【新荒】春に契る(前編)【センチネルバース】

4.
(重てェ……)
 ひと呼吸するたびに身体中の血液が金属に変化していくようだった。そんな錯覚を覚えてしまうほどに全身が重い。頭上から押し潰されるような、強制的に下に引っ張られているような、よくわからない圧迫感。とにかく息苦しくてたまらず、酸素を求めて喘ぎながら荒北は目を開けた。
「気がついたか?」
「う……」
 眼球の奥が疼いて痛む。覗き込んでくる顔を見ようとしても焦点をうまく合わせられず、結局放棄してまた目を閉じた。甘い匂いのおかげでそこにいるのが新開だとわかる。
「……しん、かい……」
「目が覚めたかい? 体調は?」
 最悪だと呟いたはずが声が出ない。荒北の喉からは掠れた空気が漏れただけだった。
「辛そうだな……なぁ、ちょっと目の中を見てもいいか?」
 荒北が答えるより先に新開の指先が目元に触れる。恐々とした手つきで目を開かれて、強制的に視界が明るくなった。見慣れた天井と照明。蛍光灯を覆っているカバーの端がやや欠けているのは荒北の自室である証拠だった。
「……やっぱりな」
 それだけ呟いて新開が指を離す。荒北がなんとか自力で目を開けると、よくわからない顔をした新開が静かに見下ろしていた。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
「体調なんでもないって……嘘ついただろ」
 あぁバレた、と荒北は視線を逸らした。
「オレが本当に心配してんだってこと、おめさんには伝わらなかったかな。さっき部室前で倒れたの覚えてるかい? こう言っちゃなんだけど、あの場所だったからまだよかったよ。おめさんを運ぶのを黒田と葦木場が手伝ってくれたんだ。そもそも、靖友が正直に全部話してくれてたら、こうはならずに済んだかもしれないってのに……」
 恐るおそる視線を戻すと、今度は明確に咎める目が荒北を見下ろしていた。
「この先は嘘はつかないって約束してくれ」
「……な、に言って……」
「まだ騙せるって思ってるのか? オレも甘く見られたもんだな」
 新開の手が布団の中に潜りこみ、荒北の腕をぐいっと引っ張りだす。
「オレの手、握ってみてくれ」
「……手ェ?」
「いいから」
 新開がひらひらと手を振って握るように催促する。引っ込める気配がないので仕方なく手を重ねると、ぎゅっと指を絡めるように握られた。
 ドクン、と荒北の心臓が強く跳ねた。
 ぴったり触れている手のひらを通して、身体の中へ何かが流れ込んでくる。驚いた荒北は「なんだぁ!?」 と衝動的に手を振りほどいてしまった。
「おめさん……」
 すべてを察したかのように新開が荒北をじっと見つめる。少しだけ眉をひそめ、何かを逡巡するように視線を落とした後で今度は新開のほうから荒北の手を握った。椅子から腰をあげて荒北に覆いかぶさり、離れてしまわないよう空いた手を背中に回して抱きしめる。さっきとは比べ物にならないくらい新開の力が強い。
「なっ、おい新開ッ」
「いいから。しばらくこのままじっとしてろって」
「なにする気だよ。なんか怖ェからヤなンだって! 手ェ離し――
「大丈夫。怖いことなんか何もない。それに、おめさんはこれが初めてじゃない」
「え……は?」
「夏に倒れたときも保健室でこうやってたんだ。靖友、大丈夫だから。オレを信じてくれ」
 力の抜けた手では抗うことすらできず、荒北は言われるままにするしかなかった。
 合わされた手のひらに染み込んでくる新開の体温と、触れ合う胸板から伝わる脈動。背中をゆっくりさすられて、「大丈夫だ」と繰り返し囁かれる声が優しい。ホッとしてしまう温かさが荒北の涙腺をわけもわからず緩ませる。
(なんか……身体がスゲー楽……)
 荒北は肺の中身をすべて吐き出すように大きく息をついた。新開の首筋に顔をうずめ、空っぽになった肺を彼の甘い匂いで満たしていけば、全身を縛っている正体不明のこわばりがゆっくりゆっくり溶けていく。
 どのくらいの時間をそのままで過ごしたのだろうか。冷えた身体が温められ、気がつけば呼吸も脈もいつも通りに回復していた。手は繋いだままで、身体を離した新開が「どう?」と荒北の顔を覗き込む。
「あー……」
 荒北は大げさにため息をついて視線を遮るように目元を隠し、目頭に浮いた涙を腕になすりつけてこっそり拭った。
「靖友? 大丈夫か?」
「……信じらんねェ」
「え?」
「……クッソ落ち着く。生き返る」
「そうか。よかった」
 心底ホッとした声だった。腕の隙間から様子を窺うと嬉しそうに笑う新開と目が合って、荒北は赤く染まる自分の目を慌てて隠した。
「だいぶ顔色も戻ってきたな。よかった。オレでもなんとかなりそうだ」
「なんとかって……つーか、お前何したんだ?」
「何って……もしかしてわかってない?」
「あぁ? なにが」
「え……ホントに?」
「だからァ、なんなんだよ!?」
「マジか……」と呟いて新開が目を見開く。そして少しだけ時間を置いた後で「おめさん、“センチネル”って知ってるよな?」と言いにくそうに問いかけた。
「あ? あたりめーだろ」
「その……自分がそうかもしれないって思ったことは?」
「はぁ? オレがァ? なんでオレがンなもん――
 嗅覚の異常。
 突然の吐き気と眩暈。
 急激に変化してきた身体。
(これって……よく考えたら授業で習ってきたヤツじゃねーか……)
 突きつけられたまさかの事実に喉が渇く。不安で落ち着かず、荒北は空いた手で布団をぎゅっと握った。
 気がつきたくはなかった。考えたくもなかった。嫌なタイプの興奮で胸が激しく波立っていく。
「まさか……オレが? 嘘だろ……」
「嘘じゃない。おめさんも思い当たることはあるだろ?」
「いや、だって……今まで一度も“そう”だって言われたことなんかねェんだぞ」
「……発症する時期も症状の程度も人それぞれだからな。生まれたときから発症している人もいれば、症状が軽すぎてセンチネルだと自覚しないまま一生を終える人もいる。靖友は昔から嗅覚が鋭かったって言ってただろ? その話を聞く限りじゃおめさんは潜在的にセンチネルで、最近になってそれが発症したってことなんだろうな。オレの匂いもわかるみたいだし」
「お前の匂い?」
「甘い匂いがするって言ってただろ。あれも症状のひとつなんだぜ。主に嗅覚が発達した場合のな」   
「マジ、かよ……」
 思わぬ衝撃を受けて荒北の全身が固くなる。繋いでいた手にも無意識に力を込めてしまったが、新開が痛みで顔をしかめても荒北にはそれに気がつく余裕すらなかった。
「まだ確定したわけじゃねぇけど、たぶん靖友はセン――
「言うな!」
 思いがけない大声でハッと我に返った。いらだちが大きな声となって出てしまったのだ。
「ワリィ……なんかちょっと混乱してて」
「……無理もないよ」
「頭ん中ァ、グチャグチャだ」
「仕方ないさ」
「……新開、頼む。誰にも言うな。頼む……言わないでくれ」
 懇願する声は情けないほど震えていた。必死に新開の手を掴み、「頼むから」と何度も何度も縋りつく。
「今は、ほら、受験も近いだろ? 施設で検査受けんのってスゲー時間かかるって聞くし、ヘタすりゃ長い間拘束されちまうって……だから――
「わかったよ。誰にも言わない。でも、症状がひどくなったらそのときはちゃんと施設に行くって約束してくれ。ごまかし続けるにも限界があるだろうからな」
「……もちろん。約束する」
「うん……でも無理はするなよ。で、オレには正直に全部話すこと。何かあっても、何もなくてもだ」
 新開が荒北の手をそっと撫でる。労りなのか、それとも憐れみなのか、どちらにせよ今はその優しさが身に沁みた。
「あってもなくてもって……なんダヨそれ」
「おめさんの体調をなんとかしてやれんのは、とりあえず今はオレってことだから」
「そういや、お前って……もしかして……」
 戸惑いながらもある種の確信を持って問いかける。すると新開は目を伏せて視線を外し、長い長い息を吐いた。そして決心したように再び荒北をじっと見つめ、厚い唇をゆっくり開く。
「ああ。オレは……“ガイド”だよ」

