぜ。傷もなかったし組み立ててチェックしといたよ。これでいつでも乗れるな」
「その前にオレが行かねーと乗れねーヨ」
 部屋に積まれた段ボールを見ながら荒北は「あと数日でフランスかぁ……」と独りごちた。まだ実感が持てず、どこか他人事のような気がしている。
 新開は2年ほど前にフランス南部のトゥールーズに拠点を置くチームに移籍した。そして彼の契約延長を機に荒北もフランスに渡ることにした。
 まったくの初めての地で自分に何ができるのかはわからない。ただ、少しでも新開のサポートができたらとアスリートフードマイスターの資格は取得した。正直不安だらけだがやるべきことはハッキリしている。結果がどうなろうとも何かに挑戦するのは昔から好きだった。さらに隣りに新開がいるならなおさら悪くない。
「オメーは最近どーなんだヨ? ちゃんと調子上げられてんのか?」
「それがさぁ、毎日ハードでやっばいよ。必死になんなきゃ契約切られちまうからな。でも、おめさんのお守りのお陰でなんとか頑張れてんだ。飾って毎日見てるぜ」
「……飾るとかきめぇんですけどォ」
 そう茶化しながらも頬が緩む。
「もうすぐオレもそっちだ。あんなシワだらけの紙よりも効果あんじゃねーの?」
 もちろん、と答える新開の向こうで聞きなれない言葉がして「C'est donc! C'est assez meilleur.」と、流暢に新開が何かを応えた。
「おい、今電話してて平気なのか?」
「あー、悪いな。今チームメイトと一緒にいるんだけど、電話がなげぇってからかわれちまってよ」
「つーか、オメーすげェな。何て言ったのか全然聞き取れねぇ。あんなん勉強してても……ヤベェな」
「はは! おめさんにはオレがいるから平気だろ?」
「いや、日常会話ぐらいならオレも話せるようになんねーと。さっきの何て言ったんだ?」
 からかわれたと言った部分が気になった。だが、電話の向こうで答えにくそうに新開が渋る。
「さっきのは“長い電話だな恋人か”って聞かれたんだよ」
「へぇ。で?」
「でって……」
「なんて言ったんだよ、さっきの」
「……そうだよって……そうだよ、最高に可愛いんだって答えた」
 新開の言葉で一気に顔が熱くなった。思わず携帯を落としてしまい、慌てて拾う。
「お、オメーそっち行ってすっかり頭沸いてンじゃナァイ!? つーか何言っちゃってんだヨ! 可愛いとかアホじゃねぇの!?」
 きっと自分は今酷い顔をしている。これがビデオ通話じゃなかったことがせめてもの救いだった。
「あー、今のおめさんの顔見たかったなぁ。寝てるかもって遠慮なんてしねーで、ビデオ通話で電話すりゃあよかった」
 見透かしたかのように新開が甘く囁く。
「うっせーんだヨ! こっちはなァまだやることあンだ!」
と、勢いで終了ボタンを押す。
 携帯電話を放り投げ、膝を抱えながら「あー!」と悶えた。
 あと少しで会えるのに、今すぐ会いたくてたまらないのは自分も頭が沸いているに違いない。
 会ったら何をしてやろう、と考え始めた荒北の頬が知らず知らずのうちに緩んでいた。あれこれ考えてみても、結局は「よぉ、久しぶり」としか言えないのだけど。
 
*
 トゥールーズ・ブラニャック国際空港。
 慣れない英語とフランス語での入国手続きも何とか終わり、スーツケースを片手にゲートを出る。
 新年を迎えたフランスは思っていたよりもお祭りムードで賑やかだった。日本と変わらずこちらも寒く、コートの前をしっかり閉めてマフラーを巻き直す。
 空港内をキョロキョロ見回すと、ベンチに座る見慣れた赤毛が目に入った。すでに荒北に気がついていたようで、声もをかけずに垂れた目を一層緩めてこっちを見ている。荒北が気づいたことに反応して、「こっちだ」と手を挙げて立ち上がった。彼の左手の指にはシルバーが光っている。
 感情が溢れて、近づく姿をただ見ていることしかできなかった。込み上げてくるたくさんの想いを抑えて、ようやく口を開く。
 
「よォ、久しぶり」
 
***END***

-ペダル:新荒
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