【新荒】潰えた夢の残骸を噛む 2【タイムリープ風】

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アラサー新荒、ふたり共にロードレーサーとして活躍中。別れて数年たった後。
・落車事故をきっかけに、荒北さんの意識が過去にタイムリープ。現在と行ったり来たりしながら大切なものを思い出していくお話。
・萌え要素少なめです。

 
4.
◇◇
「靖友……靖友?」
 すぐ目の前には余裕を失った新開の顔があった。なぜか彼は服を着ておらず、荒北自身も同様に何も身につけていない。
「今日はちゃんと全部はいったよ」
 わかる?と問いかける新開が、汗で貼りついた荒北の前髪を指で梳く。触れ合う汗ばんだ肌と、彼の腕の中にいる上気した自分の顔が熱い。下半身には重苦しい圧迫感が広がっていて、荒北は「うっ……」と低い声で呻いた。慣れない身体はまだうまく快感を拾えず、息苦しさと違和感でしがみついているのがやっとの状況で、これが何度目の行為なのかはわからないが荒北は新開に抱かれていた。
(え!? はぁ? よりによってこんなとこかヨ!?)
「なぁ、痛くないか? 気持ちいいようにできてる? ツラいならもうやめるからさ。大丈夫か?」 
 矢継ぎ早な質問責めが懐かしい。当時は荒北自身も余裕がなく、この問いかけが鬱陶しくてたまらなかった。

『いいからァ! いちいち訊いてくんじゃネーヨ! 好きに動けっての、メンドクセーなァ』
『でも……負担が大きいのはおめさんだろ? だから心配なんだよ』
『るっせェ! それ以上グダグダ言ったら二度とヤんねーぞ!』

 そんな言葉を投げつけてばかりだったことを思い出す。
(にしてもコイツ、あれでよく萎えなかったよなァ)
 過去の暴言を思い出せば胸が痛むどころではない。自分の幼さやデリカシーのなさを思い知らされて、顔を覆って消えてしまいたくなる。
「動かすよ。ゆっくりするから……うっ……はぁ……あー……やばい。どうしよう、すげぇ気持ちいい……靖友は平気? オレばっかり気持ちいいんだったらごめんな」
 甘い囁き口調にはこれ以上ないほどの気遣いが込められていた。遠慮がちで拙い動きも、今思えば荒北を心配しているからこそのものだったのだろう。
 荒北は新開に触れられるうちに段々と変わっていく自分の身体が恐ろしかった。男だというのに組み敷かれて体内に男性器を受け入れ、しかもそれが思った以上に悪くないものだから意図せず甘い声を漏らしてしまう。

