【新荒】そして新荒になる⑤+その後の彼ら

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高校3年のつき合っていない新荒です。
『そして新荒になる④』の続き。ラストになります。
2ページ目は各世界線のその後を書きました。おまけみたいな短い話です。

※久しぶりに連載形式で書いてみましたが、なかなか時間が作れなくて更新が遅くなりました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

8.
 どこか遠くでアラームが鳴っていた。音が近づいてくるにつれて意識が徐々に覚醒し、ぼんやりしていた手足の感覚がゆっくりと戻ってくる。起きなきゃなあと思い、まだ寝ていたいとも思う。ぬるま湯に似た布団の温もりが気持ちよくて、なかなか目を開ける気になれない。
(……そろそろ起きねぇと)
 意を決して身体を起こした新開は枕元に置いてあった携帯電話のアラームを止めた。時刻は午前5時半。いつもの朝練の時間だったが、ついでに見えた日付に目が留まった。驚くべきことに、訳がわからないままの状態で一週間が経過していた。
 ふと新開は自然に周囲を見回している自分に気がついて、「まいったな」と小さく笑った。覚醒したらまずは周りを確認――不本意な習慣が自然と身についてしまっている。
「……オレの部屋だ」
 少し欠けた照明のカバーも、右の隅だけほつれている枕カバーも、日に焼けたカーテンも、室内のすべてに見覚えがある。もしかしてと逸る気持ちを抑えつつ、朝練のために着替えを急ぐ。
 起床時刻前の薄暗い廊下は新開のお気に入りのひとつだった。普段は騒がしい寮内も早朝だけは嘘のように静まり返る。人影はなく、水底に似て音も少ない。5月末にもなると梅雨入りが近いせいか空気が湿り気を帯びていて、より一層水中にいるかのような気分にさせる。
 日の出の時刻はとっくにすぎているのに外はやけに薄暗かった。見上げた空は厚い雲に覆われていて、今にも雨を降らせてきそうな色をしている。山でも攻めてみようかと思っていたのだが、もしかしたら走っている最中に雨に打たれてしまうかもしれない。
(いや、やっぱり行こう。今日はなんだかキツい坂にチャレンジしたい)
 尻込みしたのはほんの数秒で、迷いはすぐに消えた。「よし」と気合を入れつつ部室横の自転車保管庫に向かう。
 保管庫の扉に手をかけると鍵はすでに開いていた。平日の早朝練習は強制ではなく、各自の判断に委ねられている。それでも大体の部員が朝練に出てくるので、自然と持ち回りの鍵当番ができていた。おそらくこの日の鍵当番が開けてくれたのだろう。部室から数名の談笑する声が聞こえてきた。
 数あるバイクハンガーの中から自分のロードバイクを探す。黒いサーヴェロはすぐに見つかったが、月曜日にかけたはずのハンガーとは違う場所にかけられていた。
  
『それじゃあ、こう考えたらどうだ? お前の本体も実は元の世界で存在してて、あちこち飛んでるオメーは生霊でしたってオチ』
 
「……まさかな」
 小説などの創作物は好きだが、オカルト全般、非現実的な類は信じていない。ロードバイクの件にしてもそうだ。本当はここにかけたのに、自分が覚え間違いをしているだけかもしれない。
(そういえば元の世界でのオレの存在はどうなってたんだ? 火曜日から消えてたはずだよな。行方不明扱いにされてんなら、もっと大ごとになってると思うんだけど、その気配もないし……いや、待てよ。もしかして……)
 思いついた仮説にゾッとした。途端に心拍数が跳ね上がり、手のひらに汗が滲みでてくる。
 今朝目覚めた場所は確かに自分の部屋だった。室内のすべての物に見覚えがあった。自分が存在した世界にようやく戻ってこれたのだと思った。だが、なんの確証も得られていない。
「とっ、とにかく走ろう……」
 これ以上その場に留まっていてはいけない気がして、慌ただしく出発準備に取りかかった。自信を失くしたせいか嫌な妄想がひっきりなしに頭をよぎっていく。
 見えているすべては虚像にすぎず、目が覚めたらまた知らない世界に飛ばされているのではないか。
 突然地面が割れて、暗闇の中に落ちてしまうのではないか。
 ぬかるみに足をとられるように、ずぶずぶと地中深くに引きずりこまれてしまうのではないか。
 勢いよくロードバイクにまたがった新開は、サドルに腰を下ろす余裕もなくペダルを踏んだ。戻ってきた実感が欲しかった。証拠が欲しかった。ここはお前の世界だと早く安心させてほしかった。
 ひと漕ぎするたびに早朝の澄んだ空気が身体を冷やす。緊張して高ぶる心臓がうるさい。耳を舐めていく風がうるさい。車輪の回る音がうるさい。過呼吸気味な呼吸音がうるさい。それでも新開は重苦しい妄想を振り払うように、とにかくペダルを踏んだ。
  
