【新荒】君に愛の言葉を紡ぐ【記憶喪失ネタ】

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高校3年生~大学生の新荒です。【R-18】
・定番ネタの“記憶喪失”ものです。高3の新開さんがある出来事をきっかけにして記憶喪失になるお話。最後は新荒ハッピーエンド!

≪注≫
・記憶が高校1年生まで戻るため、荒北さんを「荒北くん」と呼んでいます。ウサ吉のことも覚えていません。
・1ページ目:高校生編(つきあってます)、2ページ目:大学生編(新荒の性行為描写あり)
・大学生編の新開さんは彼女持ちの設定です。(新開さんと友人の会話中に新×彼女を匂わせる部分があります。)

 

「しんっ……!」

 とっさに伸ばした手は間に合わず、虚しく空を掴んだだけだった。掴み損ねた彼がたった数センチ先の階段を転げ落ちていく。だが、落ちる瞬間に彼が見せた表情は穏やかな笑顔だった。

 名前を呼ぶ穏やかな声も、自分だけに向けられる甘い視線も、あの日を境にすべてが消えた。今となっては口喧嘩さえも恋しくて、戻らない日々を懐かしんでばかりいる。記憶が戻る保証はないがそれでも願わずにはいられない。今日もひとり心の中で君に愛の言葉を紡ぐ。

 

