【新荒】恋を知り、別れを知り、愛を知る。【2016新誕】

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アラサー新荒【R-18】
・別れから始まる話です。
・荒北さんの大学時代の友人が多数出てきて、ちょっとでばってます。
・2016年の新開さん誕生日用に書いた話ですが、誕生日要素はほぼありませんでした。なぜかサイトにアップし忘れていたので載せておきます。
(※2016/07/15 新開さん誕生日用)

 
『……なぁ』
『んー?』
『なぁって』
『ん? なに、どうしたんだ?』
 雑誌を眺めていた大きな瞳が目線を上げて荒北を映す。目が合った途端にひどく緊張し始めて、ゴクンと喉を鳴らしてみてもまったく潤いもしなかった。
『靖友? 何かあるんじゃないのか?』
 呼びっぱなしの荒北を彼が不思議そうに眺める。
『あー……あの、っとだなぁ、その……わりぃちょっと待て』
『どうした? おめさんさっきから変だぜ?』
『るっせ、ちょっと待てって』
『ほんとに大丈夫か?』
『だからァ待てって言ってん――
 自分を見つめる曇りのない瞳にドキッとした。ふたりきりには慣れたつもりでいたが、こうして見つめられては調子が狂う。
『ん? なんか顔が赤いな。おめさん、また風邪ひいたんじゃないか?』
 雑誌を閉じた彼がテーブル越しに乗り出して荒北との距離をつめた。額同士がくっつき、彼の手のひらが荒北のうなじを探るように撫で、『熱はないな』と見当違いなことを呟く唇が近い。
『べっ、べつに風邪なんかひいてねぇからァ』
 とっさに振り上げた手が偶然にも彼の腕をぶった。マズったなと思いつつ、謝るより先に舌打ちが出てしまったのは悪い癖だ。だが動揺している荒北は、自分が舌打ちしたことに気がつく余裕すらなかった。
『わるい、急に触られたら驚くよな。弟にやる癖がつい出ちまって……もうしねぇから』
 元の場所に座り直しながら、何も悪くない彼がごめんなと困ったように笑う。
(そうじゃねーんだよ。そんな顔が見てぇんじゃなくて……)
 早く何か言わなければと気が焦る。ドッ、ドッと肋を叩く鼓動に急き立てられるように、荒北は渇いた口を開いた。
『あーもークソッ! いいか、しっかり聞けよ。オレはァお前のこっ、ことが……すっ……なんだヨ』
『え? わるい、よく聞こえなかった』
『なっ……聞いてねぇのかよ! しっかり聞けって言っただろォ!?』
『わるかったって。もう一回言ってくれよ』
『はぁ? っざけんなよマジで。何度も言ってたまるか!』
『次はちゃんと聞くから。な?』
 薄く微笑んで小首を傾げる仕草が恨めしい。すっかりペースを乱された荒北は、一度だけ深呼吸するとやけくそで口を開いた。
『だからァ、すっ、す……好きだって言ったんだヨ! お前のことがァ!』
 寮の自室にうわずった声が響く。薄い壁を隔てた隣室からはゲーム音と数人の笑い声が漏れていて、彼らに聞かれたかもしれないという不安が余計に緊張感を煽った。破裂しそうな勢いで胸板を叩く鼓動がうるさい。全神経が目の前に集中して、彼が唾を飲む音でさえ敏感に耳が拾った。

 あれから7年。
 恋の始まりはあんなにも賑やかだったのに、終わりはなんて静かなんだろう。
「じゃあ、元気で」
「……おう」
 蝶番を軋ませてドアが閉まる。遠ざかる足音には迷いがなく、その先の階段を降りる歩調もいつもと変わらず軽くて、8年目を目前に訪れた破局は「こんなもんか」と拍子抜けするほどあっけない。
(……鍵しめねーと)
 施錠の金属音だけがひとりになった部屋にやたらと大きく響いた。
 
