【新荒】春に契る(前編)【センチネルバース】

◆◆ caption ◆◆
・『センチネルバース』の前編です。高校3年~大学2年生あたり。
・最後の方に荒北さんの自慰行為があるので【R-18】にしていますが、描写自体は薄めです。 
 
【センチネルバースについて】
うまくまとめていらっしゃる方が多いので検索していただいた方がわかりやすい&早いと思いますが、
センチネル…五感の一部、あるいは全てが異常発達した人間。一般人に比べて高い能力を持っているが、ガイドがいなければ感覚が暴走して(ゾーンに入って)死んでしまう場合もある。
ガイド…センチネルを制御できる人間のこと。センチネルとペアになることでセンチネルの能力が安定し、うまくコントロールして使えるようになる。(ただの一般人だったり、超能力を持っていたり、書き手によって設定は様々)
ゾーン…センチネルが陥る症状(?)。イメージ、音、匂い、味等、一つの身体的能力に集中するせいで他の感覚が無くなってしまい、昏睡状態に陥ること。能力が覚醒したばかりでガイドがいないセンチネルや、契約なしで長年生きてきたセンチネルなどがなりやすい。
契約…センチネルとガイドがペアになること。性行為で契約完了となることが多い(らしい)。     
 
↑を踏まえたうえでの【大まかな自分設定】
荒北さん:センチネル。嗅覚が発達中
新開さん:ガイド
センチネル…五感がひとつ以上発達していればセンチネル扱いとする。
ガイド…超能力者設定ではない。どちらかといえば一般人よりだけどセンチネルを抑える能力を持っている。
◆契約について…まだ未定。
◆発症について…世間的には原因不明と公表されているが、本当はあるワクチンが関係していた。基本的には個人とワクチンの相性によるが、遺伝的要素も絡んでくる。(ガイドがいる家系は子供や孫もガイドになりやすい、等)
 
★洵様、リクエストありがとうございました! といってもまだ前編なので、もう少々お待ちください!★

 
 某年、某日、某所。国が推奨している予防接種リストからひとつのワクチンの名前が密かに削除された。
 そのワクチン(仮にAとする)は乳幼児期から3歳になるまでの間に定期的な接種を必要とするものだったが、無料で受けられる制度が確立されたこともあり、一般的にはAの接種はほとんど当たり前のものとして人々の生活の中に長らく溶け込んできた。
 また、時を同じくして“感覚機能が異常なまでに発達する症状”を発症した人々の存在が世界的に確認され始め、日本国内においてもその患者の存在が公表されることとなった。
「遺伝子の突然変異によるものとしかわかっておらず、原因も発症条件も発症する確率も、すべてが不明というのが現状です。しかしながら、生命に関わる早急な危険や影響はないものと考えられます」
 世界規模での公表と症状の異常性。それらは良くも悪くも大きな反響を生み、メディアは連日その話題で持ちきりになっていた。
 Aの廃止は過熱する報道の陰でひっそりと行なわれ、最後は新聞の片隅に廃止に関する記事が小さく載っただけだった。

 
1.
 何かがおかしいと感じ始めたきっかけは“嗅覚の異常”だった。
 
(なんか……気持ちワリィ……?)
「うっ……!?」
 胃袋から食道をせり上がってくる不快感。突然の吐き気を催した荒北靖友は、その場に立ち止まると咄嗟に手で口元を覆った。
(なんっ……だァ!?)
 そのままの状態で数秒間耐え、ソロソロと慎重に呼吸を繰り返して吐き気が過ぎ去るのを待つ。じっとしているうちに吐き気は薄らいできたが、今度は謎の眩暈に襲われて、結局耐えきれずにその場にしゃがみ込んでしまった。持っていたコンビニのレジ袋が廊下に落ちて、中に入っていたアルミ缶が派手な音を響かせる。
「え、何の音?」
「なになに? どうかしたの?」
 突然蹲った荒北の存在は人目を引いた。昼休みで賑わう廊下に若干の緊張した空気が流れる。
「どうした?」
「ねぇ、大丈夫?」
 狭まった視野の片隅に、駆け寄ってくる数足の上履きの一部が見えていた。しかし、身体全体がグラグラと揺れているような感覚がひどくて、顔を上げることも返事をすることもできない。くすんだ色の廊下の一点をただただ見つめているしかなく、脇の下を流れる汗が冷たい。
「ん? おい、荒北ではないか!? どうした、大丈夫か?」
「……とォ……ど……」
 どうにか絞り出した声はちゃんと届いただろうか。もう一度声をだそうとして息を吸ったとき、鼻腔の奥が熱く痺れた。初めて経験する強烈な痛み。目の前が真っ白に染まって星が散り、脳が爆ぜたと思った次の瞬間、意識が落ちた。