『早くしてくれ』『早くイケってば!』『さっさと出せよ、しつけーんだヨ』

 喘いでしまうたび、恥ずかしすぎて顔面を焼かれるような思いだった。さっさと終わらせたくてたまらず、新開の気遣いをわかってやる余裕などない。羞恥心を隠すためとはいえ、ずいぶん酷いことばかり言ってきた。
「……わるかった」
 新開の首にすがりついた荒北は彼の耳に愛おしげに頬ずりした。
「靖友?」
「だいじょぶっ、だからァ」
「ん?」
「ちゃんとっ、う……気持ちいいから……何も心配すんな」
「……うん。でも無理するなよ?」 
 耳元で囁く声が優しい。表情は見えなくても目を細めて微笑んでいるのだとわかる。
 荒北の背中に腕を回し、すがりつく荒北を抱えたまま新開が腰を動かした。ふたりの呼吸は荒く、押し殺した声や我慢しきれずに漏れる吐息が薄闇の中に溢れていく。
 大事に抱かれていた。
 荒北の呼吸を伺い、合わせ、揺さぶるスピードは無理をさせないように緩めたり早めたりと、荒北の身体が慣れるまで都度変わる。自分だって余裕がないくせにこうやって優しく新開は抱く。この優しさはここから数年先の未来でも変わっていない。
(そうか、コイツは最初からこうだった……)
 身を任せているうちに胸が詰まり、そして、目頭に涙が滲んでしまった。喘ぐ声が嗚咽に変わり、喉仏を震わせて、身体をこわばらせる。
「ん? え……靖友、もしかして泣いてんの? わるい、そんなに痛かったかな」
 新開が慌てて動きを止めた。荒北の顔を覗き込もうとして身体を離そうと身じろぐ。
「ごめん。気をつけてたけど痛くしちまってた? ほんとごめんな。ちょっと余裕なかった。な、大丈夫か?」
 荒北をなだめる声や背中を撫でる手の必死さが余計に目を潤ませる。
(まいった、こんなかヨ……スゲーな。オレってまだこんなにコイツのこと……いまさらすぎンだろ……どーすりゃいい)
「新開……」
 好きでたまらなかった。
 新開が離れないよう、首にまわした腕に力を込める。のちに失くすことになるこの温もりが愛おしすぎて耐えきれない。
「キツいなら一度抜こうか?」
「だいじょぶ、なんでもねぇから」
「いや、でも泣いてんだろ」
「なんでもねぇって。だから、続けろ」
「でも」
「いいからァ。頼む」
 わかった、と荒北のうなじにくちづけを落として新開が再び動き始める。その後は静かに揺さぶられ続けて、穏やかだが絶え間なく与えられる甘い刺激にゆっくりと呑まれていった。
 最後の波が弾けて視界が白く染まる。
 24ミクロンの薄い壁越しに放出する脈動をうっすらと感じながら、荒北もまた「あ……」とかすかな声をあげた。硬直した身体が空中に落ちていく感覚。それが止んでこわばりが溶けると、浮ついた余韻を追うように目を閉じた。
 重なったままでいる新開の乱れた呼吸が荒北の首筋を熱く濡らす。触れ合った胸板から伝わる鼓動はどちらのも速い。まだこうしていたいのに疲労すらも心地良くて、とろとろとした微睡みの中に引きずられてしまう。
 荒北の身体を去った新開が横に寝そべる。離れた代わりに今度は荒北が彼を腕の中に抱いた。鼻先に新開の髪の毛が触れて、肺の中が彼の匂いで満たされていく幸せ。
「靖友、オレ、このまま寝ちまいそう……」
「……オレも」
 寝入りばなの肌の触れ合いはこんなにも安心するものだっただろうか。
 意図せず荒北は「好きだ」と呟いていた。こんなにも短い言葉なのに、当時はなかなか口にすることができなかった。
(いまさらかもしんねーけど……)
 もう一度「好きだ」と囁いてギュッと抱く。
「うん……オレも。まだ、いや、ずっとだ。ずっと変わらない……」
 そう応えた声の主は、もうほとんど眠りの中に落ちている。
「ハッ! なんだそりゃ」
 新開はもう返事をせず、荒北も大きなあくびをして、後を追うように眠った。
 
 
◆◆
 瞼を開けたつもりだったが目の前は濃い霧に包まれたように白く、思うように視点が定まらない。高校時代、箱根の山道を走っていたときに同じような濃い霧に遭遇したことがあったが、状況がそれに似ていた。
(あれ……ってことはオレ、箱根走ってんのか……?)
 自分がどこにいるのかわからない。ハンドルを握っているはずの感触もなく、ペダルを踏もうとしても足は動かなかった。
 突然手をギュッと握られて、懐かしい、と思った。でも、この手が誰のものかが思い出せない。
「やすとも……」
 あの柔らかい声が荒北を呼んでいる。
(ああ、そうだ。お前の手か……)
 安心したせいか口元に笑みが浮かぶ。いつの間にか霧は綿雪に形を変えていて、何かの光景が荒北の記憶の隅にチラついていた。
「早く行かねーと」
 どこに行きたいのかはわからない。それでも荒北は「行かないと」と呟いて、吸い込まれるように雪の中に消えて行った。
 