 
1.
 飲んでいるから来いと会社帰りに呼び出された荒北は、憂鬱な気分で居酒屋のドアを開けた。金曜の夜ともなればさすがに酔客が多く、呼ばれる声にしばらく気がつかなかったほど店内は騒々しい。
「荒北ぁ、こっち」
 店内の一角でヒラヒラと手が揺れている。そこには友人数名の他に初めて見る顔も揃っていて、合コンの人数集めに駆り出されたのだとようやく気がついた。
(……なんかおかしいって思ったんだヨ)
 すでに帰りたくて仕方がないがここで無視して引き返すわけにもいかない。荒北は渋々空席に腰をおろすと、やってくれたナと友人の顔をねめつけた。だが睨まれた友人はまったく気にしない素振りで、
「彼はオレらの友人の荒北靖友くん。こう見えて結構イイとこのサラリーマンで、カノジョは……っているわけねぇよな」
と雑な紹介で荒北の視線をかわす。
「とりあえず人数が揃ったってことで、もう一回乾杯しとくか」
「え、おい、オレはァ――
「荒北ぁ、べつにいいじゃん。どうせ今は彼女もいねーんだろ? もう来ちまったもんは諦めて、せっかくだからみんなで楽しもーぜ」
「諦めてって……つか、合コンだって知ってたらオレは――
「あのぉ……あらきた、くん、でいいのかな?」
 言葉を遮るように隣りの女性がビール入りのグラスを差し出す。「飲みましょ」と言って口角をあげたときの小さなえくぼが印象的だった。
「じゃ、かんぱーい!」
 嬉々とした声が飛び交う中、荒北は苦い思いでグラスを掲げていた。

 
*
 ほろ酔い気分で歩く荒北は空いている右手をスラックスのポケットに入れた。上着でもボトムでもとにかく手を入れて歩くそれは昔からの荒北の癖だ。必然的に猫背になるのだが、本人がまったく気にしないせいで姿勢の悪さはいつになっても治らない。
 指先に何かが触れ、ほんの数秒だけ戸惑った後ですぐに思い出してつまみ出す。二つ折りにされたソレは帰り際に手渡されたものだったが、とっさにポケットに隠したせいでかなりの皺が寄っていた。
『私の連絡先。みんなにはナイショね』
 そう言って笑った唇はとろりと濡れて光っていて、アレは妹や職場の女性社員が塗っているグロスという代物なのだろう。
 食事のときやキスをするときに剥がれ落ちたりしないのかといつも思うが、ツヤツヤした見た目はそれなりに惹かれるし、お菓子のようないい匂いもキツすぎなければ嫌いじゃない。だが、一見甘そうに見えても実は毒がたっぷりなのだと荒北はよく知っていた。
 好き、と甘えるその唇が陰では誰かに毒を吐いている。女性すべてがそうじゃないとわかってはいるが、妹2人に与えられた影響は思った以上に大きいらしい。
 彼女らの生々しい生態を嫌というほど見てきた荒北は、女性に対して少しドライだった。憧れや幻想といった類のものはいっさい抱いていないし、そのせいか今日のような合コンに参加してもどこか冷めた自分がいる。連絡先を渡されても気が乗らず、いつの間にか失くしてしまうのがオチだった。
 紙を指で弄びながら「どーしたもんかなァ」と呟いてみる。口にしてみただけで本当に迷っているわけではないのだが、これはいい機会なんじゃないかと思い込もうとしていた。ただ、前に進むにはまだ足が重い。
(なんか飲み足りねぇ……)
 酔いが中途半端だから余計なことを考えるのかもしれない。そう思った荒北は手の中のものをまたポケットに突っこむと、コンビニの明かりに吸いこまれるようにして店内へ入っていた。

 店内の一角で立ち止まった荒北はしばらくそこで悩んでいた。整然と並ぶ冷えたビールや酎ハイを前にして、どれにしようか決めかねている。
「んだこれ、唐辛子入りィ? ありえねぇ。誰が飲むんだよ」
 アルコール度数や味の種類を物色していると不意に携帯電話が震えて着信を告げた。大学時代のゼミ仲間からのものだった。
「よぉ、ひさしぶりィ」
 そう言いながら内心ではしまったなと焦っていた。大学を卒業して社会人にもなると、自分の周りでも結婚の話をちらほら聞くようになった。この電話の相手もめでたく結婚が決まっているのだが、その式へ参加するかどうかの返事をし忘れていたのだ。
「あー、わりぃ、返事だしてなかったナ。出席で。式っていつだっけェ? あ、リョーカイ。あぁ。ハッ! オメーのマヌケづらでも楽しみにしとくわ」
 他愛ない会話を続けながら商品をカゴに入れる。「じゃあまたな」と通話を終えるとポケットに電話を押しこみながらレジに向かった。
「酎ハイは……あ、念のためこの年齢確認のボタン押して貰ってもいいすか?」
「あー、ハイハイ」
 言われるままにレジ画面の『はい』を指で押す。その後は店員の流れ作業をぼんやり眺めていたのだが、カゴから取りだされた商品に驚いて反射的に「あァ!?」と声をあげた。
「え?」
 ピッ、という電子音とともに店員が顔を上げる。彼の手にはカップ入りのアイスクリームが握られていたのだが、荒北はそれをカゴに入れた覚えがない。
「え……買うんすよね?」
 店員が怪訝そうにアイスをかざす。荒北は数秒間悩んだあとで力なく頷いた。
 コンビニを出て手に下げた袋を揺らしながら歩く。
 テカテカに濡れた唇、丁寧に巻かれた長い髪の毛、香水の甘い匂い、胸元が大きく空いたトップスとそこから覗いた谷間。チョコバナナ味のカップアイス、くるんと跳ねた襟足、小説のページをめくる指先、寝起きのときにだけ少し掠れる声、ハンドルを握るせいで硬く厚くなった手のひらの感触。
 頭の中に浮かんだものがごちゃごちゃに混じり合い、ムカつくような、ムラつくような、複雑な感情が胸を占めていく。
「チッ……うぜぇ」
 大きくため息をついた荒北はその場に立ち止まると、踵を返してレンタルビデオ店へ行き先を変えた。
 自動ドアを抜け、ムシャクシャしながら階段をのぼる。そして店内の奥へ一直線に進むと、18歳未満立入禁止と描かれた暖簾を勢いのままにくぐった。