*
 消毒液のアルコールの匂いと、洗濯洗剤の少し甘い科学品の匂い。ちょっと粉っぽい匂いは女子生徒や母親の近くで嗅いだことがある。他にもシャンプーの匂いや薄い汗の匂い、昼休み後に漂う食品が混じった匂い、土や植物の緑の匂いなど、たくさんの情報が際限なく体内に流れ込んできて、それらに埋もれながら荒北はゆっくりと瞼を開けた。
 視界はぼやけて淡い。焦点を合わせようにもうまくいかず、目を細めた瞬間に鈍い痛みがこめかみに奔った。
「いッ……!」
 とっさに顔をしかめて目を閉じる。痛みは瞬間的なものだったが、鼻腔の奥に感じた激痛を思い出させるには充分だった。脳が爆ぜたと錯覚したほどの衝撃と痛み。途端に荒北の身体がブルブルと震え始め、呼吸は浅く速くなり、またあの痛みに襲われるのではないかという恐怖が鼓動をどんどん速めていく。
(……息……苦しィ)
 過呼吸気味に吐き出す息が熱い。額に浮いた脂汗を拭おうとしたが、意思に反して腕はうまく動かず、のろのろと緩慢な動作でなんとか汗を拭い取る。起き上がろうとしても身体が言うことを聞かず、他人の体内に意識だけが入り込んでしまったかのようだった。
 仕方なく顔だけを横に倒してみる。するとすぐそばにはクリーム色の何かが立っていて、徐々に輪郭がくっきりし始めたそれは、ベッドを仕切るためのパーテーションだった。
(ここ……保健室か……)
 吐き気がして廊下で蹲ったところまではハッキリと記憶があった。誰かに声をかけられて応えたような覚えもある。声をかけてきた人物は東堂だと思ったが、その辺からは記憶があやふやで自信がない。恐らくあの場で気を失い、そして、そのままここへ運ばれたのだろう。
 ようやく状況を把握できたものの、養護教諭は不在らしかった。自分以外の熱や呼吸音がこの室内には感じられないのだ。
(ん? なんで今オレ……いや、それよりも頭ん中……)
 恐るおそる鼻から空気を吸い込んでみる。予想に反してあの痛みに襲われることはなかったが、ただ、周囲の匂いがやけに濃く感じられた。それに、普段よりも“匂いの数”が多い気がして、胃袋辺りがムカムカと車酔いに似た不快感で熱くなる。
 ウッと喉元が詰まって、また口元を手で塞いだ。音のない静寂がジンジンと耳に煩く、荒北の鼓膜を震わせて眩暈を生む。
 強制的に与えられる匂いを遮断しようとして、荒北は寝返りをうって枕に顔を埋めた。しかし、その枕からも薬品や洗濯洗剤、綿、わずかに染みついた汗の匂い等、多くの匂いが漂ってくるせいで容赦なしに鼻腔が刺激されてしまう。
「……きもち、わりぃ」
 布団をグシャグシャに引っ張り上げて頭から被る。布団の中に深く潜った荒北は、防ぎようのない匂いから逃げるように背を丸くして身体を縮めた。
 荒北は幼い頃から嗅覚が鋭い体質だった。

『花の甘いのとちょっと生臭い匂いが混じってンのが春で、夏はプールの塩素と、火薬が焦げたときの匂いがする。秋は土が水に濡れて蒸れたときの匂い。冬はハッカ飴みたいにスースーしてる』

 季節ごとに違う空気の匂いを感じたり、雨が降る前も空気中に漂う匂いの変化で予知することができた。他人が纏う匂いの変化からおおまかな感情を読み取ることもできたし、元来の勘の良さも影響しているのかそれらはほとんど外れたことがなかった。
 だが、今回は何かが違っていた。鼻がいいというだけでは片づけられない何か。まるで身体の中で得体の知れない現象が起き始めているような……
(誰か……助けてくれ……誰、か……)