1.
 午後一番の授業はいつも深い眠気に襲われる。一週間前の席替えで一番後ろになれたのはラッキーだった。それも窓際という、外は見られるし教壇からは見えにくい特等席。もともとその席を引き当てていたのが気の弱いクラスメイトだったからといって、決して脅して交換したわけではない。くじをひらひらさせながら「お前、いい席引いたナァ」と言ってみたら、「かわろうか?」と自ら進んで譲ってくれたのだ。交換してくれた彼は教卓の真ん前でせっせとノートをとっている。
 気怠げに頬杖をついた荒北靖友は、何度もあくびを噛み殺しながら窓の外をぼんやり眺めていた。ただでさえ満腹で眠いのに、11月にしては暖かい日光が追い打ちをかけるように身体を包む。
 箱根学園の校舎は2棟がL字型に配置されているため、窓側の席からはもう一棟の校舎が見える。その校舎の上を飛行機雲が長く伸びていく様子を、荒北はじっと目で追っていた。
 視界の隅で揺れる何かに気がついたのは、我慢しきれないあくびのせいで、とうとう口を開けてしまったときだった。涙を拭って目を凝らすと向こうの校舎の屋上に人影が見えた。赤茶色の髪とえんじ色のネクタイを風に揺らしながら、フェンスを掴んで空を見上げている。
(アイツ、なにやってんだァ!?)
 じっとその様子を観察していると、まるでよじ登ろうとするかのように彼がフェンスに足をかけ始めた。
「バッ……なにやっ……!」
 荒北は屋上を睨んだまま思わず立ち上がっていた。その拍子に派手な音を立てて椅子が倒れ、瞬時に教室内に緊張感がはしる。誰かが息を飲む音と、「……どうした荒北?」と困惑したような教師の声がシンとする教室内に響いた。
「え? あ」
 ようやく自分の置かれた状況を理解した荒北はごまかすように咳払いをして、クラスメイトの視線を受けながら倒れた椅子を元に戻した。そしてチラリと窓の外を確認すると、
「ちょっと腹がイテェんで便所行ってもいーすか」
とワザとらしく腹部をさすってみせた。
「あ、ああ……大丈夫、か?」
「だいじょーぶっす」
 腹痛だと告げているので大丈夫ではいけないのだが、教師の許可を待っている余裕はない。荒北の足はすでに動き出していて、足早に教室を出ると屋上めがけて一気に駆け出した。
 決して軽快ではない足音と、床でこすれる上履きのゴム音が授業中の校内に反響する。通り過ぎるたびに教室のドアが次々に開いて、何事かと驚いた教師たちが廊下に顔を覗かせた。当然彼らは走る生徒を叱責したが、荒北は脇目も振らずに走り続けた。
(間に合え! 間に合え!)
 フェンスにかけられた足が目の前にちらついて離れない。荒北が席を離れたときにはすでにフェンスの半分くらいまで登っていた。最悪の事態を想定しつつ、だがそれを振り払うように前へ前へと足を動かす。階段も2段飛ばしで駆け上り、ドアノブをもぎ取ってしまいそうな勢いで屋上のドアを開け放つ。
「新開ッ!」
 勢いよく開けた扉の先に荒北の想像するものはなかった。寝そべっていたらしい新開隼人が上体を起こして振り返り、「驚いたな……荒北くん、か?」とずいぶんのんびりした調子で呟いた。
「オメー、飛びっ……はぁっ、はっ、飛び降りっ」
 苦しげに喘いで肩を揺らす荒北に「ああ、ごめん。見えたんだ」と薄く笑い、「そっか、ここは教室から見えるのか」と小さな声で呟く。
「飛ぶのはやめたよ。こんな天気のいい日にわざわざ死ななくてもいいかなって思い直してさ」
「はぁ!? 飛ぶってテメェなに言ってん――
「ごめん、冗談だよ。最初からそんなつもりじゃないし、下を覗いてみただけだから」
「冗談って……ぜんっぜん笑えねぇぞソレ」
「ハハ……そうだな。ごめん」
 新開がニッと口角を上げてみせたがその顔はどこか暗く、もしかしたら冗談ではなかったのかもしれない。だが、とりあえず目の前の新開からは妙な真似をする気配は感じられなかった。
「マジでバカみてー」
 荒北は早とちりした自分自身をバカだと言ったつもりだったが、新開は自分のことだと誤解したのか「ごめんな」と謝った。
 もうすぐ冬だというのに、走ったせいで全身にじっとりした汗をかいていた。肌に纏わりつくワイシャツが不快で、ブレザーを脱いでネクタイを外す。シャツの第2ボタンまで開けながら新開の隣りに寝転ぶと、涼を求めるように手で顔を扇いだ。
 しばらくはふたりとも無言のままで、息を整えようとする荒北の呼吸音だけが絶え間なく続いていた。ようやく呼吸と鼓動が落ち着いたので荒北は顔だけを動かして新開を見る。
「つーかお前さァここでなにしてんの。サボり?」
「……サボり、かな。天気が良かったからついね」
「フーン……ついって、お前らしくねぇのナ」
 何気ない荒北の言葉に新開が小さく鼻で笑う。その笑い声にしまったと気づいてもすでに遅い。
「前のオレはサボったりしなかったんだ?」
 新開は空を見上げたままだったが『前のオレ』という言い方に棘を感じた。言葉に込められているだろう複雑な思いが垣間見えて、なんとなくそれが荒北にチクリと刺さる。
「……ワリィ」
「いいよ、もう慣れた」
「いや、ポロっとでたっつーか、つい言っちまったっつーか」
「別にいいって。オレの言い方も意地が悪かったかもしれない。荒北くんだけじゃないよ。みんなが気を遣ってくれてるし。でも、こうしていつまでも腫れ物みたいに扱われるとね……さすがに息が詰まるっていうか……だからかな、急に誰もいない場所に行きたくなったんだ」
「……確かにここは今の時期なら寒くて誰もこねぇからナ。ひとりになりてーんならいい場所だ。あ、だったらオレもいないほうがいいのか」
 邪魔したな、と身体を起こしかけた荒北の腕を新開が掴む。「せっかくだからもう少しいてくれよ」と引き留めた。
「あー……荒北くんがよければ、なんだけど。って、今は授業中だからサボりはマズイか」
「……オレはいいんだよ。腹痛ぇから便所行くって出てきたし」
「え、腹が痛かったのか? じゃあ、なおさら引き留めちゃダメだったな」
「……オメーなぁ、ンなもん嘘に決まってんだろ。誰かさんが変なコトしてっから、テキトーな嘘ついて出てきたんだヨ」
「ハハ、そっか。ごめんな」
 何度目かわからない「ごめん」を新開が呟く。荒北はチッと舌打ちしそうになり、でもグッとこらえて複雑な感情を飲み込んだ。今新開に何か言ったところで彼が悪いわけではないし、何を言っても今の彼には理解できないだろう。
「あのまま授業受けててもどーせ寝てたし、別にいい。つーかもうバカな真似はすんじゃねぇぞ」
「……ああ、わかった。ごめ――
「ごめん、もナシな。さっきからオメーは謝りすぎなんだヨ」
「あ、ごめ」
 ん、と言う直前で新開が自分で口を押さえた。そして「もう言わない」と眉を下げて笑う。その笑顔は依然と何も変わっていないのに、ここにいる新開は前とは違う。荒北は「わかりゃいいんだヨ」と言って、また仰向けに寝転んで空を見上げた。
 濃い白線だった飛行機雲がすでに空に滲んで広がっている。ところどころ消えかけて途切れた雲は、まるで今の新開のようだ。荒北は消えかけの雲をいつまでも眺めていた。

 