**
 ペンを走らせる手が止まる。そのたびに荒北は「ハァ……」とため息をこぼし、しまいには諦めてペンを離してしまった。
「あー……マジで集中できねェ」
 うなじを掻いて頬杖をつき、物憂げに窓の外を眺める。窓の外は白い。荒北の予想通りに週末に降り始めた雪は止むことを知らず、勢いを強めて箱根をまっ白に染めていた。自室の窓ガラスも白く曇って、たまに吹く風にカタカタと音を立てている。
 冬休みまであと少し。年が明けて休みが終わればすぐにセンター試験が始まる。本格的な受験シーズンが近いというのに、荒北はそれどころではなかった。なんとか受験モードに入ろうとしても頭の中に浮かんでくるのはあることばかりで、気がつけばそれだけを延々と考えてしまっている。

『ああ。オレは……“ガイド”だよ』

 数日前、荒北は自分がセンチネルだと自覚し、そして新開がガイドであると告げられた。
 なぜ彼は自身がガイドだと知っていたのか。
 ガイドには特徴的な症状がまったくない。自ら施設に行って検査を受けでもしなければ、自身がガイドであってもそれを知らずにいる人がほとんどだ。新開に理由を尋ねる前に後輩たちが荒北の様子を見に部屋を訪れて、そのため、話は中断したまま終わっている。
「やっぱ……訊くしかねェよな」
 よし、と自分にハッパをかけるように呟いて荒北は腰を上げた。
 