 
――きたくん、荒北くん」
 いつの間にか眠っていたらしい。肩を揺すられて目を覚ますと、養護教諭が荒北を見下ろしていた。
「う……」
「ここがどこかわかるかい?」
「……保健室」
「蹲ってから倒れたって聞いたけど、もう眩暈はないかな? 学年と組と名前、言ってくれる?」
「え……あー……3年C組、荒北靖友」
「はい、ありがとう。意識ははっきりしてるみたいだね。息苦しいとか、吐き気はないかい? どこか痛む箇所は?」
「いや……別に。ないッス……」
「それはよかった。ちょっと体温だけ計っておこうか」
 差し出された体温計を受け取ろうとして、荒北はなんとなく違和感を覚えた。腕や指がいとも簡単に動くのだ。
 あんなにも怠かったはずの身体がやけに軽い。あの妙な不快感もない。それに、布団に潜っていたはずなのに、頭がきちんと枕の上に戻っているのも気になった。眠っている間に暑くなって顔を出したのかもしれないが、それにしては身体を覆う布団の状態がきれいすぎる。おまけに右手だけを布団から出していたのもなんとなく不自然ではないだろうか。
「何か?」
「あ、いや……なんでも」
 体温計を受け取って脇の下に挟む。
 気がつけば窓から差し込む日差しがオレンジ色に変わっていた。少しだけ開けられた窓からは、ブラスバンド部の演奏や運動部らしき掛け声が聞こえてくる。
「今日はこのまま寮に帰りなさい。君の担任には報告済みだから」
「……うッス」
「あぁ、そうだ。君の荷物はベッドの下に置いてあるからね。友達が持って来てくれたみたいだ」
「……友達?」
「あの茶色の髪の毛の。B組の新開くん、だったかな。部活に行くついでに寄ってくれてね。しばらくその椅子に座って君の様子をみていたけど、気がつかなかった?」
「……なんも」
「そう。君はたぶん軽い食あたりかもしれないね。今夜は寮母さんにお願いしてお粥にしてもらいなさい。あとは水分をよく摂ること。スポーツドリンクを水で薄くして飲むといい。で、食後にこの薬飲んでね。念のための胃薬と、こっちは整腸作用がある薬。これから暑くなってくるし、変なものは食べないように」
「……ッス」
 脇の下で計測終了を告げる電子音が鳴り、差し出された手に体温計を渡す。「熱もないね」と言われたので荒北は身体を起こした。
 保健室を出る前にスンと鼻を動かしてみる。特に痛みはなく、室内に漂う消毒液の匂いだけがふわりと香っただけだった。

 
 寮に戻った荒北は、ベッドに寝そべって最近食べたものをアレコレ思い返していた。
「何か変なもんなんて食った……あ」
 頭の中にある食べ物が浮かぶ。
 機材調整のために部活が休みだった昨日、新開とふたりで行ったラーメン屋で荒北はある餃子を食べていた。荒北が『いらねぇ』と断っても新開は『うまいからさ』と言って譲らず、最終的には仕方なくあの餃子を口にしたのだ。
「チョコバナナ餃子……ぜってーアレだろ。つーかアレしかねェ」
 それにしても自分だけというのが気に入らない。新開はあの餃子を食べても平気なわけで、荒北だけが“あたってしまった”のは運がなかったのかもしれない。
「なんでオレだけ……くそっ、二度と食わねぇからな」
 悪態をついているうちにあくびが出て、夕飯までに少しだけ眠ろうと荒北は微睡みに意識を委ねていった。