2.
 新開が記憶を失ってからすでに1ヶ月以上の月日がたっていた。曖昧ながらも思い出せる部分は徐々に増えているようだが、それでもまだすべてではない。だが身体にも脳にも異常は認められず、失っている部分は精神的なものが原因ではないかと言われているらしい。専門的なことはわからないが、それが正解かもしれないと荒北は密かに思っていた。事実、新開は荒北との関係を何ひとつ思い出していないからだ。
 このところ荒北はある考えに囚われていた。それは、新開は自分との関係をなかったことにしたいのではないか、というものだ。
 新開が記憶を失うことになる前日、ふたりは些細なことで喧嘩をしている。きっかけは本当にどうでもいい愚痴で、発端がなんだったのかさえ覚えていない。普段ならどちらかが譲って終わらせたはずなのに、たまたまその日は荒北の虫の居所が悪く、珍しく新開も気分が沈んでいた。小さな不安や歪みがいつの間にか積もり積もって大きくなり、最終的に荒北は「もう無理だろ」なんて口にしてしまった。それは暗に別れをほのめかしたようなもので、あの瞬間、少しだけ見開かれた目は悲しげに小さく揺れていた。
「……靖友の言い分はわかった。でも、とりあえず今日はもうやめよう。キリがねぇし、お互いにちょっと頭冷やそうぜ」
「いつ話したって変わんねぇだろ。とにかくオレはもうムリ」
「……また明日話そう。な?」
「……」
 無言で背を向けた荒北に「おやすみ」と呟いて新開は部屋を出ていった。
 翌朝、明らかに機嫌の悪い荒北とは対照的に普段通りに振る舞う新開はずいぶんと大人に見えた。彼はただ周りに悟られないように気を遣っただけなのだろう。だが、それは荒北にとっては逆効果だった。そういった気遣いすらできない自分を改めて自覚させられることになり、そんなところもムカついて仕方がなかった。
(ずいぶんと余裕ぶってんじゃねぇか。なんでもねぇフリなんかしやがって)
 新開を無視したまま昼を迎え、そしてあの事故が起きた。

*
 この日に限って購買が休みだったせいか、教室に戻る階段は食堂帰りの生徒で混雑していた。楽しげにはしゃぐ生徒たちの声が荒北を余計にイラつかせ、それも冷静さを失わせた原因のひとつだったかもしれない。
 上階から降りてくる数名の男子生徒とすれ違ったとき、イラだっていたせいで荒北の勘は働かなかった。彼らが最近やたらと新開に突っかかってくるメンツだったことに気がついてすらいなかった。
「あ」
 背後から聞こえた新開の小さな声。妙な感じがして振り向いたとき、新開の身体はすでに大きく後ろに傾いていた。
「しんっ……!」
 落ちる、と直感してとっさに腕を伸ばしたが間に合わない。手のひらは虚しく空を切り、どこも掴むことはできなかった。フッと笑みを浮かべた新開が目の前で階段を転げ落ちていく。まるでスローモーションのように見えて、それでも荒北の足は動かず、手を伸ばしたままただ呆然と立ちつくしていた。
「新開!」
 福富の声でハッと我に返る。荒北がようやく事態を飲み込めたときには新開は十数段下の踊り場に倒れたまま動かなかった。慌てて駆け寄って名前を呼んでみても反応がなく、意識の抜けた身体は重さのある温かい人形のようで不気味だった。
 そのあとのことはよく覚えていない。
 いつの間にかそばにいた教師に肩を叩かれ、全員教室に戻るようにと指示を受けた。とりあえず福富が代表してその場に残ることになり、荒北も自分も残ると言って譲らなかったが、結局は東堂に引っ張られるようにして教室へ戻された。
 午後の授業はすべて自習になり、教室内の話題はもちろん新開のことで持ちきりだった。様々な憶測や噂が飛び交う中、たまに荒北に視線が投げかけられる。あの場の状況を誰もが知りたがっていたが、荒北は机に伏したまま寝たふりを続けた。
『……落ちる前にすれ違った男たち……最近、新開に妙に絡んでくる顔ぶれだったな』
 首謀者らしい男の彼女が新開に恋をして、その男は別れを告げられてフラれたのだという。そんなくだらない理由で新開に突っかかるのは逆恨みもいいところだった。おまけに新開がまったく相手にしなかったことも、その男にとっては気に食わなかったのだろう。
 証拠はないのだから何もするなと東堂に釘を刺されたが、荒北はすれ違った生徒が誰なのかすら気に留めていなかったのだ。
 いつもの自分ならもっと早く気づけたかもしれない。すれ違った相手の顔をしっかり見ていれば、彼らを警戒できていれば、1秒でも早く手を差し出せていれば。
 自分を責める言葉ばかりがぐるぐる回る。それでも、後悔してももう遅い。
(ちげーだろ……今日はアイツの顔すらまともに見てねぇじゃねーか)
 ぐったりして動かない新開が忘れられなかった。重い身体の感触はまだ腕に残っていて、あのまま目を覚まさなかったらと、嫌な妄想ばかりが浮かんでくる。今朝はひとことも話していない。最後に交わした会話は別れを匂わせるようなものだ。
(サイアクすぎんだろ……)
 教室内のざわめきがうるさい。今すぐ飛び出してしまいたかったが行くあてはどこにもなかった。