 
**
 酒を舐めながら鑑賞しているのは茶髪の女子大生が喘いでいるAVだった。唇が厚く、全体的に細身だが胸は大きい。彼女が身体をくねらせるたびにきれいに巻かれた長い髪がシーツの上で波打つ。
 オカズとしては申し分ないがもう少し肉づきが良くてもいいなと思った。むしろそのほうが好みに近くてヌキやすいのだが、ヌクだけなら少しくらいタイプじゃなくても問題ない。ふくよかな乳房がこれでもかと揉みしだかれているのを見ながら、ビールをゴクゴクと喉に流しこんでいく。
 いい感じにまわったアルコールは頭の中を空っぽにさせてくれる。ムラムラしてきた荒北は下着ごとスエットパンツをずり下げると、膨らみかけた性器を引っ張りだして上下にしごき始めた。
 映像に合わせて手を動かす。
 女が陰茎に舌を這わせれば、荒北も自身の亀頭を親指の腹で撫でた。先走りを撫でつけるように指で広げ、ヌルつかせた指で舌の感触を想像する。
 女の唾液でべとべとに濡れていく陰茎が羨ましかった。どうせならオナホールでも買ってくればよかったと後悔したが無いものは仕方がない。パソコンのモニターを食い入るように見つめて、手のスピードを徐々にあげていく。
「はぁっ、はっ、うっ……ふっ、あ……ッ!」
 男優の口内発射を待つ間もなく荒北は先に果てた。慌てて被せたティッシュに吐精しながら快感を追うように目を閉じる。だが、放出しきったあとの浮ついた感覚が失せると、次にやってくるのは独特な虚脱感だった。
「なにやってんだ……」
 ため息まじりに亀頭をぬぐって下着をもそもそと穿き直す。パソコンからは喘ぐ声がひっきりなしに続いていたが、興味が失せたので停止させた。今日はどうもこれ以上は気分が乗らず、本番を前にして試合終了だった。
「まさしく賢者タイムってヤツ……」
 床に仰向けに寝転ぶとすぐにフワフワした眠気が襲ってきた。
 露出度の高い女性を見ればムラムラする。今日の合コンのように乳房を押しつけられれば、わざとだとわかっていてもドキッとする。ヌキたくなったらひとりでするし、そのために使うのも男女がセックスするごく普通のAVだ。本来はノーマルな性癖なので、AVを観れば“挿れられたい”よりも“挿れたい”と思う。それなのに、思い出すたびに荒北を苦しくさせるのはいつだってあの男しかいない。
 ブーン……とかすかに聞こえたモーター音で冷蔵庫に意識が向いた。単身者には少し容量が大きいそれの冷凍室には、荒北が食べないアイスクリームが鎮座している。酔うたびに買っているらしいアイスクリームは今日でとうとう6つになってしまった。
(……やっぱコレって何かの病気だろ)
 意図せず増え続けるアイスクリームは買う癖がついているのか、それとも精神的な病気なのか。
 手渡されたアドレスを思い出した荒北は、つい連絡してみようかなんて考えてしまった。連絡先を教えてくれるくらいには好意を持たれたのだろうし、うまくいけば一度ぐらいはヤラせてくれるかもしれない。そう勘違いさせるほどに胸のアピールは不自然なものだった。
 彼女でもつくってみたらこの現状も何か変わるのかもしれない。しかし、そのために必要な手順を忘れてしまっている。
(とりあえずメールして、んで、メシ行かねぇとか誘ってみて、テキトーにカワイイとか褒めて……ってこんなんだっけェ?)
「つーか、クソメンドくせー」
 ちょっと想像してみただけでウンザリした。こんなにも面倒なものだったかと記憶の中から乏しい恋愛経験を辿ってみたが、覚えている限りでは彼に対して面倒だと思ったことはなかった。
 お互いに気を遣わず、黙っていても苦じゃない空気感。
 おそらくあの気軽さはふたりが長い時間を共有してきたからこそのものだろう。クラスは違ったが同学年で、同じ部活仲間で、寮生活のおかげで寝食まで一緒だった。
「アイツはまた別だからな」
と、懐かしさに気が緩んでしまったところである重要な点に気がついた。そもそも同性相手と異性相手では前提から違うのに、連絡先をくれた彼女に彼との経験が通用するわけがない。
「……情けねぇ」
 そんなことを思いつつもとりあえず今は眠気に勝てそうもなくて、荒北はすべて投げ出して目を閉じた。
 