 
2.
 車体で切り裂かれた風が全身にぶつかり、砕けて四方に散っていく。空気の流れを感じすぎる肌はピリピリと軽く痺れ、ハンドルを握る荒北の腕にはプツプツと鳥肌が立っていた。まるで、微弱な静電気で全身を絶え間なく撫で続けられているような感触。正直なところあまりイイ気分ではないが、こんな状態のときは思った以上に脚が動く。
「フゥ……」
 頭部から流れ落ちてくる汗を拭い、深々と息を吸って長めに吐き出す。山中湖畔で開催されているクリテリウムレースは残り3周を切っている。薄い唇を舐めて潤した荒北は、「よし、やるか……」と鼻腔に意識を集中させて空気を吸った。
 出し抜こうとギラつく熱気、汗、チェーンオイル、アスファルトに擦れて焼けるタイヤ、道の両脇に生い茂る植物の生々しい青さ。鼻腔を通して脳内に染み込んでくる情報の中から必要なものだけを掬い取る。大きな風が後ろから吹いてくる“匂い”を見つけた。
「福ちゃん、行くぞ。しっかりついてこいヨォ!」
 振り向いてニヤリと歯を見せる荒北に、福富が頷いてハンドルを握り直す。
「せー……のっ」
 カチッとギアを変える音が揃った。腰を浮かせて前傾姿勢をとった瞬間に追い風が吹き、その風に乗るようにして荒北と福富のふたりが集団内から飛び出していく。後方から慌てた声が聞こえたが、彼らと飛び出したふたりの間にはすでに10メートル以上の差がついている。そのまま一気に距離を開けて、最後は福富がゴールを獲った。
 ゴールゲートをくぐりながら荒北はこぶしをぎゅっと握った。握力の残りを確かめるように握ったり開いたりを繰り返し、手の感触に満足すると次は意識してペダルをゆっくり回してみる。疲労が溜まっている感じはなく、筋肉の痛みや腫れもない。
(悪くねェ……)
 数週間前までの不調が嘘のようだった。縮まないタイムに伸び悩み、慣れない筋トレを追加したせいでふくらはぎの筋を痛めたこともある。不調が焦りを生み、焦りが身体に無理をさせる。負の連鎖を断ち切ろうとして躍起になればなるほど悪い結果を引き寄せてしまっていたのに、ここ最近は気味が悪いくらい劇的に調子が上がっている。
「荒北」
 ゴールゲートを過ぎた先で、待っていた福富が手を挙げた。彼にしては珍しいハイタッチのポーズに荒北の口元がニヤリと上がる。
「ハッ! 福ちゃん、やったナ!」
 目の前の手のひらを思い切り叩く。小気味よい乾いた音がした。 