**
 新開が病院から戻ってきたのは3日後の夕方だった。大きな怪我はなかったが頭を強く打っていたため経過観察として入院し、その結果帰宅しても問題ないだろうと判断されたらしい。遠目に見ただけだが、頭に巻いた白い包帯以外はいつも通りの新開に見えた。
 夕食後に福富の部屋に集められた自転車競技部の3年は、新開の記憶が曖昧になっていることを知らされた。
「記憶喪失というやつだ。今の新開にはここ2年間ほどの記憶がない」
 福富の言葉にその場がシンと静かになる。
「思い出すきっかけになるだろうから、なるべく話しかけてサポートしてやってほしい。同じ部の仲間として率先して助けてやってくれ。学年全体には周知させたほうがいいとの判断で、明日それぞれのクラスで担任から話をするそうだ。オレからは以上だ」
 ざわつきを残しながらミーティングは終わり、その後、荒北と東堂は福富に連れられて新開の部屋を訪れた。部屋に入ると新開はベッドに座っていて、彼の周りにはアルバムや教科書などが広げられていた。
「なんか思い出すかと思ってさ。でも、やっぱりダメだな」
「困ったことがあればオレたちに遠慮せず言うんだぞ、新開」
 福富の言葉に「ありがとう」と微笑んだ新開からはまったくの別人の匂いがした。
 このときはどうせすぐに思い出すだろうと根拠もなく楽観的に捉えていた。新開が記憶を取り戻したらまず一番に謝りたい、無理だといった言葉を取り消したい。そう思っていた。

 

3.
 昼休みで賑わう校内を抜け出した荒北はひとりで校舎の裏手に向かっていた。彼の手に提げられた2つのビニール袋が揺れてカサカサと音を立てている。
 小さな木造の小屋の前で屈み込んだ荒北は、「待たせたなァ」と言いながら袋の中からある物を取り出した。それらはニンジンの葉やセロリの切れ端で、金網越しに差し出すと鼻をひくつかせたウサギが器用にかじる。軽快なリズムで消えていくニンジンの葉を見ながら荒北は自分用に買ってきたメロンパンを頬張った。
「おら、食え食え」
 パンを咀嚼しながら今度はセロリを差し出す。だがウサギはそれに口をつけず、前足を上げて立ち上がると大きな耳をそばだてるようにピンと張った。
「あ? どーした?」
 荒北をよそにウサギは後ろをみつめたまま動かない。しばらくすると背後から足音がして、振り返った先には新開がいた。思わず「主人の足音はわかんのか……」と感心して言葉を漏らした荒北に、近づいてきた新開が「オレもいいか?」と微笑む。
「……別に許可なんていらねーだろ」
 勝手にしろといいながらも小屋の前のスペースを半分譲ると、新開は「悪いな」と言いながら荒北の横に腰を下ろす。まるでそれを待っていたかのようにウサギが野菜を齧り始めた。
「お、ウサ吉いいもん貰ってるな」
「いいもんかァ?」
「いやあ、旨そうに食うなあウサ吉は」
「……あ、そ」
 嬉しそうにウサギを見つめる新開はこのウサギの飼い主が誰なのかまだ知らずにいる。

*
 新開が記憶を失くしてからウサギの世話は自転車部の部員が交代でするようになっている。だが、昼だけはいつも荒北の当番だった。もちろん荒北は「なんでオレが」と抗議したのだが、
「どうせいつも外で食べてるんだからお前でいいだろう?」
と東堂が言ったせいで他の部員も賛同し、結局そのまま昼の餌係に決まってしまったのだ。