  
 もしかしたら、自分はまだ元の世界に戻れていないのかもしれない。
  
  
*
 ペダルを踏む足が重い。無茶な走りをしたせいで余計な負荷をかけてしまったのだろう。
 歯を食いしばってハンドルを握り、傾斜がきつい山道をひたすらのぼる。考える余裕もないほどの辛い練習がしたかった。頭の中を空にして、がむしゃらに風を切って走りたかった。
(戻っていなかったとしたら……)
 身体をどんなに痛めつけても不安が消えない。酷な妄想が次々に浮かんできて、両足をどんどん鈍らせていく。坂道を登っているはずなのに漕いでも漕いでも頂に辿り着けず、それどころか漕げばこぐほど後ろへ引きずられていくような気分だった。
 息も絶えだえの状態でようやく坂をのぼり切ると、運の悪いことに今度はポツポツと雨が降り始めた。すぐに止むだろうと思っていたが、予想に反して雨脚は次第に強くなっていく。目的地にしていた駐車場まではあと少し。どの世界でも建物や場所だけは変化がなかった。ここも同じならこの先の駐車場には雨をしのげる四阿があったはずだと、そのまま芦ノ湖方面へ前進することにした。
 山の中腹に造られた駐車場は眼下に芦ノ湖が見えるビュースポットになっている。ドライブコースの休憩場所として観光客が多いが、さすがにこの時間帯では誰もいない。靄がかかってしまう雨降りの早朝ならなおさらだった。
 新開が到着するころには雨は本降りになっていた。汗が流れてちょうどいいと楽観視するには無理があるほど全身がずぶ濡れになっている。
 雨を浴びながら四阿へ近づいていくと、屋根の下に停まっている1台のロードバイクが見えた。てっきり無人だと思っていたので人がいたことに驚いたが、ロードバイクの色を見てさらに驚いた。現在の天候とは真逆の意味を持つ色が新開の心臓を跳ねさせる。予期せぬ出会いに緊張がはしった。
 近づく気配を察知したのか、中にいた人物は声をかける前に振り向いた。新開を見て目を丸くし、ずぶ濡れの惨状に気づいて「何やってんだ」と呆れ顔になる。
「靖友もこっち来てたんだ。珍しいな」
「たまには山も登っとかねーと、カチューシャ野郎がうるせェからな」
「ハハ。尽八をそう呼ぶなんて、まるでいつもの靖友だ」
「あ?」
「いや……それにしても凄い雨だな。こんなに降るとは思わなかった」
「だな。ここ寄って正解だったぜ」
 荒北の右隣りに腰かけてヘルメットを取った。長袖のサイクルジャージを着てきたものの、雨に濡れたせいで身体が冷える。山の低い気温も相まって全身に悪寒がはしり、両腕で身体をさすってもさすがに寒い。
「おい、大丈夫かよ。つーかスッゲー濡れてっけど雨具はどうした。朝練行くヤツはゼッテー持ってけって、福ちゃんが昨日言ってたろ」
「寿一が? あー……そうだっけ?」
