【新荒】潰えた夢の残骸を噛む1【タイムリープ風】

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アラサー新荒、ふたり共にロードレーサーとして活躍中。別れて数年たった後。
・落車事故をきっかけに、荒北さんの意識が過去にタイムリープ。現在と行ったり来たりしながら大切なものを思い出していくお話。

 
 急いでいるときに限って赤信号に足止めされ、通りを走るタクシーは手を挙げても捕まらない。歩道を走りながらようやく捕まえても、渋滞に巻き込まれたせいで一向に進まなかった。今日は余程ツイていないのだろう。焦る気持ちが平常心をジワジワと削っていく。
 腕時計に目をやると14時の出発便まではもう時間がなかった。意地など張らずに早く家を出るべきだった。決心がつかずにいつまでもグズグズと迷っていた自分を恨んだが、過ぎた時間はどうすることもできない。
「お客さん、この渋滞しばらく動きそうもないですね。事故でもあったかなあ。時間大丈夫ですか?」
「他の道ってないんスか? 裏道とか」
「いやー、ここから抜けるのも無理でしょうねぇ。後ろも詰まっちゃってるし……どうしてもってなら、もう降りて走るしかないんじゃないかなぁ。ほら、映画みたいな感じで」
 まぁ遠いし無理だよねぇと笑う運転手の声を聞いているうちに、ピンと張っていた気が緩んでしまった。いまさらどう足掻いてもここを抜け出す手段はない。荒北靖友は深いため息をつきながら後部座席に身体を沈めた。
 車窓から見える空は今日の旅立ちを祝福するかのように清々しく晴れている。荒北にとっては嬉しくも何ともない。むしろ悪天候だったなら飛行機の遅延や欠航が発生して好都合だったのに。
 ようやく渋滞が解消されたのかタクシーが緩やかに進み始めた。
(時間……!)
 期待を込めて腕時計に視線を落とす。しかし時刻はとっくに14時を回っていた。
 諦めてもう一度空を見上げると、一筋の白線を描く飛行機が見えた。日差しを受けながら白色の背中を光らせて飛ぶ機体。もしかしたらあれに乗っているのだろうか。それともまた別の便だろうか。どちらにせよ今からではもう間に合わない。新開隼人は旅立ってしまったのだ。今度こそ、決して荒北の手の届かない場所へ。

『離れたほうがいいな、オレたち』

 そう言ってなぜか微笑んだ新開の顔を思い出す。
「どうします? 予定通りにこのまま空港に向かっちゃってもいいですか?」
「あー……いや、どっかで引き返して貰ってもいいスか? もう間に合わないんで」
「え? もしかして乗り遅れた? お客さん大丈夫?」
「いや、見送り……のつもりだったんスけどネ。たぶんもう飛んじゃってるんで。だからもういいッス」
 これから空港に向かったとしてもそこに新開はいないだろう。見送りの場にいない荒北を彼が待つ理由はない。
 携帯電話を取り出してみたがそこには何の連絡も来てはいなかった。メールも着信も何もない。見送りの中に自分がいないことを彼はどう思ったのだろう。来なくて当然だとでも思っただろうか。
 手の中で携帯電話が短く震えてメールの受信を知らせた。急いでメール画面を開いたが、差出人の名前は“福富寿一”だった。

〈新開は無事に出発した。予定があって来られなかったらしいが、お前からも労いのメールでもしてやったらいい〉

(労いなんて……んなモンできねェんだよ、福ちゃん……)
 予定があって来られないとは新開が言ったのだろう。荒北の不在を変に思われないように気を利かせて嘘をついたのだ。
 ふたりの関係は誰にも知られてはいない。実はつき合っていたけれど別れて気まずいから荒北は見送りに来ません、などと言える訳がない。最後まで気を遣ったのは関係を隠し通すためなのか、それとも、残される荒北を思ってのことなのか。
「あの信号で引き返しますね。どこまで戻りましょうか?」
「あー……どっか近い駅で降ろして貰ってもいいスか」
「はい、わかりました。お客さん、見送り残念だったねぇ。酷い顔色だけど大丈夫? あ、まさか別れた恋人を見送るとかだった?」
「……いや、ただの友人っスよ」
「そう? 私はねぇ別れた彼女を諦められなくて追いかけたもんですよ。いやー、あの頃は若かったなぁ」
 懐かしいなぁ、と思い出を語り出した運転手に空返事をしながら福富からのメールを閉じた。新規メール作成の画面を開いてアドレス帳の“さ行”を検索する。新開の名前を表示させたが、文字の上で指が止まった。迷った挙句にメール作成画面を削除して、携帯電話をポケットにねじ込む。
(マジで終わったのか……)
 釈然としない気持ちが湧いてくる。それでもあの日の別れを受け入れたのは自分だった。勢いでここまで来てしまったが会ったところで何を言えただろう。