(ハッ! らしくねェ……緊張してやがる)
 部屋の前に立ったままドアを叩けずにいた。ノックをためらう手のひらが汗でしっとりと湿っていく。意を決してごくりと唾を飲み、ドアを2回ノックする。「何?」と言う返事は思いがけず背後から聞こえて、驚いて振り返るとマグカップを手にした新開が立っていた。
「なんか用だった?」
 ホットココアとはまた違った匂いが荒北の鼻先に香る。新開の甘い匂いを吸い込んだ途端に心臓が強く脈打って、思わず服の上から胸の辺りを押さえると、「まぁ、入れよ」と新開が荒北を隠すようにして自室に入れた。
「聞きたいんだろ? この間の続き」
 荒北をベッドに座らせ、新開が椅子を引っ張り出してその前に陣取る。
「話の前に靖友の目、見てもいい?」
「目? そういや前もなんか見てたけど……何があるんだ?」
「ん? ああ、そうだよな。自分じゃ見えないもんな」
 机の引き出しを開けて新開が何かを取り出す。差し出されたものは顔の大きさ程度の鏡で、「今は……そうだな、下瞼のとこ。見てみなよ」と新開が自分の瞳を指差しながら告げた。
「下まぶたァ?」
 あっかんべーをするように下瞼を引き下げる。すると眼球と粘膜の境目に赤い二重線が浮き出ていた。血管が浮き出ているようにも見えるが、それにしては幅が均等で不自然すぎる。
「なっ……んだこれェ」
「見えた? それがセンチネルの証だよ。普段は今みたいに隠れてるけど、能力を使用するとそれがより濃く浮き出てきて、黒目を囲む円になる」
「証って……こんなん知らねェぞ。聞いたこともねェ」
「うん。だよな。これは施設でしか教えてくれない、当事者だけに知らされる情報なんだ。センチネルの存在は世界的に認知されてるし、積極的な保護もされてる。それでも能力を利用されて何かしらの犯罪に巻き込まれるセンチネルも年々増えているからね。他者にバレないほうがいいって判断されたんだろうな」
「じゃあなんでテメーはそれを知ってンだよ。お前はセンチネルじゃねェだろ」
「……認定を受けたガイドにも教えられるんだよ。センチネルとガイドは契約を結ぶだろ? だからガイド側が詐欺に合わないように、ガイド自身を護るために知らされるんだ。センチネルかどうかは目を見れば一発で判断できるからな」
「認定……」と呟いたきり荒北は言葉を失ってしまった。新開がガイドだったことも知らなかったのに、彼はすでに資格を持っているという。荒北の知識が正しければ、国の認定を受けたガイドは18歳以上であれば自己判断でセンチネルと契約を結ぶことができるはずだった。
(※ガイドが18歳未満の場合は親、もしくは保護者に準ずる者と、政府の承認を持つ医師の二重の承諾が必要)
「新開、お前……経験……あんのか?」
 しまった、という表情で新開が目線を逸らした。
「お前が今言ったことを知ってるっつーことは、お前も資格持ちってわけだろ? ん? おい、もしかして誰かと契約してんじゃねーだろーな!?」
 誰かと契約を結んだ場合、ガイドは他のセンチネルに(能力を使用する意味で)触れてはいけない。また、センチネルも同様で、他者と契約中であるガイドへの故意的な接触は禁止されている。新開がすでに契約者ならば、荒北は法を犯したことになってしまう。
「あー……認定されたのはもうずいぶん前の話だよ。ガキの頃だったし、正式な契約を結んでたわけじゃない」
「ガキの頃って……そんな前から自分がそうだって知ってたのか」
「……まぁ、偶然知ったってとこだけどな」
「偶然……」
 フゥ、と長い息を吐いた新開が「誰にも言わないって約束してくれ」と先に念を押し、荒北は無言で頷いて応えた。
「小学校の同級生にセンチネルの女の子がいたんだ。クラスは違ったんだけど家が近所でさ、よく一緒に遊ぶ仲だったよ」
「同級生に……マジかよ」
「あの日も公園で一緒に遊んでて、鬼ごっこの最中に突然倒れたんだ。こないだの靖友みたいに。で、オレがその子の家まで連れて帰ったんだけど、そんときにな、手を握ったままずっと離してくれなかった。オレと手を繋いでると『あったかくて身体が楽になる』って言うんだよ。オレの手から身体の中に何かが入ってくるんだって」
 荒北も新開と手を合わせたときのことを思い出していた。新開の熱や匂いが体内に流れ込んでくる感触は本当に生き返るような心地で、大丈夫だと背中をさすられたときの安堵感はこれでやっと救われるんだと涙ぐんでしまうほどだった。じっと自分の手のひらを見つめる荒北を、新開もまた無言で見守っていた。
「新開……オメーはそれまで自覚はあったのか?」
「いいや、まったく。急に言われたからすげぇ驚いた。授業で教えられてはいたけどさ、実際に体験しないとやっぱりわかんないもんだよな。思ってたのとは全然違ったし、自分の手から何か出てるって言われちまうと結構ビビるよ。で、そんときに彼女の親に彼女はセンチネルなんだって聞かされてさ、たぶんオレはガイドなんだろうってことになって、親に施設に連れていかれたんだ」
 結果はばっちりガイドだった、と新開が眉を下げて薄く笑った。
「母方のじいさんがガイドだったから、もしかしたらオレか弟のどっちかはガイドかもしれないって言われてたんだよ。ほら、隔世遺伝ってやつ。だからある程度は覚悟してたつもりなんだけど、あーやっぱりそうかって数日間は落ち込んだな」
「……へぇ。で……その同級生のガイドやってたのか?」
「まぁ……その子が中学のときに引っ越すまで。あれからどうなったかはわからない」
「……そォ」
 とりあえず法を犯していなかったことがはっきりして、荒北は思わず安堵のため息をついた。
「そういや具体的な対処方法ってオレあんま知らねェんだけど、何すんの?」
「何、って言われてもなぁ」