 渋々始まった昼の餌当番で、ウサギと荒北の前に新開が姿を現したのは世話をし始めてから数日目のことだった。
「荒北くん、こんなとこにで何してんだ? あれ、それってウサギ?」
「あー……ナニ? なんか用?」
「いや、特に用事はないんだけど背中が見えたからさ」
「オメーはなにしてんの?」
「……散歩、かな?」
「ハァ? テメーも暇人だなァ」
 そうだな、と苦笑して新開が横に座る。
「……暇なら餌食わせてやれヨ。ほら、コレ。手ぇ出せ」
 おずおずと差し出された手のひらにペレットを数粒とニンジンの切れ端を載せる。それを不思議そうに眺めながら新開が「これは?」と問いかけた。
「昼に食堂のおばちゃんが分けてくれんダヨ。で、こっちの固てぇのはお前が……いや、部の誰かが買ってきてるウサギ用の餌なんだと」
 へぇ、と言いつつ新開はつまんだニンジンの欠片をおそるおそる差しだした。すると鼻をヒクヒク動かしながらウサギが歯を当て、それをどんどん口の中へ引き入れていく。全部頬張ったのを見届けた新開は感動したような顔を荒北に見せ、そのキラキラ輝いた目が荒北を少しだけ和ませた。
「お前は……ハッ! ガキかっつーの」
「だって、すげえよ。食べたんだぜ? オレの手からちゃんと食べた!」
「……だろうネ。おら、もっとやれよ。ついでに撫でてやったらァ?」
「えっ? ウサギって撫でられるほど懐くもんなのか?」
「……んなことも知らねーのかよ。背中とか、耳の裏とか撫でてやれよ。あ、優しくナ」
「荒北くんの口からウサギの撫でかたを聞くとは思わなかったなあ」
「……っせぇ、ほっとけヨ」
 クスリと笑った新開が手を伸ばしてウサギの頭に触れる。「こうか? それともここか?」と目を細めながら毛並みを整えるようにゆっくりと撫で始めた。
「このウサギ、名前はあんの?」
「名前? あー……ウサ吉、だ」
「ウサキチ? 妙な名前してんなぁ、お前」
「……オメーが言うなっつーの」
「ん? 何?」
「……なんでもねーよ」
「ウサキチかぁ、かわいいなぁお前」
 新開がヒョイとウサギを抱いて膝の上に乗せる。ウサギもされるままに新開の足の上で大人しく落ち着いていた。その様子は穏やかで微笑ましいものだったが、同時に荒北を落胆させた。ウサギを目にすることで新開が思い出すことを期待したのだが、特に何も変わらなかったのだ。

**
 あれから何度も餌やりを一緒に行ってきたが、新開が思い出す気配はいまだにない。他部員と新開とではウサギの態度が明らかに違っているのに、新開はそのことに気がついていないのだろうか。
(ウサギでダメって……じゃあなんならいいんだヨ……)
 食べきったメロンパンの袋を手の中でグシャリと潰して、荒北は新開とウサギのやり取りを静かに見つめていた。
「……お前、受験どーすんの」
「オレ? そうなんだよなぁ。前は明早大を志望してたみたいだけど……今のオレで受かるかどうか……」
 そう言いつつも毎日遅い時間まで机に向かっているのを知っている。一度学習したことはやはり脳が覚えているものなのか、新開の成績はそこまで落ちてはいないらしい。それでもまだ取り戻そうと彼なりに必死なのだろう。
「オレ自身ヤベェから人を心配してる場合じゃねーんだけどォ、まぁ無理はすんなヨ。あんま寝てねぇんだろ?」
「え……なんでわかるんだ?」
「そのツラ見ればすぐわかんだろ」
「そう、か……? 誰かに言われたのは初めてだ」
「ハッ! そーかヨ」
 たった1、2年でしかないが荒北は新開の隣りにただいたわけじゃない。今までたくさんの新開を見てきたし、彼の感情の動きは顔以外に癖や仕草からだってすぐ読める。たぶん、誰も知らないところまで荒北は知っている。
「そんなにひどい顔してんのか……まいったな」
 両手で顔を覆う新開を見ているうちに荒北は射抜かれるようなあの視線を思い出してしまった。
 荒北を見下ろして意地悪く笑い、厚い唇をぺろりと舐めたときの新開の目。荒北が泣き喚いても罵っても容赦せず、かと思えばドロドロに溶けそうなくらい甘やかされる。組み敷かれ、奥深くまで貫かれ、何度も何度も揺さぶられた。ふたりだけが知る、濃密な汗と精液のあの匂い。
 そのとき、吹いた風が新開の髪を揺らして荒北の鼻先に匂いを運んだ。
「……っ!」
 かすかに含まれた汗の匂いが全身を震わせて鳥肌を立てる。荒北の意思に関係なく、教え込まれた身体が勝手に反応したのだ。突然湧いて出た卑猥な記憶と感覚を消すように慌てて粟立つ腕をこする。
「どうした? って、さすがにこの時期じゃ昼でも外は寒いよな」
「あ、あぁ。つーか、昼休みも終わるしそろそろ戻ンねぇと」
「もうそんな時間か。じゃあ、またなウサ吉」
 ウサギ小屋に施錠して新開が立ち上がる。荒北はまた思い出したりしないように、新開の後ろを彼の踵ばかり見て歩いた。

 