――行くな、別れたくない、やっぱり好きだ

 あれこれ考えてきた言葉。結局はどれも言えずに終わってしまったのだからもう意味がない。再び空を見上げてみたが、飛行機はもうどこにもみつけられなかった。
 
 
1.
 ノートに落としていた視線をあげる。あくびを隠しもせずに大口を開けた荒北は、ペンを置いてベプシ缶に手を伸ばした。缶の表面は小さな水滴で覆われていて、持ち上げると丸い水の輪が机上に残る。エアコンの利きが悪い3年C組の教室は蒸して暑く、買ってきた冷たいジュースもこうしてすぐに結露を生む。
 荒北は勢いよくベプシを飲み干すと正面に座っている新開に視線を移した。
 右手に握ったペンで額をかきつつ唸りながら眉を寄せ、かと思えばパッと顔が華やいで厚い唇の端がキュッと上がる。課題のレポートに百面相を見せる彼を眺めているうちに、荒北の口角もつられて持ち上がっていた。
 頬杖をつきながらしばらく観察していたのだが、見られているとは気がつかないらしく、新開はまったく顔を上げない。
「なぁ、新開」
 用事もないのに声をかけてしまったのは、ただの悪戯心か、それとも構ってほしいがための子供心か。
「ん?」
 呼ばれた新開が机上の紙から目を離す。くりくりした双眸に荒北を映して「なんだい?」と小首を傾げた。だが、声をかけてみたものの荒北には用事がない。「や……ワリィ、なんでもねェ」と曖昧に笑った。
「……ふうん? あ、もしかしてもう飽きちまったのかい? でも始めてからまだ30分も経ってないよ」
「ちげーヨ! なんでもねぇって。ちょっと……呼んでみただけだ」
 荒北の言葉に新開がパチパチと瞬きし、「どうしたんだ?」と目を細めて笑う。
「……べつに」
「そう? とにかく、おめさんも早く手と頭を動かしてくれよ」
「……わーってる」
「ならいいけど」
 新開はまたノートに視線を落とし、「どこまでやったかな」と解法過程を指で追いながら唇をもごもご動かした。それをまた眺めていた荒北は、唇から目を外せずにいる自分に気がついて慌てて窓の外を見た。逸らした視線の先、正門に続くロータリーを数台のロードバイクが駆けていく。見慣れたあのロードバイクの色は自転車競技部のクライマーたちだ。これから外周に出るのだろう。彼らはあっという間に見えなくなった。
「あー……オレも早く乗りてェ」
 頭の中で思ったことがそのまま口から滑り落ちていた。
「そのためには早く課題を終わらせないとな。これを提出しないと部活には行けないんだぞ」
「わーってんヨ」
「オレはあと1問だけど靖友は……え、まだそこか」
「っせーなぁ。こんなもんすぐに終わらせてやんヨ。つーことでオメーの見せろ」
「え? オレの?」
「オメーもさっさと部活行きてぇんだろ?」
「それはそうだけど……って、おめさんを待つみたいになってるけど、終わったらオレは先に行けるんだぜ?」
「あ? まさか仲間を見捨てんのかヨ……そうか。オレのことを見捨てて行っちまうんだナお前は。そうかそうか」
「おいおい。なにもそんなことは言ってないだろ」
「じゃあ、仲間思いの新開チャンは見せてくれるよな?」
 ニヤリと笑いながら手のひらを差し出して催促する。新開は眉尻を下げて困ったように笑い、「どうぞ」とレポート用紙を荒北によこした。
「見せる代わりに最後の1問はおめさんが解いてくれよ?」
「へいへい、任せとけって」
 新開の解いた答えを順調に書き写していく。
 外で鳴く蝉の声、廊下を通り過ぎていく上履きの音、他の教室から聞こえる笑い声に、紙の上をはしる忙しないシャープペンシルの音。荒北を取り巻くたくさんの音の中に、「ズズッ」とパックジュースを飲み干したときのストローの音が混じる。「汚ねぇ音させんなヨ」とからかえば「汚くなんかないだろ」と新開が笑い、バナナミルク味の風が荒北の指をかすめた。
「なぁ、靖友」
「んー?」
 書き写しながら返事をする。だが、名前を読んだきり後が続かないので、荒北は手を止めて顔を上げた。
 いつから見られていたのか、頬杖をついた新開の大きな瞳が荒北をじっと見つめていた。筋の通った鼻梁にうっすらと汗を載せている。
「……な、んだヨ」
 無言のまま、新開が荒北の左手を掴んだ。汗をかいた手のひらが甲をぎゅっと握る。
「あのさ――
 