 それだけ言うと新開は困ったように下唇を噛み、愛想笑いのような笑みを浮かべて「肉体的接触、かな」と答えた。
「え、肉体的?」
「うん。まずは手を繋ぐとか、抱きしめるとかそんなもん。こないだやったみたいな感じだ」
「……あー。アレか」
「うん。だいたいはあれで収まるらしい。要はガイドがセンチネルの能力を精神的に中和できればいいんだ。ホッとさせて落ち着かせるっていうのかな」
「たしかに。スゲー安心した」
「だろ? あれで効果がない場合やセンチネルが深い領域まで力を使っちまってたならまた違うんだけど……」
 そこで新開が言葉を切る。その先を言うかどうするか迷っているように見えた。
「もっと何かあんのかヨ」
「触れるだけじゃダメなときはガイドの体液を直接摂取させるんだ。ガイドとセンチネルでは染色体に異なる部分があるって習っただろ?」
「……そうだっけェ?」
 授業で習ったような記憶はあるが、詳しいことは思い出せない。あの頃はまさか自分に関わることだとは思いもせず、授業内容はほとんど聞き流していた。
「まぁ……フツーは自分の話だなんて思わないもんな。オレもそうだったよ。とりあえずテストの点がとれればいいかって暗記して終わりだった」
 荒北をフォローしたのかはわからないが、新開も自分のうなじを掻きながら照れ臭そうに笑った。
「オレは自分がガイドだって知ってから色々本を読んで知識を入れ直したんだ。おめさんも知っといたほうがいいよ。自分のことなんだしさ。今ならネットで調べるだけでも充分情報は拾えるからね」
「……わーってる」
「うん。それでさっきの続きなんだけど、センチネルだけは染色体が1本多いんだ。残念ながら理由は未だに不明。何かの予防接種に使用されていた薬品が関係していて、世界的な人体実験だったなんて噂もずいぶん前にあったらしいけど、まぁ眉唾物だよな。で、その1本多い染色体はガイドの染色体には弱いんだよ。だからガイドの体液を取り込むことでセンチネルの能力を抑えるんだ」
「はぁっ!? よりによって体液かヨ!?」
 うへぇ、とあからさまに嫌な顔をする荒北につられて新開も笑った。
「まぁ体液っていっても色々あるし、簡単なところでいえばキスだろうな。それでも制御ができなければ……セックス、とか」
「せっ……!? んなことまでしなきゃなんねーの!? いやいや、嘘だろ? そもそもこの時代に他人の体液頼みってマジか!? ありえねェ……なんか治療薬ぐらいあんだろ?」
「ああ、あのな、それは最終的にってことで、みんながそうするわけじゃない。センチネルとガイドの相性も重要なんだよ。相性がよければ手を繋ぐだけでもかなりの効果がある。反対に言えば、相性が悪ければ何をしても無駄だ。センチネルの症状を抑制できないってことは、悪化させちまうってことだから」
 新開はさらっと言ってのけたが、荒北にとってはなかなか衝撃的な対処法だった。体液の接種でも衝撃的だというのに、最終手段として性行為をしなければならないという。
「それって……野郎同士だったらサイアクじゃねーか」
「そのために施設があるんだろ? センチネルの症状、性別、セクシャリティを考慮してガイドを選別して契約させるんだ」
「あー……なるほど。うまい商売だよナァ」
「商売って……まぁ、契約金は高額だからね。だから犯罪も多いんだろうな。無認可のガイドだったり、契約金詐欺だったり。契約金が支払えなくて、結果として無認可のガイドに縋るしかない人もいるんだろうな。闇医者みたいなところも多いって聞くし、おめさんも変なところに引っかからないように気をつけるんだぞ。まぁ、当分はオレがいるからいいとして」
「……おう」
 複雑そうな荒北の表情で察したのか、「大丈夫だって。靖友はキスはしなくても平気そうだから」と新開が荒北の腿を叩く。
「それとも、オレとしてみるかい?」
 わざとらしくウインクしてみせる顔はこの空気を和ませようとしているのだろうか。
「……するわけねーだろ」
「そう? 残念」
「うるせー。なにが残念だよ、バカ言うな。つーかそろそろ部屋戻るわ。長居して悪かったナ」 
 荒北が腰を上げると新開が腕を掴んで引き留めた。さっきまでの笑みはすでになく、口元を引き締めて真剣な眼差しで荒北を見つめる。
「……なんだヨ」
「センチネルだってことを隠すのは思った以上に大変だと思う。夏に発症したから、半年くらいか? おめさんの身体はまだ慣れてなくて不安定な状態のはずなんだ。今は運動もしてないし、めったに能力を使う機会なんてないと思うんだけど……あれ、おめさんは嗅覚だよな? 他にも症状でてる?」
「いや……たぶん他はねェと思う」
「なら、まだわかりやすいから平気かな。身体の変化に慣れてくると無意識でも使用してたり、この程度なら使っても大丈夫だろうって自制心が弱くなるって聞くからさ。本当に気をつけるんだぞ。オレが一緒にいたらいいんだけど、これからはそうもいかなくなるだろうから」
 ぎゅ、と手首を掴む指が痛い。
「わかってるってェ」
「本当に?」
「マジで! わかってるっつーの! 倒れんのはマジでもうごめんだ」
「とりあえずしばらくは様子を見よう。おめさんの身体が落ち着くまでオレがサポートする。そうだな……体調が悪ければすぐに来てほしいんだけど、まずは週1回でどうかな。オレの部屋でもいいし、そっちに行ってもいい」
「……わかった」
 新開が納得した表情で手を離す。だが、荒北がドアを開ける前に、
「オレの匂いが強くなったときは問答無用で会いに来てくれ。甘い匂いが濃いってことは症状が出てるってことなんだ。朝でも夜中でも構わない。オレが何をしてても遠慮しないで、おめさんは自分を優先すること。いいな?」
と、もう一度釘を刺した。彼の真剣な表情に気圧された荒北は素直に頷くしかなかった。