*
「靖友、最近調子いいみたいだな」
 入浴後、食堂の自動販売機に向かっていた荒北は、後ろからかけられた声に足を止めた。振り返るとタオルや着替えを手にした新開が立っていて、彼はこれから風呂に入るところなのだろう。
「今日のクリテも寿一が優勝しただろ? 引いてたのはおめさんだ。ふたりが組むようになってからは負け知らずだな。すごいじゃないか」
「おー。まぁな」
「今回も飛び出すタイミングがバッチリだったって寿一が褒めてた」
「なっ、褒めっ……!? って、あの鉄仮面が素直に褒めるわけがねェ。見え透いた嘘ついてンじゃねーよ」
「嘘じゃないって。ほんとに褒めてた」
「うるせー! んなこたァ聞いてねーんだヨ!」
「ハハ。照れてる」
「うっせ! もしかして、それだけ言いにきたんじゃねーだろーなぁ!?」
「いや、おめさんを見かけたからさ。ただ単純に祝いに来ただけだ」
「……あっそ。そりゃドーモ」
 照れの反動で返す言葉がそっけない。新開に背を向けた荒北は自動販売機に小銭を入れ始めた。お決まりのベプシのボタンを押そうとしたのだが、荒北が押すより先に後ろから伸びてきた指がボタンを押す。
「……なんだヨ。まだ何かあんのか?」
「ベプシ飲むんだろ? あれ、もしかして違った? 余計なことしちまったかな」
「祝いに来たってンならさァ、どーせなら奢ってくれりゃーいいのに。気が利かねぇヤローだぜ」
「あー。悪い。今財布持ってないんだ。ほら、これから風呂行くとこだったし」
「……ただの冗談だっつーの。真に受けンなヨ」
 ペットボトルを取るために前屈みになる。よく冷やされたボトルを握り、身体を起こそうとした瞬間に視界が揺れた。目の前の自販機が粘土のようにグニャッと歪んで、「靖友?」と呼ぶ新開の声がやけに遠い。耳鳴りと、いつかに似た吐き気。そのまま床に膝をつきかけて、手を離れたボトルが足元を転がっていった。
「おっと!」
 後ろから両肩を掴まれた衝撃で意識が戻る。
 掴まれた部分にハッキリとした熱を感じた。新開の手のひらが体内に溶け込んでくるような気がして、驚いて首だけを動かして振り向くと、同じように驚いた顔の新開と目が合った。
「おめさん、その目……あ、いや、大丈夫か?」
「お、おお。ワリィ」
 何が起きたのか自分でもよくわかっていない。戸惑いつつも「へーきだ」と答えると新開はホッとした様子で手を離し、落ちたボトルを荒北の代わりに拾い上げた。
「眩暈? よくあんの?」
「あー……まぁ、たまに。いや、そんな顔すンなよ。別にたいしたことねぇから。風呂でのぼせたのかもナ」
「風呂? 靖友の風呂なんて烏の行水のくせに。のぼせる暇もないだろ」
「……うるせーなぁ」
 差し出されたペットボトルをひったくるようにして受け取る。「おっと」と大袈裟に驚いてみせながら新開が笑った。
「たまにって大丈夫なのか? 最近もやけに外走ってるだろ。あんまり無理しちゃだめだぜ? インハイまであと1ケ月もないんだ。こんな時期に怪我なんかしたら元も子もないからな」
「わーってる」
「わかってるならいいけどさ。せめて外周の距離だけでも減らしたらどうだ?」
 新開の提案に「うーん」と気の抜けた相槌を返しながら慎重にボトルのキャップを捻る。炭酸がシュッと音を立てて抜けていったが、中身がこぼれることはなかった。ボトルに口をつけつつ、新開に促されて自販機横の長椅子に腰を下ろす。
「寿一は『好きにしろ』ってタイプだから何も言わないだろうけど、でもオレはやっぱりおめさんは最近走り過ぎだと思うんだ。調子を上げるのはいいけど、インハイ前にピーク越しちまったらさ……」
 その先は言葉にせず、「わかるだろ?」と言いたげな目で荒北を見る。
「わかってる。その辺はオレだってちゃんと考えてっからァ。……でもな、最近やけに調子いいんだヨ。足が回る。だから、思いっきり走りたくってしょうがねぇ」
「おめさんがそんなこと言うなんて珍しいね」
「うっせ。ほっとけ」
「心境の変化でもあった?」
「いや、心境ってもんじゃねーけど……」
「けど?」
 もうひとくちベプシを飲んだ荒北は、“あること”を新開に言おうか言うまいか迷っていた。それは目に見えない類のモノなので、もし自分が当事者でなければ話を聞かされたとしても信じないかもしれない。それでもなんとなくだが、新開ならマジメに聞いてくれそうだと思った。
(まぁ……コイツなら言っても笑わねぇだろ。本とかよく読むし、なんか知ってたりするかもな)
 打ち明けることに決めた荒北は唇を手の甲で雑に拭うと、「なんかさぁ」と口を開いた。
「風がくる感じっつーの? アレがわかんだよ」
「風がくる感じ?」
「おう。不思議チャンみてぇだろ」
「不思議チャンって真波のことかい? まぁ、そうだな。で、それって具体的に言うとどんな感じなんだ?」
「どんな? そうだな……説明しろって言われちまうとちょっと困ンだけど、こう……走ってると身体に風がぶつかってくるだろ? そんときに腕とか足とか、とにかく肌の表面がピリピリ痺れんだ。ずっとそれが続く日は“当たり”で、スゲー調子がいい。頭は冴えるし、足もかなり動く。で、後ろからスゲー風が吹いてくるって匂いがすんだヨ。だからわかる」
 説明を聞く新開の表情が次第に険しくなっていく。眉をひそめて腕組みし、「うーん」と唸って天井を仰いだ。もしかしたら説明がうまく伝わっていないのかもしれないが、これ以上の説明もできそうになくて、荒北はもどかしさに前髪をガシガシと掻き乱した。
「あー、もーッ! なんつーか、こう……とにかく身体の表面がピリピリーって痺れっと色々調子がいいんだヨ!」
「肌がピリつく……匂いがする……」
「ワケわかんねーってツラすんなヨ。でもオレもうまく言えねェんだからしょうがねーだろ」
 これ以上の説明を放棄して、ふて腐れたようにベプシをあおる。
「……それっていつから?」
「あ? いつ?」
「いや、おめさんずっと調子悪そうだったろ。タイムが縮まねぇとか、足が張るとか言ってたし。だから焦ってトレーニングメニューを増やしたのかと思ってたんだけど、ほんとは真逆だったわけで、そうなるには何かきっかけでもあったのかと思ってさ」
「きっかけかァ……」
 視線を宙に彷徨わせて記憶を辿る。そして、何かを思い出した荒北は「アレだ」と声を張り上げた。
「おい新開、オメーのせいでぶっ倒れてからだぞ。あのくっそマジィ餃子食わされてぶっ倒れてからァ。あのナァ、アレでエライ目にあったんだからな。吐きそうになるわ眩暈はするわで散々だった。おまけに鼻の奥が死ぬほど痛くなるし、あんときは脳みそが爆発したかと思ったぜ」
「……そんなに?」
「あん? 保健室で寝てたの知ってんだろーが。オメーがカバン持ってきたんだろ」
「あ、あぁ。そうだったな……」
 腕組みをしたまま新開は再び黙ってしまった。
「どうしたァ、新開」
「いや……」
 新開はそれしか答えず、彼の横顔からは何も読み取ることができない。仕方なくつられて口を閉じた荒北は手持ち無沙汰になってしまい、手の中のペットボトルに視線を落とした。
 ボトルを親指で軽く押し、凹ませたり元に戻したりを繰り返す。そのたびにボトルの中で炭酸の細かい粒が弾けて消え、
(そういや痺れるっつーか、レース中のあの感じって炭酸にも似てんだよな)
と思いながら荒北はしばらくそれを眺めていた。すると、ふとあることに気がついて「まてよ、レース中のもあの後からだ」と思わず声に出してしまった。
「あれからなんか身体が変わったっつーか、なんか違ぇんだよな……?」
 言葉尻が疑問調に上がる。新開にではなく、自分自身に確認するように問いかけていた。
「身体が変わった?」
 難しい顔をした新開が言葉を繰り返す。荒北の顔をじっと見据える彼の瞳は視線が強い。「あのさ」と新開が何かを言いかけたが、「新開」と呼ぶ声に遮られた。
「風呂の時間がもうすぐ終わるぞ」
 親指で後ろを指しながら、ふたりの前で立ち止まったのは福富だった。
「お前、まだ入ってないんだろう?」
「あー、うん、悪いね。今行くよ」
 新開が荒北にチラリと視線を投げる。若干の心残りを感じさせたが、それでも新開は「また今度な」と腰を上げた。
(なんか言いたそうにしてたよなァ?)
 新開が何を言いかけたのかが気になって荒北もなんとなくスッキリしない。
「荒北、次のレースのことでちょっと話がある。明日、部活前にミーティングの時間を作れるか?」
「え? あ、おう。わかった」
 福富に頷いて答えた後、新開の消えた方向に視線を移す。しかし、彼の姿はもう見えなかった。