「そうだっけじゃねーよ。ったくしょうがねーなァ。コレ貸してやっから学校まで着とけ」
「え、いいよ。おめさんも寒いだろ?」
「オレはたいして濡れてねーからいい。オメーを見てるほうが寒くなるぜ」
 荒北は着ていたレインウエアを脱ぐと新開の腿の上に放り投げた。新開が遠慮して突き返しても受け取らず、「いいから着とけ」とそっぽを向く。
「じゃあ……ありがとよ、靖友」
「うっせ。これで風邪ひきやがったら許さねーからな」
「うん」
 もう一度「ありがとな」と礼を言ってレインウエアに袖を通す。寒さはだいぶマシになり、身体の震えもおさまった。
 金属屋根に弾ける雨音を聞きながら、雨に濡れた箱根を眺める。無言が続いても気まずさはなく、むしろ居心地がいいくらいだった。ここに来るまで抱えていた不安も忘れて、しばらくの間新開はぼんやりと景色を眺めていた。
「それにしても雨やまないな」
「サイアク雨ん中を走って帰るしかねーな。やむの待ってたらメシの時間に間に合わねェ」
「そうだな」
「もうちょいしたら行くかァ」
「ああ。でも、本当に着てていいのか? おめさんのほうが風邪ひきやす――
「いいっつってんだろ。オメーに風邪ひかれるよりマシだ。それに、オレは引いてもすぐ治る」
「靖友……本当に優しいなあ、おめさんは」
「は、はぁ? うるせーなァ!」
「何もうるさくないだろ。あ、もしかして照れてんの?」
「うっせ、黙れ! だーっとけ! 一生無言でいろ!」
 新開の肩を小突くと、荒北は身体を屈めて足元のドリンクボトルを掴んだ。照れ隠しのためか普段以上にオーバーな仕草でボトルを呷り、中身を勢いよく喉に流し始める。つられて新開も傍に停めた自転車のドリンクホルダーに手を伸ばしたが、掴んだボトルはすでに軽い。ここに来る途中ですべて飲み干してしまったことを思い出して、黙ってボトルを元に戻した。
「おい」
「ん?」
「ん」
 目も合わせずに荒北がドリンクボトルを差し出す。素直に受け取ると荒北の口角がわずかに上がったように見えた。
「なんだか今日は貰ってばっかりだな」
「あとで10倍にして返してくれんだろ?」
「10倍でいいのかい?」
「ハッ! 言うじゃねーか」
 ニッと笑った荒北が左手の甲で口をぬぐう。その左手に新開の目が吸い寄せられた。ほとんど袖で隠れているが、手首から袖の中に向かって最近できたようなかさぶたが続いている。先週荒北は部活中に落車して怪我をし、左手首から肘にかけて包帯を巻いていた。
(これがあのときの傷なら……)
 咄嗟に新開は荒北の手を掴んでいた。 
「うおっ!? 急になんだよ」
「ちょっと手の傷見せてくれ!」
「あ? コレェ?」
「かさぶた……」
「だいぶ治ってきたけど痒ィんだよナ」
「これって先週落車したときの?」
「だけどォ?」
 