4.
 受験を無事に終えた荒北は、久しぶりに空いた放課後を屋上でひとり過ごしていた。2月の冷えた風が頬を撫でる。あくびついでに空を見上げると寄りかかったフェンスが軋んで音を立てた。
「さむ……やっぱもう部屋戻っかナァ、ねみぃし」
 なんとなく寮に戻る気になれず、とりあえずやってきた屋上はやっぱり寒い。これを飲み干したら帰ろうとベプシを口に近づけたとき、屋上のドアが開いて新開が顔を覗かせた。
「やっぱりここか」
 ニコニコと微笑みながら新開が歩み寄る。いつも以上ににやけて見えるのはたぶん気のせいではないだろう。荒北が今一番会いたくない人物だったが、見つかってしまってはもう避けようがない。
「さみぃな」と言いつつ新開が腰をおろし、腕と腕が軽く触れた。こんなにも近くにいるはずなのに、かなり遠くに行ってしまった感じがした。
「なに、なんか用?」
「いや、特にない」
「あっそ」
「教室にも図書室にもいなかったから、どうしたかなと思ってさ」
「用事もねぇのに?」
「いやぁ、なんか探しちまうんだよなぁ荒北くんのこと」
 そう言ってマフラーを巻き直し始めた新開に、用がないならほっといてくれと言いかけたが、その言葉はベプシと一緒に飲み込む。
「……受験終わったし、図書室はもう行かねぇヨ」
「そっか。荒北くんは洋南だったな」
「……あぁ」
 それから荒北はしばらく黙ったままだったが諦めることにした。このまま避けていてもどうせ誰かが話してくるだろうし、それなら本人に聞いてしまったほうがいい。
「……なんか告白されたんだってェ? で、どーすんの」
 突然の質問に新開が目を丸くした。そして「なんだ、知ってたか」と恥ずかしそうに笑う。
「あー……つき合ってみようかと思ってる。これまで自転車ばっかだったし、彼女をつくるなんて考えたこともなかったからなぁ」
 そう言って鼻の頭を指で掻く。顔には出さないがそれは新開が照れたときに見せる仕草だった。
「一生懸命に気持ちを伝えてくるのがちょっとかわいくってさ」
「……そォ」
 眉を下げて笑う新開を見ながら荒北は身体の中が冷えていくのを感じていた。指先から体温が抜け落ちて、そのまま自分も消えてしまうような感覚。平静を装っても呼吸がうまくできず、心臓を鷲掴みにされているように苦しい。握ったままのベプシ缶が音を立てて形を変える。
「荒北くんはつくらないのか?」
「……は?」
「彼女。つくんねぇの? 誰か好きなヤツとか――ってあれ、もしかしてオレが邪魔してんのかな」
「は? なんだそれ」
「気づかなくて悪い。オレが負担になってんならオレはもう大丈夫だ。記憶が戻らなくてもどうにかできてるし、いつまでもみんなに頼ってばかりじゃ悪いだろ? 今までごめんな。これからはオレのことなんていいから自由にしてくれよ。あ、荒北くんも彼女つくってみたらどう? ダブルデートなんて楽しそうじゃねぇか?」
 記憶を失くしただなんて、なんて残酷なんだろう。今でも忘れられないでいる目の前の唇が“彼女をつくれ”と酷な呪いの言葉を吐く。
「……知るかヨ。んなモン」
 潰れた缶をあおって中身を飲み干した荒北は、空になった缶をゴミ箱めがけて放り投げた。だが缶は縁に当たって外れてしまい、そのままコンクリートの上をカラカラと転がっていく。荒北は舌打ちして立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
「え? おい、荒北くん!」
 驚いた声をあげながら追ってきた新開が腕を掴む。
「なんで怒ってんだ? 変なことでも言っちまったかな」
「ハァ!? 別に怒ってなんかねーし」
「怒ってるじゃないか」
「うっせぇなァ。怒ってねぇって言ってんだろォ? うぜーんだヨ。オメーが誰とつき合おうが知るかっつーの! 勝手にやってろよ」
 荒北の勢いに気圧されたのか新開が目を見開いて口をつぐむ。その顔を見た荒北は舌打ちして新開の腕を乱暴に振りほどいた。
「荒北くん……」
 ごめんな、と新開が小さく呟く。
(どうせなんで謝ってるのかも理解してねーくせに)
「ナァ……」
「ん?」
「隼人」
 新開はただキョトンとしただけだった。そして明らかに戸惑いながら「名前で呼ぶなんて珍しいな」と笑い、その笑顔が荒北の中に溜まっていた何かにとどめを刺した。
「……オメーなァ、なんで思い出さねーんだヨ……っざけんじゃねぇ! なぁ新開ィ!」
 ヤバいと思っても自分では歯止めがきかず、気づけば新開の胸倉を掴んでこれでもかと締めあげていた。
「ふざけんなよ! オメーなんかさっさとどっか行っちまえ! なんで思い出さねーんだよ、なんでだよ!」
「あ、らきたくん……?」
「うるせぇ! 黙れ!」
「でも……なんでおめさんが泣くんだ?」
「ああ!? 泣いてねぇヨ!」
 襟元から手を離して乱暴に目をこすると、制服の袖のぬぐった部分だけが濡れていた。
「はぁ!? なんでオレが」
 いったん流れでた涙は荒北の意に反してぬぐってもぬぐっても溢れてしまう。それでもなんとか止めようと袖で強くこすり続けた。
「クソッ」
「荒北くん……」
 困惑した様子で新開が右手を伸ばし、こすられて赤く染まった目尻に触れた。そのまま頬を包まれて、そこから彼の体温が沁みてくる。指先は冷たいのに手のひらは荒北よりも温かい。この手を最後に繋いだのはいつだっただろう。
「思い出さなくて……いや、思い出せなくてごめん。何かあるんだよな、荒北くんが泣くくらい大事なことが」
 じっとまっすぐに見つめられて、荒北は一瞬だけたじろいだ。
 困ったように下がる眉も、目尻が垂れた瞳も、以前と同じ新開隼人だ。それなのに向けられる視線はまったくの別物で、彼の瞳に恋人特有の甘さは微塵もない。記憶の欠如を心から詫びて、“友人”の涙の意味を見つけようと、必死に、不安げに揺れている。目の前にいるのは確かに新開だが、でも、新開ではない。
(んなもん、充分わかってたことだろ……)
 荒北は自分の下唇を噛みしめると新開の手を払って睨みつけた。
「触ってんじゃねェ」
「だって泣いて――
「うるせェ、なんでもねぇ」
「でも……」
「うるせぇなァ! これはなぁ、今のオメーには1ミリも関係ねぇんだヨ!」
 ほぼ吐き捨てるように言うと荒北は新開に背を向けて駆け出した。
 気分は最悪だった。告白ひとつで浮かれる新開も、怒鳴った挙句に泣き言をぶつけた自分も、この瞬間のすべてが最悪だった。戸惑った新開の顔が辛い。当たり前だ。新開にとって今の荒北は『ただの友達で同じ部活仲間』、それだけの関係でしかないのだから。