 
3.
 漂う甘い匂いに気がついたのは、冬が訪れてすぐのことだった。
 
 追い出し走行会を終えて正式に部活を引退した荒北たち3年生は、受験勉強のために図書室やファミリーレストランに集まるようになっていた。同じ大学を受験する福富と新開がだいたい一緒に勉強し、時間と予定が合えばそこに東堂や荒北が参加している。
 この日の集合場所は新開と福富が在籍している教室で、部活の引き継ぎで遅くなるらしい福富と東堂を待ちながら新開と荒北とで先に始めていた。
「あー……あァ? いや、違ェな……」
 ノートをペン先でつつく音が止む。解いていた問題の解法手順に詰まった荒北は、大きく伸びをしながら窓の外を眺めた。
 部活を引退したとはいえ、放課後になれば身体が自然と部活モードになってしまう。窓の外はよく晴れていて、冬の箱根には珍しいことに気温がそれほど低くない。風は吹いているが走ってしまえばすぐに暑くなるし、むしろ多少は風が吹いていたほうが汗を掻きすぎなくてちょうどいい。
(気分転換にガーッて走ったらスゲースッキリすんだろーナァ)
 走りたくてウズウズする足が貧乏ゆすりを繰り返している。
「靖友、集中」
 咎める新開の声に荒北は視線を戻した。
「もう飽きたのかい? それとも解いた?」
「……まだ」
「解き方で詰まってる?」
 身を乗り出した新開が荒北のノートに視線をはしらせる。距離が縮まったせいか、彼が纏っている匂いがより濃く香った。
「ああ、これか。ここにこれを代入するだろフツー。で、今度はこっちを――
「でたヨ、フツー。そのフツーがわかりゃあ苦労してねェンだヨ」
「え、そうか? でもフツーだろ」
「だからァ……って、もういいわ」
 辟易した顔で「しっしっ」と新開を追い払う。新開は腑に落ちない表情をしながらも素直に席に座り直した。
「なぁ新開、お前さァなんか匂うヤツつけてンだろ」
「え? 匂うやつって?」
「香水みてェなァ? 部活終わった途端に色気づきやがって。このナンパ野郎が」
「ん? 何もつけてないけど」
「はぁ? 嘘ついてんじゃねーよ。なんか甘ぇのつけてんだろーが。離れたとこからでも匂うぜ? しらばっくれようったってオレの鼻はごまかせねェぞ」
「甘いのって……え、本当にオレから匂うのか? 離れてても?」
「おー。マジだって。お前からバッチリ匂う。つーか、センコーにバレたらヤベェだろ」
「ああ、うん、そうだな……」
「誰かにチクらんねーうちにやめとけ」
「……ん」
 荒北は再び「あーあ」と伸びをしながら外を眺めた。教室から少しだけ見える箱根の山が夕日に染まり始めている。
(山ん中を走るのはキツいし疲れるしでスゲー嫌でしょうがなかったけど、離れちまえばこうして恋しくなるんだからナ……まさかこんなにハマっちまうとは思いもしなかったぜ)
 入学初期からは想像もつかなかった現在の自分がおかしくて、フンと鼻で小さく笑う。
「なぁ、今度さぁ息抜きで外走んねェ? たまにはいいだろ」
 提案してみたものの反応がなく、目の前に視線を戻すと新開は荒北を見ていなかった。背もたれに身体を預けて腕組みし、唇を固く結んだまま机上のどこかをじっと見つめている。荒北の言葉を聞いていないのは明らかだった。
「おい、新開」
 訝しんで声をかけると、ハッとしたように大きな瞳が荒北を映す。
「ん? 何?」
「……今度、気分転換に外周しねぇかって」
「あぁ、外周か。そうだな。いいかもな」
 いつにしようか、と話にノッてきた新開はいつもの彼に戻っていた。