 けたたましいアラーム音で目を覚ました荒北は、その瞬間、自分がいる場所を見失っていた。蒸し暑い教室も、課題のレポートも、手を握る新開の姿もない。見慣れた天井と視界の端に下がるカーテンの色でようやくここが自分の部屋だと理解し、ノロノロと腕を伸ばして携帯電話のアラームを止める。
「なんか……すげー懐かしいもん見た気がすんナ……」
 まだ重い頭を振りながら身体を起こし、熱いシャワーでも浴びて目を覚まそうと、とりあえずいつもの習慣でテレビの電源を入れた。

――靖友

 不意にそんな声が聞こえた気がして、勢いよくテレビ画面を振り返る。だが、当然のことながらそこに彼の姿はなく、ニュース番組の司会者がニコニコと笑顔を振りまいているだけだった。
「……おいおい、幻聴ってヤツじゃあねーだろーなぁ。いい加減にしてくれよ、オレの頭」
 おそらく懐かしい夢を見たせいだろう。彼の声がまだ鼓膜の奥にこびりついて離れない。
 別れてから数年が経過しているというのに、いまだにこうして夢を見る。それも決まって学生時代のものばかりだった。もしかしたら自分はあの頃に戻りたいと無意識下で願っているのだろうか。若さと勢いに任せ、何ひとつ怖いものがなかったあの頃に。
 シャワーの栓を目一杯捻り、熱いお湯を頭から浴びる。
「クソ……寝覚めワリィ」
 もし高校時代に戻れたとするならば、一体どこからやり直せばいいのだろう。あの夏の日に戻って新開の想いに応えなければ、今のこの状況を回避できるのだろうか。
(……って、できるわけねーけど)
 左足を伸ばして腿を掴む。あちこち指で押してみたが、今のところ違和感はない。今日の練習は長距離ライドの予定で、ようやく思い切り走れるというのに荒北の心は少しだけ重い。

『この先、身の振り方を考えておいてくれ』

 選手の度重なる怪我やスポンサーの経営不振が重なって、荒北はもちろんのこと、チームメイトの多くが近い時期での引退か移籍を仄めかされていた。
 現在所属しているチームには突出した才能を持つ花形選手がいない。そこそこの賞を取り、そこそこの成績を残してはいるが、特に大きな躍進はなく、注目を浴びることがないままチーム自体が長年燻っている。スポンサーとの契約が切れそうになったこともあった。
「……そろそろマジで考えねぇとヤベェかもなぁ」
 湯にあてながら左足全体をストレッチの要領で伸ばしていく。指先が肌質の違う箇所に触れて、なんとなくそこに視線を落とした。腿に残る太い線のような引き攣れ痕を指先でツっとなぞる。
 荒北の左の太腿には大きな縫合痕が残っている。約2年前の落車事故で骨折し、その治療でボルトを埋めたときの傷痕だった。疲労が溜まりすぎたときに思い出したように疼くこともあるが、日常生活を送るうえでは大した影響もなく過ごせている。
 だが自転車競技の選手としてはまた別問題で、怪我をする前のペダリングがいつからかできなくなっていた。怪我は完治して骨も無事にくっついている。それなのに前の走りができないのは、精神的なものが原因か、それともここが自分の限界なのか。
 石鹸を手に取り、泡立てて身体中になすりつけていく。傷痕は足だけではない。全身に残る細かな生傷や古傷の上を白い泡で覆っていく。
 高校時代にロードバイクに出会い、がむしゃらにペダルを回して、前に進むことだけを考えてきた。肉体を削り、精神を削り、純粋な“勝ち”を常に求め続ける。そのためにずいぶん無茶をしてきたがそろそろ限界が近いのかもしれない。
 引退か、それとも移籍か――
 最近の荒北の頭の中にはその二択がぐるぐると渦巻いていた。
(アイツなら……)
 こんなときに彼ならどうしただろうかと、思い浮かべてしまったのは新開の顔だった。
 