 
5.
 新開のサポートを受けながら、荒北は無事に受験を終えることができた。週1回の“接触”が効いているのか、外周に出て倒れた日以来あの症状はでていない。
 時刻は午後10時。消灯を告げるアナウンスが寮内に流れた。
 素直に照明を消したものの、荒北は暗闇の中で起きていた。ベッドに寝転びながらその時がくるのをじっと待ち続ける。そのままで30分ほど過ぎた頃、1通のメッセージを受信した携帯電話が液晶画面を淡く光らせた。
 それを合図にしてベッドを降りた荒北は用心深くドアを開けて部屋を出た。足音を忍ばせて階段を上り、ある部屋の前で立ち止まる。ノックもせずにドアノブを回すと、その部屋の主もベッドに腰掛けたままで起きていた。
「今日も身体はいつも通り? 問題なかった?」
 小声の問いかけに「ああ」と小声で返す。薄闇に慣れた目がホッとしたように微笑む新開を映した。
「じゃあ始めようか」
 新開がベッドをポンポンと叩いて荒北を呼ぶ。言われるままに近づいて差し出された手を握ると、途端に指先から熱が巡ってきた。
「うっ……」
 この瞬間は何度経験しても慣れるものではない。肌がぴったりと吸いついて、ふたりの境目があやふやになり、そのまま溶けて混じりあいそうになる。手を繋ぐだけの行為にある種の性的興奮を覚えるようになったのは、“治療”を始めてから割りとすぐだった。
 ゆっくりと、でも確実に身体を侵してくる何か。心地よさにゾクゾクと震えて、こらえきれない吐息が固く結ばれた荒北の唇を緩めてしまう。
(こんなんおかしいだろ……異常だ)
「くそッ……!」
 ただの治療行為に身悶えする自分が情けない。荒北は咄嗟に手を引っ込めようとしたが新開は離さず、何でもない顔で「大丈夫、獲って食ったりしないからさ」と荒北を茶化した。
「お前は……なんともねーのかよ」
「ん? 何が?」
「いや……ならいい」
「そう? それにしてもおめさん、いい加減慣れてくれてもいいのに。未だに震えちまうんだもんなぁ。オレってそんなに怖いかな」
「……うるせー。慣れねーもんは慣れねェンだからしょーがねーだろ」
 震えてしまう理由を知らない新開に悪態をついても仕方がないのだが、それでも、向こうだけが余裕たっぷりに見えて気に入らない。荒北はわざとらしい大きな舌打ちをして手を離し、我が物顔で新開のベッドに寝そべった。苦笑しつつ新開も隣りに並び、片手を取って手のひらを合わせる。
 恋人のように絡められた指先に、隙間なくくっついた手のひら。おまけに新開の空いた腕で背中を抱かれて、ふたりの身体が有無を言わさず密着する。再びの快感に手のひらを貫かれて、荒北はたまらず目の前のスエットに顔をうずめた。
「はぁ……う……」
「震えてる……大丈夫だよ。靖友」
「しん、かい……」
「ん? 苦しい? もうすぐ慣れるさ。大丈夫。大丈夫」
 新開の手が荒北を落ち着かせようとして無防備な背中をさする。それさえも快感に変えてしまう身体が恨めしいが、自分ではどうすることもできず、荒北は新開の胸に顔をすり寄せて溢れそうな声を耐えた。
「オレの、ちゃんと届いてる?」
「……あぁ」
「ちゃんと感じてる?」
「……おう」
 大丈夫だとコクンと頷く。「よかった」と囁いた新開が荒北の頭に頬を寄せた。
 前髪を揺らす穏やかな呼吸。頭をずらして少しだけ見上げれば、厚ぼったい唇がすぐそこに見える。