*
 身を切るような潮風が容赦なく全身にぶつかってくる。海岸沿いを走っているせいか指が凍えてギア操作がおぼつかず、同じように指先を赤く染めた新開が振り向いて、前方に見えるコンビニエンスストアを指差した。
「ヤッバイな。指が痛いよ」
「なんかあったけぇの飲もうぜ」
 駐車場にロードバイクを停めると、吐く息で両手を温めながら一目散に店内に駆け込んだ。
「あー、やべぇ、あったけェ」
「生き返るな」
「だいたいサァ、冬場の海沿いなんて自殺行為なんじゃねーのォ? 走行会んときよりさみィじゃねーか」
「山登りよりマシだろ? 尽八は息抜きで山道走るらしいけど、オレにとっては息抜きにならないからね。むしろ苦行だ」
「お前、明早いってもチャリ部入るつもりなんだろォ? 山道も練習しとけって福ちゃんに言われてンだろーが。オレも東堂も、山が嫌いなダメリンターを引いて走るヤツはもういねェんだぞ」 
 会話しつつも飲み物や軽食を選んでどんどんカゴに放り込んでいく。だが、荒北の言葉のせいか新開は「そうだよな」とパンを選んでいた手を止めてしまった。
「靖友も尽八も大学は別だから、もう同じチームで一緒には走れねぇんだよな」
「いまさら何言ってんだヨ」
「うん。そうだけど……改めて言われちまうとちょっとクるものがあるな……寂しいよ」
「寂しいだァ? ハッ! どの口が言ってんだヨ。一番に志望大学決めたのはどこのどいつだったっけェ?」
「……勝手なこと言ってるのは充分わかってる。でもさ……」
 俯いたままの横顔を見ながら荒北は「いいから早く選べ」と軽く腿を蹴る。
「いって!」
「痛くねーだろ。軽くしたぞ、軽く」
「うん、ほんとは痛くない」
 ニッと幼い子供のように歯を見せた新開は普段通りに戻っていた。
  