『もう無理だよ。おめさんも、オレも。もう疲れちまった』
『わかってるだろうけど、今の靖友とは未来が見えない。うまく続けていく自信も余裕もないよ』
『こんな状況なら、オレは迷わず自転車を取る。おめさんだって……選択は同じはずだ』
 

 同じ競技者でもある新開は荒北のよき理解者だった。しかし、その関係はすでに過去の話で、今さら彼に相談などできるはずがない。
「っし! とりあえず今日も走っかァ!」
 ゴシゴシと顔を洗った荒北は、思考を切り替えるように両手で勢いよく頬をはたいた。発破をかけた頬よりも胸の奥底がジンジンと不快で痛い。
 
 
*
「足の調子はどうだ? 意外に踏めているようだな」
 後ろを走っていたチームカーが荒北の横に並ぶ。助手席に座っているコーチに親指を立てて見せると、「気を抜くなよ」とコーチも親指を立てて応えた。
 肌を伝い落ちる汗を手の甲でサッとぬぐう。心配していた腿の張りもなく、長時間ペダルを漕いでも不快なあの違和感は生まれない。
(踏める、よし、大丈夫だ)
 ギアを変えるタイミングもバッチリで、荒北はしっかりとした手応えを感じていた。今度のレースこそいける。そう思った。

 練習後のミーティングで次のレースのメンバーが正式に伝えられ、6人目に名前が呼ばれた荒北は思わず「ヨシ」と呟いていた。
 今期の荒北は不調続きでまともな成績を残していない。ようやく巡ってきた挽回のチャンスかと思えばなおさら力が入る。
「しっかり働けよ」
「っス!」
 湧いてくる闘志を抑えきれず、固くこぶしを握って小さくガッツポーズをとる。チームメイトにも次々に肩を叩かれて、荒北は自然と笑みをこぼしていた。
「そうだ、確か海外の招待チームが決まったらしいな。お前たちもしっかりチェックしておけよ。彼らに勝てたら、いや、少しでも上位に食い込めればうちのチームの宣伝になるからな。スポンサーにも堂々と顔向けできる」
 ニヤリと笑う監督が解散を告げて、この日の練習は終わりになった。
(おっと、チェック、チェック)
 帰りがけに監督の言葉を思い出した荒北は、エントランスを引き返して事務室に向かった。まだ残っていたスタッフに「海外チームの資料ってもう来てんの?」と声をかける。
「いや、まだ参加チームが決まっただけでメンバーの情報まではきてないんだけどね」
「じゃあ、チーム名だけ教えてくれヨ」
「ええと、ちょっと待って……はい、これ」
 スタッフが差し出したものはメールをコピーしたもので、英文で書かれた文章の下に参加チームの名前が3つ載っている。
「サンキュー。あんがとネェ」
 ひらひらと手を振ってその場を離れ、歩きながら改めてコピー用紙を眺める。1つはカナダの有名なチームだったが、残り2つは覚えがない。
(オランダとベルギーか……スポンサー契約でチーム名でも変わったか?)
 競技者すべてが世界中のチームを把握しているわけではない。特に荒北は根っからの自転車ファンではないせいか、国内のチームですら知らないところが多い。いつも他のチームメイトにからかわれるネタのひとつだった。
(ま、帰ったらネットで見てみっかァ。つーか腹減ったァ。ラーメン食いてぇけど、この時間じゃまた明日の練習んときにドヤされンだろーなぁ)
 食事管理のトレーナーに『摂る時間とメニューをよく考えろ』とネチネチ言われる光景が目に浮かぶ。はぁ、とため息をつきながら家路を急いだ。
 