 
2.
 ドキドキしなくなったのはいったいいつからだろう。ただそばにいるだけで一喜一憂してしまうような、そんな浮ついた日々は遥か昔のようだった。
 積極的に休みを合わせることが減って、むしろ合わせること自体が億劫でたまらない。会えない日は『仕事のせいでごめん』と謝り、会える日でも『仕事だから』と嘘をついた。セックスはおろか手を握ることすらなくなって、自分にとって恋愛の優先順位が低くなったのだと気がついたとき、荒北は別れ話を口にした。
『終わりにしてーんだけど』
 別れの理由を訊くまでもなく、彼は『わかった。そうしたいならいいよ』とあっさり受け入れた。不自然なほどにきれいな幕切れだった。

 手に持った大きな紙袋がやけに重い。荒北は立ち止まって袋を持ち替えるとじんわり痺れている右手を眺めた。赤く染まった手のひらには持ち手の跡がくっきり残っていて、苦々しい思いで舌打ちする。
 荒北を疲弊させているのは結婚式で貰った引き出物だった。この重さは何度も経験しているはずなのに今日はやけにずっしりと腕を引っ張る。
(こんなクソ重たいもん持たされて……これってただの嫌味っつーか当てつけだろ)
 結婚式に出席した帰り道だった。二次会まで参加して、そのあとは仲のいい友人数名と小さな居酒屋で飲み直してきた。
 フラフラした足取りだが意識はやたらと醒めている。6月にしては冷える気温のせいかもしれないが、居酒屋でもなんとなく酔いきれずにいた。
 赤信号で立ち止まると横断歩道の先に一台のロードバイクが停車した。黒地に赤が入った車体だが、フレームに記されたメーカー名までは見えない。
 信号が青に変わってロードバイクとすれ違う。ついついじっと目で追ってしまうのはロード乗りの性なのかも知れない。だが、車体に書かれたメーカー名はCで始まるものではなかった。
(つーか、もともとあんま見ねぇし……)
 数年前の自転車ブーム以来街中でもロードバイクをよく見かけるようになったが、あのメーカーだけは滅多に見ない。
(まぁ、見たところで別になんでもねーんだけど……ってまたかよオレは)
 荒北は背中を丸めながらフーッと重たい息を吐いた。すれ違ったロードバイクに彼の面影を見ていたことに気がついたからだ。そして、そんな自分が情けなくてもう一度ため息をついた。
 彼と別れた日から半年が経過していた。
 人間の身体を造る細胞はその部位にもよるが、新陳代謝が正常であれば約3ヶ月ほどで新しく生まれ変わっているらしい。とうの昔に習った知識でひどく曖昧だが、つまり単純に考えれば半年間なら2回は変わっているはずだ。
 それなのに……あの男のことをいっこうに忘れる気配がないのはなぜだろう。記憶が刻まれる場所というのは細胞とはまた別の場所なんだろうか。それとも脳や心だけは生まれ変わることがないのだろうか。
 結果論でしかないが、いっそのこと遠距離のままでいたほうがよかったのかもしれない。
 荒北が就職とともに関東に戻ったことでこれまでお互いの家まで約2時間ほどかかっていた距離が、電車をひとつ乗り継いで約15分という近さまで縮まった。だが別れた今となっては距離の近さは厄介なもので、もしかしたらどこかでバッタリ出会うんじゃないかと自然と探しているときがある。
 情けなかった。別れを切り出したのは自分だというのに、消化しきれない何かをまだズルズル引きずったままだ。
 荒北は荷物を抱えて歩きながら居酒屋での友人との会話を反芻していた。