――『一生懸命に気持ちを伝えてくるのがちょっとかわいくってさ』

「ハッ! オレのはノーカンかよ」
 また目頭にじわりと溢れだした涙を乱暴にぬぐう。もう無理だなんて告げたくせに、今は新開が恋しくて仕方がない。

『靖友、好きって言ってみてよ』
『はぁ? なにいってんだテメー』
『だって一度も言ってくれたことがねぇし、だから聞かせてくれよ』
『……んなもん軽々しく言えるかっての! 男ってのはなぁ、そういうのは言わねぇほうがいーんだヨ』
『……その考えってなんか古くねぇか?』
『るっせ。とにかく言えるかそんなもん』
『じゃあ、隼人って呼んでみてよ』
『はぁ? ったく、今度はなんだァ?』
『オレも靖友って呼んでるし、だから靖友も隼人ってさ』
『……呼ばねえ』
『いいだろ?』
『ヤダ』
『隼人って呼ぶだけでいいんだぜ?』
『しつけぇな……じゃあ、両方ともここぞってときに言ってやるよ。それで文句ねぇだろ?』
『それっていつくんの?』
『いつって……そ、そんときはそんときだろ』
『なんかいまいち納得できねぇんだけど……』

 あの厚ぼったい唇を尖らせて拗ねたあと、『まあ、期待して待ってるよ』と笑った新開はもういない。

 