 店内のイートインスペースで軽い食事を摂る。さすがにこの時期は日の入りも早く、厚い雲に覆われた空は黒に近い濃紺色に変わり始めていた。
「そろそろ戻るかァ」
「そうだな。これ食ったら帰ろうか。夕飯前には寮に着けると思うよ」
 新開が2つめのあんぱんを頬張り、荒北も負けじとパンに齧りつく。ふたりにとっては夕飯前のこの軽食もただの糖分補給にすぎない。
「今日はおめさんの好きな唐揚げらしいぜ」
「え、マジかよ。ラッキー」
 思った以上の向かい風の影響で疲労が溜まっているが、夕飯のメニューが好物と聞けば俄然やる気はでるもので、「帰りはオレが引いてやんヨ」と荒北は親指を立てて見せた。
「ハハ、頼もしいね。あまり遠出はできなかったけど気分転換になった?」
「おー、なったなった。やっぱ定期的に身体は動かさねェとダメだな。勉強ばっかじゃ頭がおかしくなっちまう」
「そういえば……最近は体調どう? 前みたいな眩暈とかはないの?」
「あー……ねーよ」
「そっか。ならよかった」
 荒北は嘘をついた。貧血に似た眩暈はずっと続いていて、夏以降は立ち眩み程度だったが現在はもう少しだけ症状が重い。新開が色気づいた(と荒北が思っている)時期と同じくして荒北の眩暈の程度は重くなっていた。
(オレは不調だってのにコイツはまだ香水つけてんのかヨ……ほんとお気楽野郎だな)
 温かいお茶のペットボトルを握りながら新開の横顔を盗み見る。彼は荒北に見られているとも知らず、のんきな顔でパワーバーに齧りついた。
「あ、そうだ。風がくんのがわかるって前に教えた話、アレ覚えてるか? なんか今日も調子いいし、お前に見してやってもいいぜ」
「え……ああ、そういえば話してたな」
「もしかしたら今日がチャリに乗る最後かもしんねーし」
「最後?」
「おう。近いうちに雪が降る」
「雪? 予報じゃ何も言ってなかったけど」
「匂いだ。ここんとこずっと雪が降る前の匂いがしてんダヨ」
「へぇ……まさか、それもあの日から?」
「あ? あー、いや、これはガキの頃からだ。餃子のせいじゃねェから安心しろ」
「昔から? そうなんだ……」 
「んじゃー、それ飲み終わったら行くか」
 新開がお茶を飲み干すのを待って腰を上げた。
 日はすっかり沈んでしまい、休憩前よりもさらに寒さを増した外気が一瞬で身体を冷やしてしまう。店内の暖かさを知った身体にはかなりキツイが、それでもクリートを嵌めて漕ぎだし、宣言していたように荒北が新開を引く形で走り出した。
 コンビニを出て根府川駅前を通り過ぎ、135号線をひた走る。早川口の交差点から国道1号に乗り換えて箱根を目指した。
 箱根湯本の駅前を過ぎると一気に交通量が減る。荒北は後ろを振り向いて念のために車が来ていないか確認し、新開にそろそろやるぞと目配せした。
 目的地である箱根学園はもうすぐだったが、肌の痺れがどんどん強くなっている。薄い唇をぺろりと舐めて鼻腔に意識を集中させて息を吸った。
 ゆっくり、深く、長く、風が生まれる匂いを探すように。
「新開、ギアだ。1段上げろ。オレがせーのって言ったらギア上げて思いっきり踏め」
「え、ああ、わかった」 
 もう一度息を吸って匂いを確認し、心の中で風が到着するまでの数を刻む。
「いくぞ。せーのっ……!」
 荒北の声に合わせて後ろでギアを変える音がした。そのまま一気にペダルを回し、正門へ続く長い坂道を駆けのぼる。荒北の予想通りに強い追い風が背中を押して、いつもより速く坂の頂上を越えた。
「ほんとだ……すごいな」
 ハァハァと息を吐きながら新開が隣りに並び、荒北の背中をポンと叩いた。
「だろ?」
 ニヤリと笑って見せたがハンドル操作が大きくグラついて、咄嗟にクリートを外して足をつく。「大丈夫か?」と不安そうな新開に「久しぶりに走ったから足にキテんだよ」と笑ってごまかした。
(くそっ……チャリ乗んのだって久しぶりだってのに、アレまで使うのはさすがにやりすぎたか? コイツにはバレねェようにしねーと)
 コンビニで嘘をついた手前、ここで新開に悟られては面倒なことになる。いつもの眩暈なら数分もすれば落ち着くので、なんとかやり過ごそうとして荒北は平静を装った。
 そのまま新開もつられてバイクを降り、部室横の保管庫までふたりで歩くことにした。勉強のことやテレビ番組の話など、他愛のない会話を続けながらも荒北の全身がどんどん冷えていく。ラストスパートの登坂で呼吸も体温も上がったはずなのに、指先の感覚がすでにない。膝さえもプルプルと細かく震え始めていて、荒北はバイクに縋りながら歩いていた。
「こんなに寒いのにやっぱり汗は掻くもんだな。早くシャワー浴びたくてたまんないよ」
「……だナ」
「あー、夕飯の唐揚げ楽しみだなぁ。今日は何個までおかわり自由なんだろ」
「おかわりって……オメーは食いすぎだからって禁止されんじゃねーの?」
「なんだよそれ。ひっどいなぁ。じゃあ靖友だって禁止されるぜ、きっと」
「……オレはァ、べつに……」
 ロードバイクを引く手が痺れて力が入らない。すぐ前を歩いている新開の背中が視界の中で徐々にぼやけていく。
「しん、かい……ちょっと待っ……」
 呼びかけたはずの声はほとんど言葉にならず、不思議なことになぜか目の前には地面があった。土から漂う雪の匂い。自由を失った身体は雪のように冷えていて、荒北は上から降りてくる闇に視界を奪われていった。
 

-ペダル:新荒
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