 今日の主役だった新郎とは洋南大学で同じゼミを専攻していた。居酒屋に集まったメンバーも同様で、たまたまゼミ内で組んだチームだったが、ウマが合ったのか卒業後も遠慮のないつき合いが続いている。数年前までは誰にも彼女すらいなかったのに、最後の独身仲間もこうして無事に伴侶を得てしまった。
「荒北は最近どーよ」
「あァ? どーって何が?」
「彼女だよ。そろそろできてんだろ? ひとりやふたり、いや3人くらいいたりして」
「3人って……あのなぁ、オレをなんだと思ってんだヨ」
「いや、荒北のそんな話って聞かねぇからさ。ホントに心配してんだぜ俺たち」
 集中する視線を受けて荒北はいたたまれずに思いきり酒をあおった。
「おー、飲め飲め」
 荒北の口をなんとかして割ろうと友人たちも次々に酒を勧める。その甲斐もあり最初は頑なに話そうとしなかった荒北も、酔いのせいか結婚式の雰囲気を引きずってか、気がつけば自分の恋愛事情をポツポツと語り始めていた。もちろん相手が同性であったことは言っていない。話した内容も相手への愚痴ではなく、いつの間にか恋愛感情が冷めてしまう自分に対するものだった。
 いつからか相手に対してドキドキしなくなったこと。
 恋人よりも家族に近い感情だったこと。
 仕事を優先するようになり、ろくに話し合いもせずに別れてしまったこと。
 話し終えると「サイテーだろ?」と自嘲気味に笑って肩をすくめた。
「オレには恋愛なんてもんは向いてねーんだと思う。お前らとバカ言ってるくらいがちょーどいいわ」
 そう言ってビールを口に運ぶ荒北に、友人たちは「これだから荒北は」とため息を漏らした。
「なぁ荒北、ドキドキするだけが恋愛じゃねーだろ。それにこの歳にもなってそんな童貞くさい考えはヤバいだろ」
「そうそう。ドキドキすんのってそれはそれで楽しいし、彼女に求めるってのもわからなくもないけどさ。でも、それってやっぱり学生ノリっていうのかなぁ。ムダにかっこつけたりしなくても一緒にいてくれるっていうか、飾らなくても自分の全部を見せられるっていうか、本当はそんな相手が一番なんだぜ? 隣りにいるだけで落ち着ける心地いい空気、みたいなさ」
「はぁ? 空気ィ?」
「そ。空気って当たり前のように存在してるけど、なくちゃ生きていけないだろ? それと同じだ。ってこれってすげぇクサい言葉だな」
「……熱弁しといてよく言うぜ。ったく、勘弁しろよ。聞いてるこっちが恥ずかしいわ」
「でも本当に大事な相手ってそんなもんだろ。ドキドキしたり緊張したりしないってことを、一概にマイナスって決めつけるのは良くないと思うぜ。浮かれるだけの時期が終わって、お互いに自然体になれてたってことかもしれないだろ? 嫌いになって別れたか? どうしても許せねぇとこはあったか? もしそういうんじゃねーんならさ、お前にとっての空気なんじゃねーかってもっかい考えてみたら?」
「オレの空気……」
 いるのが当たり前で、いないと生きていけない存在。頭の片隅でクセのついた赤毛が揺れる。
「生きていけねぇって……アイツはそんなんじゃねーけど……でも」
「でも?」
「一緒にいるとすげぇ楽っつーか、なんも気にしなくてもいいっつーか……別に許せねぇってのもねぇし……」
 うまく言葉にできなくて口ごもる。そんな荒北の肩を友人が励ますようにポンと叩いた。
「だからその子なんじゃねーの? 嫁がいるってのはいいぞ。悲しいときは分け合えるから半分で済むし、嬉しいときはふたりで2倍だからな。ガキができりゃもっとだ」