 
2.
 静岡県上富士市にある総合スポーツ公園。そこをスタート地点として国道139号線を本栖湖方面に向かい、富士五湖付近をかすめて、ゴールが置かれた芦ノ湖へ下っていく全長約110キロのコース。出発地から富士山の裾野を時計回りに迂回していく道のりは、高校最後のインターハイで走った懐かしいコースであり、洋南大学出身の荒北にしてみれば練習で走り慣れた道でもあった。
「荒北。お前がまだ現役を続けるつもりなら今日は大きなチャンス日だ。目一杯売りこんでこい」
「はあ……うス」
 どこかうわの空の返事にコーチが首を傾げる。だがそれ以上深くは考えなかったのか、「まあ、とにかく目立てよ」と荒北の肩を叩いて監督のもとへ行ってしまった。
 荒北はバナナを頬張りながらたくさんのことを考えていた。レースに向けて集中力を高めていたわけではない。勝手に浮かんでくる記憶を押しのけようとして、あえてどうでもいいことばかりをひたすら考えていた。
 宿泊したホテルの食堂風景を思い出しながら、朝食バイキングのメニューをいちいち反芻する。
(あの魚もよかったけど、鶏肉のほうがオレは好きだな。やっぱあれか。タレが旨いんだな。白飯にあう。あー、パスタももう少し食べとけばよかったかァ? ちょっと抑えすぎちまった気がすんなァ。あとで補給増やすように頼まねェと。パワーバーでも数本増やして……)
 出し抜けにパワーバーを齧る唇が頭の中に浮かぶ。慌ててバナナの残りを頬張ると、とっくにチェックし終えたコースマップをまた眺めた。
(つーかこの辺懐かしー! この坂、登ってみると意外にキチィんだよなァ。“坂往復地獄の50本”はマジで地獄だったぜ。一回ぶっ倒れちまったときはちょうどアイツが泊まりに来る日で、せっかく来たってのにオレはほとんど寝てばっかで……)
 コースを見ているうちに大学時代の思い出が蘇り、結局はあの男へと記憶が繋がっていく。思い出さないようにしているはずなのに、最終的に彼に辿り着いてしまうという、なんとも不毛なやり取りを頭の中で繰り返していた。
(バカすぎる……)
 ガシガシと頭をかいてベンチ横のミニテーブルにマップを放り出す。そして、背もたれに深々と身体を預けた。
「お前が落ち着かないなんて珍しいな、荒北。緊張して腹でも痛くなったか?」
 無意識に足を揺すっていたらしい。近くにいたチームメイトが荒北の腿を押さえつけて、落ち着かない姿を笑った。
「……まさか。ゼッコーチョーに決まってんだろ」
「ならいいけど。お前、ここんとこずっと変だぜ。まぁ、移籍するつもりなら今日はチャンスだからな。緊張するって気持ちもわかる。うまくいけば海外のスカウトマンに拾って貰えるかもしれないし」
「スカウトォ? って、まだ先のことは決めてねぇから」
「まじかよ。オレは狙ってくぜ。まだここで終わるつもりもねーし。お前もいずれは海外のプロチームにチャレンジする予定なんじゃねーの? 前に言ってただろ。昔の仲間に負けてらんねぇって」
「……そーだったっけェ?」
 答えをはぐらかす荒北の足が小刻みに揺れる。今度はしっかりと自覚して、舌打ちしながら貧乏ゆすりを自分で止めた。
(まだ落ち着かねーのかヨ、オレは……ダセーなァ、おい)
 ここのところ荒北は特に落ち着かない日々を過ごしている。理由は至極簡単で、海外からの招待チームに新開がいる、それだけだった。
 半年前、このレースに参加する海外チームの情報を得ようとしてアレコレ調べていたとき、新開がベルギーのチームに所属していることを知った。