『まぁ体液っていっても色々あるし、簡単なところでいえばキスだろうな。それでも制御ができなければ……セックス、とか』
『大丈夫だって。靖友はキスはしなくても平気そうだから。それとも、オレとしてみるかい?』

 いつかの言葉を思い出して自然と唇に目がいってしまう。
 新開の体温、鼓動、匂い、手の動き、呼吸の穏やかさ、声のトーン。ただこうして触れているだけでも気持ちがいいのに、体液を摂取したならどうなってしまうのだろう。
(いやいやいや、何考えてんだオレはァ!)
 無理やり視線を外した荒北は何も見ないように目を閉じた。しかし、そのせいで今度は鼓動が耳について仕方がない。
 荒北の心臓は痛いくらいに騒いでいるというのに、頬の下から聞こえる音は規則的で力強く、普段と変わらないリズムで鳴っている。こんなにも落ち着いているのは過去にガイド経験があるからだろうか。
(そうだよな……コイツにこうやって抱かれたヤツは他にもいるんだよな。手ェ握られて、背中抱かれて、もしかしたらその先も……)
 荒北が知らない、新開が過去に出会ったセンチネル。彼女がどんな能力を持ち、新開はどんなサポートをして慰めてきたのか。
 思春期の男女ならお互いの身体に興味を持ってもおかしくない。現に荒北自身がそうだったように、特に男子は身体の変化に敏感で、はしゃいで、興味津々で浮ついていた。
「ハァ……」
「苦しいかい?」
「いや……」
 油断するとすぐに吐息が漏れてしまう。身体を包む淡い快感を、足指をきゅっと折ってこらえた。
(なぁ、治療以外に何もしてねェよなァ?)
 実際に言葉にすることができたなら――。そう思った途端に胃の辺りがキリキリと痛み、胸が締めつけられて苦しくなった。おまけに、どうでもいいネット記事を思い出して不快さが増してしまう。