(悲しいのは半分、嬉しいのは2倍、か……)
 帰宅後、荒北は缶ビールに口をつけながら引き出物をひとつひとつ開封していた。
 まだ記憶が新しいせいか開けるたびに式の思い出が目に浮かぶ。普段は下ネタばかり言う友人が白いタキシードを凛々しく着こなし、今日だけは誰よりもカッコよく見えた。
「アイツ、ぜってー嫁さんよりも泣いてただろ」
 披露宴では新郎が盛大に泣きすぎたせいで参加者にやたらと檄を飛ばされていた。全員の涙を誘う場面のはずなのに、あんなに笑いが起きた披露宴は初めてかもしれない。
 ビールを飲みつつ引き出物の袋に手を入れる。最後の箱は思いのほか大きかったがそのわりに軽い。包装紙を破いてみると出てきたものは高さが8センチもあるというバウムクーヘンだった。そういえば予約するのに苦労したんだと、いつかの飲み会で新郎が話していたかもしれない。
「でけぇ……つーか、コレをひとりで食えってのかよ。独り身には優しくねー代物だな。しょーがねぇから実家にでも持って帰るかァ」
 再び蓋を閉じかけたが、せっかくだからひとくちだけ食べてみることにした。
 ビニール袋を開けてバウムクーヘンを小さく千切る。頬張った瞬間に甘い匂いが鼻に抜けて、その甘さを噛みながらアイツならこの量でも喜んでペロリと食べただろうなんて思ってしまった。だが、荒北が思い浮かべた人物はもう隣りにいない。
「クソあめぇじゃねーか……」
 もしかしたら、とありえなくもない未来図を想像した荒北は、口内に残る甘さをアルコールで無理やり飲み下すと空になったビール缶を手の中で握り潰した。
 もしかしたら――
 いつか忘れた頃に招待状が届いて、白いタキシード姿のにやけた顔を見る日がくるのかもしれない。
 滞りなく進行していくセレモニーの中で、爪をきれいに切り揃えた指先が白いベールをそっとつまむ。彼はいつも少しだけ深爪にしてしまうのが癖で、切りすぎたと言いながら痛そうに顔をしかめていた。
 何度も荒北に触れたあの指が壊れものを扱うように薄布を持ち上げる。新婦に愛おしそうに微笑む彼の目尻は、きっといつも以上に情けなく垂れるのだろう。
『一生あなただけを愛すると誓います』
 呪縛のような言葉を宣言した彼が誓いのキスを交わし、荒北はそれを参列席から眺める。おめでとうと言いながら拍手を送るのか、それとも、周りにつられて誰に見せるでもない写真をバカみたいに撮影するのか。
 式のあとは友人たちと当たり障りのない会話をして、ほろ酔い気分で重たい引き出物を持ち帰り、家でひとりバウムクーヘンを齧る。甘いと呟く荒北の隣りには誰かがいるのだろうか。
 ポタリと頬に何かが落ちて、気がつけば涙があふれていた。
「ん? うおっ!? っんだよコレェ」
 ぬぐっても涙は止まらず、目の前の景色が水没して歪む。涙にすっかり浸かってしまった室内で、荒北は信じられない気持ちで嗚咽の漏れる口を覆った。
 ずっと忘れられずにいるのは好きだと言う気持ちがまだ残っているからだ。
 わかっていたくせに長いこと目を逸らし続け、別れを切りだしたのは自分だからと情けない意地を張っていた。失って初めて大切なものに気がつくというあまりにも粗末で陳腐な結末は、自分のことながら呆れてものも言えない。
 いつだったか荒北は“アイツは別だから”と思ったことがある。今にして思えばあのときの“別”は区別の意味ではなく、特別の“別”だった。やっとそれに気がついたというのに特別な人はそばにいない。
 長いつき合いの中で相手の好意や居心地の良さにあぐらをかき、いつしかそれが当たり前だと思うようになっていたのかもしれない。
 彼が荒北に不満を漏らしたことはあっただろうか。たとえマンネリだったとしても、それを打開する手段ならいくらでもあったのではないか。でも自分は何もしなかった。彼のことをもう好きじゃないのだと勘違いし、挙句、一方的に別れを告げた。

――靖友、今日は来てくれてありがとな。これからは嫁さんと幸せになるよ。

 いつか訪れるかもしれないその瞬間。もし彼以外に言われたなら「せいぜいバカやって捨てらんねーようにナァ」なんて軽口をたたく余裕もあっただろう。
 だが、彼は無理だ。
 耐えられない。
 荒北だけを映していた瞳が他の誰かを見つめ、好きだと繰り返してくれた厚い唇も自分以外に愛していると囁く。彼のすべてが誰かのものになる未来は明日かもしれないし、もしかしたら今この瞬間にも荒北の知らない場所で訪れているのかもしれない。
(自業自得……)
 身体が、心が重かった。たかが妄想だとわかっていても押し潰されそうなほどにキツく、とてもじゃないが白いタキシード姿は祝福できそうにない。
「……新開」
 荒北はその夜ひさしぶりに声を出して泣いた。
 