 彼の名前を見つけた瞬間に心臓が大きく跳ね、身体の奥深くに追いやっていた思い出の蓋が一気に開いたのを感じた。それは決して穏やかなものではなく、荒北の痛い部分ばかりをざわつかせ、レース当日になっても治らない。むしろレースが近づくにつれて、どうしようもなく大きなストレスとなって荒北を疲弊させていた。
「ちょっと便所行ってくるわ」
「なんだ、やっぱり腹痛か?」
「バァカ、ちげーヨ」
 チームテントが立ち並ぶ中を目的もなく歩く。あちこちからウォームアップ中のローラーが回転する音が聞こえていて、笑い声やピリついた声がたまにその中に混じる。
 機材を運ぶ音、何かの金属音、ヘリコプターのプロペラの音、ハウリングが酷いアナウンスの声。こんなにもたくさんの音に包まれているというのに、自身の呼吸と鼓動の音ばかりがうるさくて仕方がない。
(どうする。挨拶くらいしとくか? いや、ここはなんもしねーほうが正解だろ。スタート前に顔合わせてもビミョーな気がするし……でも、レース中にいきなり隣りになったらどーするよ。急に顔見るくらいなら、いっそのこと先に見といたほうがいいよなァ。心の準備っての? 一応しときたい気もする……けど、アップ中に話しかけんのもワリィよなァ……いやいや、一応は顔見知りなわけだろ。オレがここにいんのもたぶん知ってんだろーし、なんも言わねェままってのも逆に意識してんじゃねーかって思われちまいそうだし……ってなんでオレがそこまで気ィ遣わなきゃなんねーんだァ!? サッと行って、サッと挨拶だけして帰る。ヨシ、それでいいだろ)
 迷いが消えたせいかようやく周囲の状況が見えてきて、英語でもないような聞き慣れない言葉が飛び交っていることに気がついた。あてもなく歩いていた割りには海外チームの控えエリアに近づいていたらしい。新開が所属するチームのテントはすぐそこだった。理性に比べて身体はなんて素直なんだろう。結局会うつもりだったのだと、グダグダ理由づけをしていた自分を鼻で笑った。
 とはいえ、そこにいるかと思えば自然と足取りが重くなる。まずは姿を確認するべく立ち止まって様子を窺うと、ローラーを回している中に懐かしい茶色頭が見えた。
 黒地のジャージを纏った太腿は太く、バイク上の身体はペダルを回してもかつてのようなブレがない。全体的にさらに筋肉がついたのか、数年前に比べて体つきががっしりしていた。日本人と海外選手とでは元々の体躯に大きな差がある。海外で闘っていくためにはメンタルもフィジカルもどちらも鍛える必要があるのだろう。先に海を渡ってしまった新開は、もう荒北の知っている彼ではないのかもしれない。
 なんとなく近寄り難い雰囲気が漂っていて、荒北はその場に立ったままウォームアップ風景を見続けることになってしまった。近寄るわけでもなく、声をかけるでもない。ただその場で彼の姿を眺めていた。
(……ッ!)
 頬を伝う汗をぬぐった新開がふと顔を上げた。少し距離はあるがほぼ正面に近い位置にいたせいで、前を向いた新開と目が合ったような気がした。数秒間視線が絡みあい、だがなんの感情も読み取れないまま新開が顔を伏せる。それから彼が再び荒北を見ることはなかった。
(そりゃそうだ……馴れ合いに来てるんじゃねぇ……仲良しごっこしてる場合じゃねーだろーが)
「クソッ……どーかしてんだろ、オレは」
 声をかけずに踵を返して、荒北は新開に背を向けた。
 