≪契約済みのセンチネルはガイドに対して依存や執着を抱きやすくなる。結果、ガイドへの犯罪行為(例えば監禁、盗聴などのストーカー行為等)が増え、互いの相性が合うほどその傾向は強くなる≫

 新開に勧められたからではないが、センチネルについて色々調べてみたときにこんな記事を目にしたことがあった。書かれた情報の信憑性は怪しいもので、記事の下に載っていたコメント欄にも多くの否定的な意見が書かれていた。荒北も全部を鵜呑みにしたわけではない。だが、否定できない部分があることもまた事実だった。
 センチネルとガイドの関係が始まってから、荒北は新開に対して独占欲に近いものを感じるようになっていた。
 そもそもふたりはきちんとした契約を結んでいるわけではない。成り行きでこうなったとはいえ、新開にとって荒北をサポートするメリットは何もないし、むしろ受験勉強の合間に治療の時間をつくることはデメリットでしかなかったはずだ。それでも新開は荒北のために時間をつくり、嫌な顔ひとつせず治療につき合ってくれた。そんな彼の好意と治療時に与えられる快楽が、執着や嫉妬といった感情を荒北に抱かせたのかもしれない。
(オレのじゃねぇのはわかってるし、ただ勝手にオレが勘違いしてるだけってのもわかってる。でも……)
『ハッ! ダッセ。オレはぜってーこんな風になったりしねぇ』
 あの記事を読みながら鼻で笑った記憶が蘇る。バカにしていたはずなのに、日々膨らみ続ける独占欲が荒北自身を苦しめている。
 荒北は空いた手で新開のスエットをぎゅっと握った。より匂いを嗅ぎたくて新開の胸に顔をぐいぐい押しつける。
「ん……くすぐったいな」
 抑えた笑い声が荒北の耳をくすぐる。感情に連動するのか、新開が笑うと彼の熱も荒北の中でゆらゆらと揺れた。穏やかで温かい波に全身を隅なく覆われ、多幸感が溢れてどんどん身軽になっていく。“卒業”の二文字が頭の片隅にチラついたが、それもすぐに快楽の中に溶けて消えた。
(今だけはオレのもんだ……)
「しんかい……」
 耳を疑うような甘い声にハッとした。戻ってきた理性に頭と心を一瞬で冷やされる。無理やり手を振りほどき、新開を押しのけるようにして身体を離した。
「靖友?」
「ワリィ、今日はもう戻る」
「え? まだ途中だぜ?」
「いや……もう平気だからァ」
「そう……おめさんがいいならいいんだけど……」
「ワリィ。あんがとな」
 それからは一度も新開の顔を見ることはできなかった。逃げるようにして部屋を去り、自室へ急ぐ。
(なんっ……ありえねェ……ヤバい、ヤバすぎンだろ……!)
 足音を立てずに走りきれたことは奇跡だったかもしれない。追われているわけでもないのにドアを背中で押さえて天井を仰ぐ。乱れた呼吸が慌ただしく喉と肩を上下させた。
 下半身に感じている熱が恐ろしかった。下着を内側から押し上げる窮屈さから、そこがどんな状態なのか確認しなくてもわかっている。スエットパンツの上から触れただけでピリピリと電気が奔った。
「うぅっ……!」
 思わず前屈みになってしまうほどのたまらない刺激。その場に立ったまま下着を乱暴にずり下げて、硬く勃起した陰茎を握った。
「ハァ……はぁ、あッ、うぅっ……」
 ドアに背中を預け、意識を手元に集中させる。扱くたびにビクビクと震える陰茎はいつも以上に熱く猛っていて、すぐにでも射精してしまいそうだった。
 スエットに残る新開の甘い匂い。荒北は片手で裾をまくり、鼻先に押しつけながら夢中で手を動かした。
「しんかい、しんかい……」
 うわ言のように繰り返し名前を呼ぶ。あっという間に絶頂は訪れて、受け止める暇もなく精液が床と手のひらを汚した。ハァハァと肩を揺らしながら信じられない思いで跡を見下ろす。これが新開を想って自慰をする始まりだった。
 