5.
 桜の蕾がほころびかけた頃、箱根学園は卒業式を迎えた。その翌日からは卒業生の退寮が続々と始まっていて、荒北も早めに学園を去る者のひとりだった。
 住み慣れた寮の自室を出て玄関ホールに向かう。たまに軋んで音を立てる廊下も、夏は暑くて冬はやけに寒かった階段も、すべて今日が最後だった。
 当初は適当に選んだはずの学校だった。だがいつの間にかここでの学園生活を楽しんでいた自分がいて、おまけになんとなくセンチメンタルになっている。
(……らしくねーだろ)
 そんな自分を鼻で笑いながら玄関ホールに着くと、そこにはすでに知った顔が並んでいて、その面々を目にした荒北は思わず小さく舌打ちしてしまった。
「……なんでテメーらがいんダヨ」
 苦い顔をした荒北に東堂がニヤリと笑い、新開がフッと微笑む。福富は表情を変えずに「もう行くのか」と問いかけた。
「まぁ……乗んの次のバスだからァ」
「荒北、お前なあ。黙って行くとはみずくさいヤツだな。な? フク、新開、オレが言ったとおりだろう? こいつはこういうヤツなんだ」
「尽八の言うとおりにここで待ってて正解だったな。なぁ、寿一」
「ああ」
 荒北を見るみんなの視線が痛い。
「……オレはしめっぽくなんのは嫌いなんだヨ」
 小声で呟いた荒北に東堂が近づいて「最後に写真でも撮ろうと思ってな」と背中を押す。新開が荒北の革靴を準備し、先に外に出た福富はドアを開けて待っていた。
「ったく、しょーがねぇなぁ」
 嫌々を演じてみても今日ばかりはバレているのか、東堂さえもたしなめようとはしなかった。
 寮の前から正門に続く道の所々には、すでに数名のグループができていた。荒北のように先に学園を去る友人を見送っているのだろう。笑い声や鼻をすする音があちこちから聞こえてくる。
 写真を撮り終えた荒北たちは正門に向かって歩いていた。たまにクラスメイトを見かけては互いに手を挙げて別れの挨拶をする。福富や東堂も友人を見かけたのか、気づけば少しだけ離れた場所にいた。
「なぁ新開」
「なんだ?」
「あんとき……怒鳴って悪かったナ」
「あんとき?」
 首を傾げたあとでなんのことか思い当たったのか「ああ」と荒北に微笑む。
「オレがはしゃいで余計なことを言ったからだろ。荒北くんは悪くない。謝らないでくれよ。オレこそごめんな」
「……オメーだって悪くねぇだろ」
「そうか?」
「そォ」
「じゃあ、おあいこってことで。これで終わりにしよう」
 垂れた目が細くなり、厚い唇が弧を描く。

――『オレも悪い。靖友も悪い。おあいこってことでもう終わりな。これでいいだろ?』

 こういったときに場を納めるのはいつも新開からだった。ふいに浮かんだ思い出が荒北の足を止めて、つられて新開も立ち止まる。
「なぁ、新開」
「ん?」
「……どうしても諦めらんねーもんがあるとして、でも手に入る保証はねぇ。そんときお前ならどうする? 無理だって諦めるか?」
「諦められないものか……そうだな、オレなら諦めがつくまでやってみる、かな」
「……ハッ! だよなぁ! オレも同じだ」
 どうした?と問いかける新開に荒北は「なんでもねぇ」とニッと歯を見せた。

*
 駅に向かうバスが到着して、荷物を抱えた生徒たちが次々に乗り込んでいく。荒北も足元に置いていたカバンを持ち上げると見送りで並ぶ仲間たちに「もう行くわ」と告げた。
「元気でな、荒北くん」
「またな、荒北」
「荒北、大学ではしっかりやれよ? お前はすぐにサボるからな」
「るっせ。ではってなんだよ、ではって。東堂ォ、テメーはいっつもひとこと余計なんだヨ」
 東堂をひと睨みした荒北はくるりと背を向けて歩き出した。だが、すぐに振り返ると足早に新開に歩み寄り、ぐっと肩を掴んで引き寄せる。そして声をひそめながら「オレら、ホントは」と言いかけて途中でやめ、代わりに「ずっと隣りにいるから」と囁いた。意味がわからず目を瞬かせる新開に「オレは……ずっとお前の隣りにいる」ともう一度言い聞かせて踵を返す。
「荒北くん?」
 新開が名前を呼んでも荒北が振り返ることはなかった。
 バスに乗り込んで窓際の席に腰を下ろす。窓から顔を覗かせた荒北に「元気でな」と笑った新開はいつまでも手を振ったままだった。

 やがて学校も新開も見えなくなると荒北は椅子に深くもたれて目を閉じた。心の奥底では感情が揺れている。これからへの不安と離れることへの寂しさだ。
「……大丈夫だろ」
 自分に言い聞かせるように呟いて深く息を吐く。そしてこぶしを強く握ったあとで「大丈夫だ」ともう一度だけ呟いた。記憶が戻ろうが戻るまいがずっと側にいるとすでに腹は括っているのだから。
 名前を呼ぶ穏やかな声も自分だけに向けられる甘い視線も、あの日を境にすべてが消えた。今となっては口喧嘩さえも恋しくて、戻らない日々を懐かしんでばかりいる。
 記憶が戻る保証はないがそれでも願わずにはいられない。今日もひとり心の中で君に愛の言葉を紡ぐ。
(オレは……ずっとお前の隣りにいる)
 鼻の奥がツンと痺れて熱くなり、窓の外に広がる景色が滲んで歪む。それでも荒北は視線を落とすことなく、いつまでもじっと眺め続けた。

 

***つづく***

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