 
5.
◇◇◇
「……とも? 靖友?」
 居眠りの最中にビクンと身体が揺れるような現象。ハッと気がついた荒北はパチパチと瞬きをしながら辺りを見回した。昼の箱根に雪が音もなく降っていて、両手に息を吹きかけながら荒北は神社の境内を歩いていた。
 高校3年の最後の正月、初詣に来た日にとんだらしい。
 箱根町にある神社は三が日を過ぎても参拝客が途切れず、参道に並ぶ出店の数も多いせいか、あちこちが行列で詰まっている。正月らしい琴のような音楽と人々の声が賑やかで、隣りには新開がいた。
「靖友? ぼんやりしてるけど大丈夫か?」
「え……あ、わるい、なんだっけ?」
「何を祈願したんだって訊いたんだよ。受験のことかい?」
「あん? そういうのって言ったらダメなんじゃねーのォ?」
「あれ、そうだっけ?」
「知らねーのかヨ。常識だぞ、ジョーシキィ」
「おめさんの口から常識なんて言葉を聞くとはな。ちなみに、オレはいつまでも靖友と一緒にいられるようにってのと、ツールに出られますようにって頼んどいたよ」
「だからお前なぁ……つーかオメーの願い事なんてべつに聞いてねーってツールゥ? それってもしかしてグランツールとかいうレースのことか? 福ちゃんとお前が見てたDVDの」
「もちろん。そうだよ」
「おい新開、いくらなんでも気が早すぎんだろ。しかも2こも願掛けって欲張りすぎだ。どーせ100円ぐらいしか入れてねーくせに」
「500円だよ。それに欲張ってなにが悪いんだ? オレの500円なんだから、オレの好きにさせてもらうさ」
「いやいやいや、にしてもだ。さすがにそりゃームリな話だってオレでもわかるぜ。これから大学入って、その後でプロか実業団か経験して、そっからスカウト受けたりチームテスト受けたりすんだろ? 移籍するにしてもそれなりの流れっつーもんがあんだろーが。そもそも大学受験もまだだってのに、いきなりツールかヨ。この時期なら大学合格の一択だろ」
「別に願うくらいは勝手だろ? オレ、中学の頃から毎年祈願してたぜ」
「毎年ィ? うわっ、厚かましー」
「別に減るもんじゃないし、いいんじゃないか? 毎年言ってればいつか神様が諦めて叶えてくれるかもしれないだろ」
 屈託のない笑顔が眩しかった。
「神様ってなぁ……お前、んなもん信じてんのかヨ。ハッ! ガキか」
 呆れて笑いながらも荒北は『そうだった、コイツはこんなヤツだった』と思い出していた。
「オレも靖友も寿一も尽八も、この先もみんなが自転車を続けるんなら、また同じチームで走れる可能性があるってことだろ? オレと寿一以外は別々になっちまうけど、いつかまた同じチームで走れたらって……やっぱりまだ考えるよ。それがツールみたいなでかいレースでなら最高だよな。また4人揃った最強のチームで夏の続きをしようぜ。今度こそ“オレたちで”勝つんだ」
 今度こそ、ともう一度小さく呟いて新開が口をつぐむ。
 昇華しきったと思っていたが、やはりまだ新開の中でも燻り続けているのだろう。インターハイでの負けは思った以上に深い傷になっているのかもしれない。それでも、それは決してマイナスなものではないはずだ。その証拠に未来を語る新開の瞳は明るい。
「なぁ、なんか勝手に盛り上がってるみてーだけど、オレは大学でもチャリ乗るなんて、ひとっことも言ってねェからな」
「大丈夫。おめさんは絶対に続けてるよ。オレが保証する。なんなら賭けてもいいぜ」
「へぇ……やけに自信たっぷりじゃねーか」
「靖友のことはおめさん以上に知ってるからな」
「はあ!? っんだよソレェ。テメー何様のつもりだヨ」
「何様って、彼氏様だよ。そうだろ?」
 フフンと得意げな笑顔にカチンときた荒北は、素早く屈んで足元の雪を掴んだ。荒北の次の行動を察したのか、パッと逃げ出した新開の背中めがけて丸めた雪玉を投げる。コントロールは衰えておらず、雪玉は新開の茶色のダウンジャケットにきれいに命中した。
「あっ! ひどいぜ靖友。ほんとに投げなくてもいいだろ」
 あーあ、と嘆く新開に「ベーッ」と舌を出す。
「……つーか、マジで当てるとはナ。ビビった」
「ん? なんか言ったかい?」
「べつにィ。なんも」
「そう? あ、そうだ、合格祈願のお守りを買おうと思ってたんだけど、おめさんはどうする?」
「オレはいらねェ。そういうモンは信じてねーから。つーかテメーもキンタマついてンなら実力で勝負しろヨ」
「靖友だって最終的には勘に頼るくせに。よく言うよ。それに、信じる者は救われるっていうだろ? じゃあ、オレだけ買ってくるから。ちょっとここで待っててくれ」
 駆け出していく背中を見ながら荒北はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「……ほんと、オレ以上にオレのことをわかってやがる」
 洋南大学入学後、荒北は迷うことなく自転車競技部に入部した。大学卒業後もプロを目指して実業団に所属し、現在も自転車を降りることなく競技者としての人生を足掻いている。この時点の新開に荒北の進路などわかるはずもないのだが、見事に的中しているということは本当に荒北のことをよく理解しているのだろう。
(でも……別れちまうんだよな)
 ハァ、と吐き出した息が白く煙って消える。 
 こうして過去に戻れたというのに事象の改変は叶わず、同じ出来事を繰り返しなぞっていくしかできない。だったらなぜこうして過去に飛ばされてしまうのだろうか。
 荒北はオカルトの類をまったく信じていない。現実的ではないからだ。だが、自分の身に起きている出来事は明らかにオカルト的な現象で、今となっては信じざるを得ないのだが、それでも自分がここにいる意味はわからないままだ。