 
*
 レースは概ね順調に進んでいた。天気は快晴で視界も良好。風はほとんどなく、ペダルを踏む足の調子も悪くない。
「そろそろ峠を抜ける。その先は長い下りだ。逃げてる先頭との差は2分ってとこだな」
 イヤホンから監督の声が流れて、荒北は耳の奥にイヤホンを深く嵌め直した。
「いいか、そろそろ動きがあるはずだ。うちと同じようにこの下りで逃げを追うチームが出てくるだろう。それに合わせて飛び出ていけ。少人数になるとは思うが、単独で行くよりは少しでも集団になったほうがいい。足ももつ。先頭に追いついたらそのまま逃げていい。思いっきり逃げて後続と距離を開けろ。そのまま逃げ切ってゴールを狙っても構わない。残りは最後に備えてそのまま集団内で待機。状況次第で動けるように準備はしておけ」
 指示を聴きながら前方に出るための位置を探る。監督の読み通りに他のチームも続々と位置取りのために動き始め、集団を包む空気が変わりつつあった。荒北のすぐ前を走るチームメイトが振り向いて「行くぞ」と視線をよこす。
「ただし、途中でキツいカーブがあるからそこだけは慎重にいけよ。わかっているだろうが毎年派手な落車が起きてるからな」
 プツンと無線が切れて、それを合図に隙間を縫って集団の前に出た。なんとかうまい位置に入り、予定通りに一気に加速する。だが、飛び出した人数は10人を越えていて、第二の逃げ集団は思った以上の人数になっていた。
(なっ……おいおいマジかよ! クッソ速ぇ!)
 塊を作っていた集団が想定外のスピードによって徐々に縦に伸びて行く。先頭付近を走る黒地のジャージと青色のジャージの2チームが容赦なくスピードを上げているせいだ。彼らには一緒に飛び出した他チームなど最初から目に入っていないのだろう。残り15キロを切ったこの地点から先頭を追い抜いてゴールを狙うつもりらしい。
「離されんなヨ!」
 すぐ後ろに並ぶチームメイトに声をかけて荒北は下ハンドルを握った。ペロリと唇を舐め、空気抵抗を減らすために上体を倒し、後ろ2人を引きながら一気に坂を下る。
(速く! 速く! 追いつく!)
 カーブを曲がって直線に入るたび、黒地のジャージが前方にチラチラと見える。彼は海の向こうでどれくらいの血と汗と涙を滲ませてきたのだろうか。相変わらずの、いや、以前よりも断然速いスピードでグングン離れていく背中を追いながら、荒北は自然と笑みを浮かべていた。
(ハッ! クソッ……アイツんとこまではまだ足りねぇってのかヨ!)
 悔しさと楽しさが胸の中で入り混じる。渇いた唇を舐めて潤した荒北は、「上等だ」と追うためのスピードをさらに上げた。
 獲物を追う悦びに全身が震えている。追う相手が上物であればあるほど闘争心が煽られ、刺激を受けて足が廻る。
「かっ喰らってやんヨォ!」
 追いついて追い抜いたとき、彼はどんな表情を見せるだろうか。ウォームアップ中に目があった(だろう)とき、彼の瞳は何の感情も載せていなかった。視線の先に荒北がいることも、目が合っていることもわかっているはずなのに、それでも表情ひとつ変えなかった。
(……無関心、ってヤツか)
 穏やかで、いかにも人好きのするあの顔を、驚きと焦りの色でぐちゃぐちゃに染めてやりたい。そんな征服欲が荒北の足を前へ前へと動かしている。
 残り10キロ。荒北のいる小集団が先頭に追いついた。逃げていた数名を集団の中に吸収したが、その勢いは止まらず、ゴールを目指してスピードがさらに上がる。
 選手たちは御殿場を抜けて箱根路に入っていた。カーブのキツイ区間が多くなり、道幅が狭い箇所も増える。観客スレスレの場所をロードバイクが走り抜け、悲鳴に近い歓声があがることもしばしばだった。
 つづら折りが続き、右折左折するたびに集団のスピードも緩む。しかし、それもつかの間で、ほとんどの選手が足を止めずに回し続ける。興奮状態に侵された脳は恐怖心を忘れ、恐ろしいスピードを体感しながらも誰もが前しか見ていない。こんなときに何かが起きてしまえばその回避は不可能に近く、“それ”はあっという間の出来事だった。
 集団落車。
 1台の転倒をきっかけに選手同士がぶつかり合い、次々と重なるように派手に倒れ、避ける間もなく荒北もその中に突っ込んでいた。自転車から浮いた身体が地面に叩きつけられる。全身がこすれて熱く、それでも興奮状態のせいか痛みはまったく感じられなかった。
 徐々に薄れていく意識の中で、自分を見下ろす男が何かを叫んでいた。大きな目をさらに見開き、今にも泣きだしそうな、いや、怒ったようにも見える顔で荒北に何か叫んでいる。何の感情も見せなかった彼が明らかに取り乱していた。彼も落車に巻き込まれたのだろう。顔の右側は酷い擦過傷で、ヘルメットから覗く茶色の髪の毛が頭部からの出血で赤い。
「お前、んなとこにいる場合じゃねぇだろ。オレはいいから、動けんならさっさと行けよ。オレはだいじょぶだから。な、新開」
 安心させようとしてそう声をかけたつもりだったが、唇はほとんど動かず、荒北はそのまま意識を失った。
 
 

-ペダル:新荒
-, ,

int(1) int(2)