 
3.
 それからしばらくたったある日、荒北は新開の家に向かっていた。
(別れようなんて言ったけどやっぱりお前が好きだ。身勝手なのは充分わかってる。許してもらえるなら、どうかもう一度……)
 言い訳を考えても結局何もまとまらず、とにかく勢いに任せてチェレステカラーのロードバイクを走らせている。
 通い慣れた道は別れる前と変わっていなかった。このまま家に着いたら笑顔の新開が「早かったな」と何事もなかったように出迎えてくれる――そんな錯覚を覚えてしまうほどにあの頃と同じ景色が続いている。ただ、道沿いに並ぶ桜の木だけが半年前とは違っていて、時間の経過は確かにあったのだと荒北を現実に引き戻した。
 桜が咲いたら花見をしようと約束したのはいつだったか。結局あの口約束が果たされることはなく、あの頃は枝ばかりだった桜の木が今は緑の葉を纏って重そうに揺れていた。
 新開が暮らしているだろうマンションに到着した荒北は、明かりの灯っていない窓を見上げながら、落胆したようなホッとしたような複雑な気分でいた。念のためインターホンを鳴らしても、扉をノックしても反応がない。留守にしているだけだとは思ったが、荒北は万が一を想定して携帯電話を取り出した。
 迷う指が電話帳をスクロールし、ある名前を選んでピタリと止まる。そして何秒かためらったあとで発信ボタンを押した。
 呼びだしのコール音が続く。他に何も音がないせいで全神経が嫌でも耳に集中していた。ゴクッと唾を飲んだところで電話が繋がったが、あまりの騒々しさに相手の声がうまく聞き取れない。
「福ちゃん? オレだけどさァ新開探してんだけど、アイツ引っ越しなんてしてねーよナ?」
「新開? ヤツなら今ここにいるぞ。ちょうどみんなで結婚祝いをしているところだ」
「え……結婚?」
「そうだ。明早大の近くにある居酒屋で――
「いやいやいや、結婚って! あれからまだ半年だぜ!? いくらなんでも早すぎんだろ」
「早すぎる? そうか? 確か2年は交際しているはずだが」
「はぁ!? に、2年って……ってことはアイツ二股かけてやがったのか!?」
「ふた? すまない荒北。声がよく聞こえなくてな」
「なぁ福ちゃん、そこに新開がいんならちょっと代わってくれヨ。アイツ、オレのこと騙して……クソッ、文句言ってやんねーと気がすまねぇ。なんなら一発ぶん殴りてぇ」
「新開なら……ああ、荒北、ちょっと待ってくれ。おい新開、荒北からお前に電話だ」
 福富の声の向こうで「靖友が?」という聞き慣れた声がした。瞬間的に荒北の頭に血がのぼり、強い怒りで目がくらむ。
「もしも――
「テメェふざけてんじゃねーぞ! たった半年で結婚たァどういうことだ! しかも二股だってなぁ。いい度胸してんじゃねーかよ、お前。ナメてんじゃねーぞ」
「ええと……全然話が見えないんだけど」
「うるせぇ! とにかく一発殴らねぇと気がすまねーんだよオレはぁ! テメーんちで待ってっからァ、とっとと帰ってこい! いいか、逃げんじゃねーぞ」
「え、今オレんちか?」
「そうだっつってんだろーが! つべこべ言わずにさっさと来い。オレはムカついてしょーがねぇんだヨ」
「わかった、すぐ行く。わるい寿一、ちょっと用事ができたから今日はこれで抜けるな」
「なっ……ちょっとってなんだよテメェ。ちょっとどころじゃねーんだぞこっちはァ!」
「荒北、オレだ。よくわからんが新開なら走って行ったぞ」
「あの野郎……ただじゃすまさねぇぞ。福ちゃん、邪魔して悪かったな」
 終話ボタンを押して携帯電話を怒りのままにポケットにねじこむ。
 次々に湧き上がってくる苛立ちのせいで、今の荒北には冷静に話し合いなどできそうもなかった。考えてきた言葉もすべて吹き飛んで、頭の中には何もない。とにかく新開に罵詈雑言をぶつけないと気が済まないし、顔を見た瞬間に一発とは言わず数発は殴ってしまうかもしれない。
「クソッ……やっぱアイツも別れたかったんじゃねーか。だからあっさり『わかった』なんて言いやがったんだ。しかもよりによって二股かヨ……オレはまんまと騙されてたっつーわけかァ。上等じゃねーかヨ、あの野郎ぜってー許さねぇ」
 ドアにもたれながら怒りに震える拳を握る。
 荒北以外に相手がいたなんて思いもしなかったし、予想外すぎる展開に気が動転している。
 18歳で新開との関係が始まり、荒北は彼しか知らないというのに向こうにはもう一人相手がいた。しかもその相手は女性だったうえにもうすぐ結婚するという。
(……結局は女かよ)
 捨てられたんだと思った。こっちから関係を断ったはずが本当は捨てられていた、そんな気分だった。
 幾度となく告げられた“好きだ”という言葉も、触れてくる手の優しさも、共有してきた時間のすべてが、いや、少なくともこの2年間は嘘だったことになる。
 すべてが無意味に思えた。新開を想って泣いた夜やこれまでに葛藤してきたことはなんだったんだろう。
「……会いに来たのが間違いだったってわけか」
 もう一度やり直したいと思わなければ何も知らずにすんだかもしれない。でも、人づてに結婚したことを知らされるのもなんだかシャクだ。
 来たらすぐにわかるようにと部屋の前を離れ、エントランスを抜けて敷地内に設けられたベンチに腰を下ろす。少し落ち着こうと深呼吸してみたところで、家を確認するという本来の目的を聞き忘れたことに気がついた。
「まぁ、家が違ったら連絡してくんだろ」
 夏前のぬるい風に肌を撫でられ、その風の中に雨が降る前の独特な匂いを嗅ぎ取った。
(やっぱ来るんじゃなかったぜ……ツイてねーな)
 とりあえず自転車を濡れない場所に移動させると、ため息をつきながら再び腰を下ろして帰りを待った。