 高校時代、それもなんでもないような日常をただ繰り返す。どうせなら中学時代の肘を怪我する前や、インターハイの3日目にでも飛ばしてくれたらいいのにと何度も願った。だが、なぜかそんな重要な日には決して飛ばされない。
(神様なんてもんがホントにいんならなんとかしてくれヨ。そもそもこうやって飛ばされて……オレに何しろってんだ……)
 足元の雪を軽く蹴る。固まりかけた部分をザクザクと踏みつけていると「ごめん。待たせた」と声がして、荒北は顔を上げた。
 戻ってきた新開は両手に使い捨て容器の白いお椀を持っていた。「お詫びに」と差し出されたお椀を受け取る。中には湯気をたてる雑煮が入っていて、醤油が効いた澄まし汁のいい匂いが荒北の胃袋を鳴らした。
「向こうで配ってたんだ。餅が1個入ってるんだって。腹減っただろ?」
「おー、サンキュ」 
 その場に立ちながらしばらく無言で雑煮を食べる。ハフハフと餅を頬張る新開の頬や鼻の頭が赤い。18歳を迎えた当時はずいぶん大人になった気でいたが、こうして今見てみると18歳というのはまだまだ表情があどけない。
(おーおー、そんなでけぇ口開けて。つーか火傷しても知らねーぞ)
 プッと思わず笑ってしまった荒北を見て、おそらく意味を誤解している新開が「旨いよな」と嬉しそうに笑った。
 小腹が満たされたので、またふたりで雪道を歩く。荒北は話のネタとしてある質問を振ってみた。
「ちょっと興味本位で訊くんだけどさァ……お前、過去に戻るなんてできると思うか?」
「過去に戻る? 突然だな。どうかした?」
「いや、こないだテレビでやってんの見て……ちょっと気になっただけだ。お前、本とか結構読んでるだろ。だからなんか知ってっかなーって思っただけェ」
「うーん、そうだな……なぁ靖友、知ってるかい? すべてを変えるのは自分の意思なんだぜ。信じてみないことには何も始まらないんだよ。だから、信じてみたらいい」
「……それって答えてんの? よくわかんねーんだけど」
「可能性はあるってことだよ。できないなんて言い切れないだろ? 世界はとてつもなく広いんだ。過去に戻れる手段なんて、とっくにどこかの国で解明されてるかもしれない。今はそれを知らないだけさ。オレたちが知らないことはまだまだたくさんあるし、むしろオレたちが持ってる知識量なんて地球上のほんのひと握りにも満たないと思うよ」
「……訊いといてなんだけどさァ、お前ってそんなヤツだったっけ? もっと現実的に考えるヤツだと思ってたぜ」
「そうかな。充分あり得る話だと思うけど。例えば、ここにいるオレは未来から来たオレかもしれないし、靖友がそうかもしれない」
「え……」
 思わずドキッとして言葉に詰まる。新開はそんな荒北の顔を見て、
「例えば、だよ。違うっていう明確な否定ができないんだからな。まぁ未来からきたっていう証明もできないんだけど。でも、そう考えたほうがおもしろいと思わないか? 夢があるだろ」
と、ニッと歯を見せた。その顔は荒北をからかうときによく見せる顔だった。
「お前なァ、からかうなっつーの! ただおもしろがってるだけじゃねーか!」
「ごめんごめん。でも、自分の意思次第ってのは本当だと思ってる。実際にオレはそうだったからな。あのまま……自転車を離れて腐ったままだったらオレは終わってた。もちろんおめさんたちが力を貸してくれたおかげってのはわかってるし、本当に感謝してる。でも、最終的には自分の意思が一番モノを言うんだ。オレはまた自転車に乗ることを選択して、その結果として今ここにいる。将来、オレが海外のチームで走ってるのも自分を信じたからだ。信じて願い続けていればそれはもう“夢”じゃない。自分の意思で勝ち獲って、自分で実現させるんだ。過去に戻りたいって思っていれば戻れるかもしれないし、もしかしたら靖友がその方法を解明しちまったりしてな。可能性はいつだってゼロじゃないんだから」
「……なーんかオレが求めてた答えとは違う気がすんだけど」
「願い続ける意思が大事って話さ。って、とりあえず今の段階じゃ受験が先か」
 合格しないとな、と苦笑する新開につられて荒北も笑う。
「だから大人しく合格祈願一択にしときゃあよかったンだヨ。落ちたらどうすんだ。どうする、もっかい並ぶか?」
 振り返ってみたものの参拝の列は相変わらず長いままで、隣りを歩く新開は諦めたように首を横に振った。
「うーん、まぁ、なんとかなるさ。お守りも買ったし、あとはおめさんの言うように実力で勝負するとしよう」
「ハッ! オメーの実力で大丈夫かよ」
 上から目線の言い方でからかってみたが、新開は余裕な顔で「大丈夫」とニッと歯を見せる。笑うとさらに垂れる目尻は彼のチャームポイントのひとつで、それはガラにもなく荒北の胸をキュンとさせた。この笑顔を見るたびに、ずっとこうして隣りにいたいと願っていたはずなのに。唐突に甘酸っぱい青春の日々を思い出して、それらが荒北の胸を優しく締めつける。
 高校卒業後の進路先が違うと知っても、不思議と不安はなかった。楽しさも苦しさも、敗北の悔し涙すらも共有してきた仲だ。自分たちの未来など想像もつかなかったが、ふたりなら不器用ながらも続けていけると、そんな根拠のない自信に満ち溢れていた。
 自転車に限ったことではなく、どちらかが疲れたら立ち止まって背中を押してやり、それでもダメなら前に立って引いてやる。追いかけて、追いついて、追い抜かれて、いいライバルとして刺激し合える関係。海外の空の下はどんな景色なんだろうと、浮かれて話した日もある。