 
 ふたりだけの“治療”は誰にも知られることなく密かに続き、冬が明けて雪が融け、ついに別れの春がやってきた。
「症状も出てないし、体調も安定してる。もう少し回数を減らしても平気そうだな」
「……おう」
「大丈夫、必ず会いに行くよ。おめさんも遊びに来てくれよな」
「……ん」
「何かあったらすぐに行くから。そんなに不安そうにしないでくれよ。離れにくくなっちまうだろ」
 新開は茶化して笑ったが荒北は最後まで笑うことができず、引き裂かれるような思いで箱根学園を卒業した。

 
6.
 2度目のインカレが終わっても荒北は実家に帰らず、静岡のアパートに残っていた。
 冷蔵庫に貼ったカレンダーに視線を投げてバイトのシフトをチェックする。数字を追う目が青ペンで丸く囲まれた日づけの上で留まった。
 高校卒業後も新開とのやり取りは変わらず続いていた。おかげで荒北は能力を上手くコントロールできるようになり、以前は週1回だった“治療”が今では月に1度程度に減っている。それにこの2年間で新しい発見もあった。新開の匂いがする物をそばに置いておけば症状の悪化を抑えることができるのだ。会うたびに匂いのする物を預かり、少しでも体調が怪しくなればそれを嗅いで精神を安定させる。使用目的は他にもあったが、それは新開には絶対に知られてはいけないものだった。
(あと2日か……)
 約束の日まであと2日。今回は新開が静岡へ来る予定になっている。顔を合わせるのはインカレ以来だが、今年の新開の成績はあまりいいものとはいえなかった。
 個人戦で上位入賞は果たしたが、タイムはかなり落ちていた。この1年間、表彰台にあがる機会も明らかに減っている。ふたりで会う日も治療しながらウトウトする時間が増えているし、そういえば顔色もあまりよくなかったかもしれない。
 学業と部活とバイトをこなし、土日になればロードレースの大会もある。荒北も同じような生活をしているが、ふたりに違いがあるとすれば新開は“与える側”ということだ。もしかしたら治療のたびに力を使用しなければならないガイドのほうが負担が大きいのかもしれない。
(……そっか。オレが無理させてんのか)
 携帯電話を掴んで発信履歴を開き、ある電話番号をタップする。数コールもせずに電話は繋がって、『やぁ靖友』と穏やかな声が響いた。
『おめさんから電話だなんて珍しいな。どうかした? 身体辛い?』
「いや……あのさァ、ちょっと話があんだけど。今いいか?」
『うん、いいよ。何?』
「オレ……いい加減こっちでガイド探そーかと思って。お前も前に言ってたろ。施設行きゃあ斡旋してもらえるからって」
『突然どうしたんだ? オレ、何かしたかな?』
「べつにそんなんじゃねェけど……。わざわざこっち来んのも大変だろ」
『いや? オレなら別になんでもないよ』
「嘘つくな。最近疲れてんだろ。大会の成績もよくねーし、タイムも落ちてる」
 電話の向こうで息をのむ音がした。数秒間の沈黙が流れた後に『たまたまだって。たまたま調子が悪いだけだよ』と明るい調子で新開が笑う。
「……オレのせいだろ」
『まさか。なんでここでおめさんのことが出てくるんだ?』
「オレんとこにわざわざ来てるし、ガイドとしての負担も相当あるはずだ」
『それは関係ない。負担なら靖友だって同じだろ? おめさんがこっちに来てくれるほうが多いんだし』
「お前はプロ選手になりてぇんだろ!? なら、こんなとこで止まってる場合じゃねぇだろーが」
『でも……』
「でもじゃねぇ。自転車しかねぇくせに、それがダメになっちまったらオメーに何が残んだヨ」
『自転車しかないって……あんまりじゃないか?』
「笑いごとじゃねェ。マジで言ってる。諦めてほしくねぇんだヨ、オレは」 
 荒北は無意識に右肘をさすっていた。夢を諦める辛さは荒北のほうが知っている。
「そもそもだ。契約もしてねーのにズルズル甘えちまって悪かったな。ホントなら契約料とか支払わなきゃなんねーのに」
『靖友……』
「なぁ新開……今までありがとナ。渡した鍵はテキトーに捨ててくれ」
『おい、ちょっと待ってく――
 一方的に通話を終了させ、新開の電話番号をすぐに着信拒否にした。
(これで……終わりだ)
 彼のスエットが目に入り、衝動的に掴んでゴミ袋まで持っていく。しかし指は服を握ったまま離そうとせず、力なく腕を下ろした荒北は唇を噛んで途方に暮れた。
 室内に吹き込んでくる風が涼しい。夏の終わりはすぐそこまで近づいていた。

 
***つづく***
 
次→『春に契る』(後編)

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