 
*
「靖友っ……!」
 息を切らせた新開が荒北の前に姿を現したのは、電話を終えてから30分ほどたったあとだった。
 新開は明早大学の近くにいたはずで、大学からここまではそう遠くないが30分でこれるような距離ではない。居酒屋にいたのだから当然アルコールを飲んでいたのだろう。新開は流れる汗をぬぐいもせず、膝に手をついて苦しげに喘いでいる。
「ハンッ! 走ってきたってわけか」
「ああ。すぐ行くって言っただろ」
 待っている間に少しは落ち着いたつもりだったが、いざ顔を見てしまうとダメだった。こみ上げてくる怒りに脳を揺さぶられて、なけなしの理性があっという間に消えていく。
「おい新開……今日オレが来なかったら何も言わねぇままだったんだろ。オレをうまく騙してテメーはめでたく結婚ってか? ハッ! ざまぁみろ。人生ってヤツはなぁそんなにうまくはいかねーんだヨ」 
 ゆっくり腰を上げた荒北はそのまま新開に歩み寄ると彼の胸倉を掴んだ。
「なぁ聞いてんのかヨ。何か言ったらどうだァ? あぁ? それとも図星でなんも言えねぇのか?」
「靖友? とりあえず離してくれ。何のことかわけがわかんねぇ」
「はぁ? わけがわかんねーのはオレのほうだ。フンッ。離してやってもいいぜ。でもテメーを一発殴ってから、なッ!」
 言い終わる前に新開の頬を拳で殴った。骨を打つ鈍い音がして、殴られた勢いで新開が後ずさる。驚いて目を見開く彼の唇にうっすらと赤色が滲んだ。
「へぇ。今ので倒れねーのは評価してやんよ」
「……靖友、おめさん何か勘違いしてんじゃねーか?」
「はぁ? 勘違いだぁ? オレはこの耳でしっかり聞いたんだよ。テメーが二股かけてた挙句にソイツと結婚するってなァ」
「二股? オレが?」
「そうだよオメーだよ。しかもオレとその女は2年も被ってたらしいじゃねーか。……ぜんっぜん気がつかねぇオレをホントは笑ってたんだろ? さぞ楽しかっただろうなァ、何も知らねぇオレを騙しながら女とヤんのは」
「オレはやってない」
「あ?」
「オレは二股なんてかけてないし、結婚の予定もない」
 口内にたまった血と唾を吐き出した新開が口元を手の甲でぬぐう。一瞬だけ痛みに顔を歪めたが、すぐに荒北を直視して「オレはやってない」と繰り返す。
「わりぃけどオレは信じねぇぞ。んなもん何とでも言えんだろ。つーかもう勝手にしろヨ。一発殴ったからこれでチャラにしてやる。結婚でもなんでも勝手にしろ。どうせ……どうせもう会うこともねーんだ」
 じゃあなと告げて去ろうとしたとき、荒北の腕を新開が掴んだ。
「……なんだヨ」
「おめさんは何しにここに来たんだ?」
「はぁ!? 何だソレ。お前、オレに喧嘩売ってんの?」
「そうじゃない。靖友がここにいる理由をオレはまだ聞いてないから」
「……何でもいいだろ。つーか、もう終わってんだよ」
「おめさんが終わってもオレは終わってない。それに、聞くまで帰す気もないよ」
 離すつもりはないとでも言いたげに腕を握る手に力がこもる。そのとき、ふたりの身体にポツッと水滴が乗った。
「雨か……とりあえずうちに入ろうぜ」
「なっ……おい、離せ! オレはもう帰るんだよ!」
「だから、帰さないって言っただろ?」
 強い力で腕を引かれ、抵抗しながらも数分後には新開の自宅にいた。
 

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