『靖友が引いて、オレがスプリントするんだ』
『はぁ? なんでまたオレが引いてやんなきゃなんねーんだよ。メンドクセー』
『いいだろ。また同じチームで一緒に走ろうぜ』
『へーへー、覚えてたらなァ』
『絶対覚えてるよ。だって、この先もずっと一緒にいるんだから忘れようがないだろ』

 いつか海外で一緒に走ろうと交わした約束は、いつまで覚えていただろうか。
「さむっ……」
 雪の中をただ歩く。思わずブルっと身体が震えて、ポケットに手を突っ込んでいた荒北は、さらに身を屈めて猫背になった。それを見た新開が自身の手のひらに息を吹きかけ、こすって温めた後で荒北の頬に触れる。
「少しはあったかいだろ?」
 元から体温が高い手のひらは、彼の気持ちそのままに荒北の冷えた肌をじんわりと温める。成長と共に忘れてしまったもの。若さと勢いに溢れ、幾度となくふざけあった時間が目の前にあった。
「なぁ、靖友は過去に戻れたとして……何かやり直したいことでもあんの?」
 再び自分の手を温めながら新開が問いかけた。
「え……そりゃあ、まぁ色々」
「色々って、例えば?」
「例えばって……い、色々は色々だ!」
「そっか。なぁ、その中に……オレのことも入ってる?」
「あ? お前のことォ?」
「なんか後悔させたかなーなんて思ってさ。例えば……オレとこんな関係になったこととか」
「え……?」
「なんとなくだよ。ほら、おめさん、そんな顔してるから」
 少しだけ悲しそうな目で見つめられて、荒北の心臓が小さく跳ねた。荒北の後悔は新開が言ったものとは違う。始まりの後悔ではなく、終わらせた後悔だ。それでも彼は本当に荒北のことをよく見ているらしい。
「なっ、お、オメーのことなんかナンもねーヨ! つーか、オレがいっつもお前のことばっか考えてるなんて思ってンじゃねーぞ! 自意識過剰だバァカ!」
「いや、オレのことばっかりなんて言ってないんだけどな。あれ、でも違ったかぁ。おかしいな。靖友のことなら外さないのに」
「おかしかねーんだよ、ったく」
「うーん、そうか。オレのことじゃないんならいいんだけどさ」
 腑に落ちないのか、まだ首を傾げている新開を鼻で笑う。
「でも、あんがとなァ新開。おかげで色々思い出したぜ。いつの間にかオレは長いこと腐っちまってたんだナ」
「なんのことだ?」
「いや……忘れちまってたモンが多すぎた。まだ挑戦すらしてねーのに、やる前から泣き言なんてザマァねぇよな」
「靖友? さっきからよくわかんねぇんだけど……」
「今はわかんなくていいんだヨ。もっと大人んなったらわかることだ。少なくともオメーと東堂は先に海外で……って、なんでもねぇ」
「ん? 今、なんか言いかけたよな」
「今はいいんだよ! とりあえずオレも行くぜェ、海外。前だけを見る、やっぱコレしかねーだろ。シンプルでわかりやすいのが一番だよなぁ。待ってろよ新開ィ! すぐに追いついてやっからな」
 バシッと新開の背中を叩く。
「いててっ……おめさんどうしたんだ?」
「なんでもねーヨ!」
 荒北は答えをはぐらかして先に走り出した。「靖友? 待てって!」と後ろから新開の慌てた声が追ってくる。
 荒北は雪の中を駆けながら、目の前の霧が一気に晴れていくような清々しさを感じていた。
(可能性はゼロじゃない、か……。だよな。まだ引退はできねぇよなァ)
 そう覚悟を決めた瞬間に意識が暗転した。
 
 
◇◇◆◆
『もう無理だよ。おめさんも、オレも。もう疲れちまった』
『……あぁ』
『わかってるだろうけど、今の靖友とは未来が見えない。うまく続けていく自信も余裕もないよ』
『……そーだな』
『こんな状況なら、オレは迷わず自転車を取る。おめさんだって……選択は同じはずだ』
『……』
『このままじゃうまくいきっこないって、靖友も充分わかってるだろ?』
『……ああ』
『離れたほうがいいな、オレたち』

 静かに別れを仄めかせて新開が薄く笑う。それは彼が諦めたときに見せる笑顔だった。こんな笑い方を彼は一体いつ覚えたのだろうか。
(いや、覚えさせたのはオレだろーな……)
 いつから自分は彼にこんな表情をさせるようになったのだろう。
 度重なる怪我と、結果が実らない焦り。ペダルを必死に回しても足は鉛のように重く、勝ちを逃すたびに後悔や重圧が荒北の全身にのしかかってくる。選手としてのプライドが負け続けることを許さなかった。
 荒北がもがき続ける中で新開の海外移籍が決定し、先を越されたという意識が益々強くなった。隣りにいるはずの恋人が手の届かないライバルに変わっていく。もしかしたら、すでにあの時点で自分は彼にとってのライバルですらなかったのかもしれない。
(届かねェ……)
 前を走る新開の背中に手を伸ばしても届かない。うなされて目が覚める朝が増えて、いつからか新開に対しても上手く接することができなくなっていた。

『離れたほうがいいな、オレたち』

 否定しない無言は肯定と同じ。荒北は何も言わずに俯いていただけだった。
『じゃあ』
 ドアを閉めた後ろ姿は今でも鮮明に思い出すことができる。あのときなぜ追いかけなかったのかという後悔は、いつになっても消えることはない。
 階段を降りる足音が消える。荒北は完全にひとりになり、取り残されたまま立っていた。

『こんな状況なら、オレは迷わず自転車を取る。おめさんだって……選択は同じはずだ』

 告げられた言葉が心に重い。秤にかけるべきではないものを比べさせたうえに、新開の言葉を否定できなかった自分がいる。
(やっぱもう無理だろ……)
 追いかけたいが怖気づいて足が竦む。ハァ……と息を吐いて玄関に背を向けかけたとき、頭の中に浮かんできたものは過去に出会ってきた新開たちの顔だった。
 蒸し暑い中で握られた手。まっすぐに見つめてくる緊張した瞳。「好きだ」と告げた彼はまだ幼く、応えた自分もひどく純粋だった。
 彼の腕の中で聞く声は甘く、共に眠る夜はとても安らかで暖かかった。様々な痴態も見せ合って、お互いだけが知っている卑猥な顔はもう数え切れない。
 冬の雪道をお互い鼻先を赤く染めて歩き、雪玉を投げ合ったせいで雪にまみれた日もあった。未来について語る横顔はいつまでも微笑みが消えなかった。
 どの瞬間の彼も愛おしく、大事な存在だと改めて自覚したくせに。自分が本当に戻りたいと望んだ場所はこの瞬間ではなかったか。
「クソッ……!」
 動かない足を叱咤するようにこぶしをキツく握りしめる。

 自転車か新開か――
 
 引退か移籍かで悩んでいたことが頭をよぎる。悩んでいたときに思い浮かべる人物はいつだって新開しかいなかった。
(なんだってオレはこうやって二択に振り回されちまうんだ……!)
 ふいに荒北は自分の中にあるものが“自転車と新開”だけで、第三の選択肢が存在していなかったことに気がついた。他は考えもしなかったのだ。結局はいつもこの2つしかなく、そして、どちらも手放すことはできない。
(そーだよ、欲張ってなにがワリィ!)
 荒北は靴も履かず、弾かれたように玄関を飛び出していた。
 目を凝らした先、夜道の果てに新開の背中が浮かぶ。荒北は必死に追いかけ、名前を叫び、彼の背中に向かって手を伸ばした。
 

 何かを掴んだ感触と共に目が覚めた。目尻の垂れた瞳が徐々に大きく見開かれていく。
「やす……やす、とも? 靖友! 靖友、わかるか!?」
 伸ばした手は新開の腕をしっかりと掴んでいた。
「し……ん、かい……?」
「靖友……!」
 自分を見つめる目の淵に涙がどんどん盛り上がっていくのをじっと眺めていた。その様子はとても静かで、とてもきれいだと思った。
「おまえ、なんでここ……つーかなんで泣くんだヨ……」
「おかえり、靖友……よかった……ほんとによかった」
 擦り傷が目立つ頬の上を涙がゆっくり落ちていく。それを拭いてやりたいのに腕は上がらず、涙が雫になってポロポロ落ちていくのをただ見ているしかなかった。起き上がろうとしても身体の自由が利かず、仕方なく横になったまま口を開ける。
「オレ……」
 唇がうまく動かなくて、ゆっくり言葉を繋げていく。
「むかしの、お前に……なんっ、かいも会って、きた」
 頷く新開が「うん。待ってたよ」と荒北の手を握った。
「……え?」
「戻ってくんの待ってたんだぜ。おめさんも海外に行くんだろ? すぐに追いつくから待ってろって言ったじゃないか。オレとの約束がまだだってのに、こんなとこで勝手にくたばっちまうのは……許さねぇ……許さねぇよ靖友」
 荒北の胸に伏した新開が身体を小さく震わせる。布団越しに伝わってくる新開の重みと体温。くぐもった、押し殺すような嗚咽を荒北はまだぼんやりした頭で聞いていた。
 ゆっくり手を動かして新開の髪に触れる。髪の束に触れるのが精一杯で、頭を撫でてやることはできなかった。なぜ彼が目の前にいるのかはわからないが、新開の存在は荒北をひどく安心させてくれた。
 

-ペダル:新荒
-, ,

int(1) int(2)