『今週の12位はかに座のアナタ! 大変な一週間になりそうです。困ったときは目印になるものを見つけましょう。そうすれば最終的には解決するかも?』

「あ……もしかして」 
(これが目印……なのか?)
 目の前の傷跡をじっと見る。あまりにも嬉しいと身体が勝手に動いてしまうのか、考えるより先に新開は荒北に抱きついていた。
「な、なんだァ!?」
「……よかった」
「なっ、おい新開ッ! なんなんだよ!」
「ようやく会えたぜ」
「はぁ? ナニ言ってんだ。毎日顔合わしてンだろーが! つーか離せ!」
「もう少しこのままでいさせてくれ。今、ものすごく感動してるとこなんだ」
「っざけんな! 離せ! クソッ……てめェまたかよ!」
「イテッ! 頼むから暴れないでくれよ、っておめさん今『毎日』って言ったよな? オレと毎日会ってたのか?」
「あぁ!? そーだっつってんだろ! いいから離れろ!」
 豪快に脇腹をつねられてしまい、不意打ちの痛みに腕が緩む。隙を突いて腕を振り払った荒北は、逃げるのではなく、もの凄い勢いで新開の胸ぐらを掴んできた。
「何してくれてんだてめェ! 先週も好き勝手やりやがってよォ! もう許さねェ、我慢の限界だ!」
「お、落ち着いてくれ。くびっ、首締まってるから」
「うるせー黙れ! マジで許さねェ!」
「待ってくれ、おめさんの言ってることがわからない」
「はぁ!? てめェ本気で言ってンのか!? 急に人が変わったみてェになってたじゃねーか!」
「ん? 人が変わった? それでオレは何かしたのか?」
「なっ……!? 覚えてねェなんて言わせねーぞ! オメーに振り回されて先週は散々だったんだからな!」
 レインウエアを握りしめる手が小刻みに震えている。こんなにも激しい怒りをぶつけられたのは初めてだった。あまりの剣幕に戸惑いつつも頭の中にはいくつかの疑問点が浮かんでいる。申し訳ないが荒北をなだめるのは後回しにして、新開はまず先に確認しておくべきことを問いかけた。
「靖友、これだけ聞かせてくれ。オレは先週もおめさんと会ってたんだな?」
「あァ? だけどォ?」
「月曜だけじゃなく、ちゃんと毎日?」
「しつけェ! だからそう言ってんだろ!」
「やっばいな、訳がわからなくなってきた」
「ざっけんな、それはこっちのセリフだっつーの! あんなことしといて今更シラ切るつもりか? てめェいい加減にしろよ!?」
「あんなことって……ちょっと怖いけど、具体的に訊いても?」
「なっ……ハァ!? お前ッ……! オレに訊くか!?」
 荒北にとっては予想外の質問だったらしく、信じられないと言いたげな顔で彼が目を見開いた。その表情のまま固まって、言葉を失くした唇だけがわずかに引きつって動いている。
「頼むよ靖友。な?」
「む……無理……」
「無理? どうして」
「どーしてもだ! 無理なもんは無理なんだよ!」
「オレが何かしたんだろ? 何が気に障ったのか教えてくれよ」
 いつの間にか立場が逆転していた。胸ぐらを掴んでいるのは荒北なのに、実際は新開が主導権を握り始めている。
「靖友」
 荒北の目を覗き込むと露骨に視線を逸らされて、その態度に新開は確かな手ごたえを感じ取った。もう少し押せば応えてくれる――そう確信して「頼むよ」と迫ってみると荒北は根負けした顔で舌打ちし、ため息交じりに「わーったよ」と呟いた。
「先に言っとくけど、べつに気に障ったんじゃねェからな。急すぎてビビっただけだ。勘違いすンじゃねーぞ」
「ああ。わかった。それで具体的には?」
「ぐ、具体的にってオメー……それは、その……」
「その?」
「……全部言えってのか?」
「全部? よくわかんねぇけど、それじゃあ全部で頼むよ」
「ハァ!? てめェがやったくせにオレに全部言わせンのかよ!?」
「聞かせてくれるんだろ?」
「……クソッ、こうなりゃヤケだ……ぐ、具体的ってのはだなァ、オメーがいきなり……とかァ……」
「なに? 雨音でよく聞こえない」
「なっ……!? だっ、だからァ! いきなり抱き着いてきたこととか、手ェ繋ごうとしてきたこととか、ふたりっきりンなったらキッ、キッ、キ……キスしようとしてきたこととか、とにかくそういうのを言ってんだヨ! 振り回されっぱなしで散々だったんだからな! あんなん、つ……つき合ってるみてェじゃねーか!」
 雨音にも負けない大きな声が周囲に響く。自分の声にハッとした様子で荒北は素早い動きで辺りを見回した。無人を確認してホッとしたのか、気まずそうにゴホンと咳払いしてから手を離す。
「ええと……キス、って言ったよな?」
「うるせー、復唱すんな! 思い出すからやめろ! いいか、あんなバカな真似は二度とすんじゃねーぞ!?」
「ちょっと待ってくれ。おめさんキスしたのか!?」
「はぁ!? してねーよ! つーか仕掛けてきたのはそっちだろ!?」
「ほんとにしてないんだな!?」
「してねーって! なんなんださっきから……ったく、調子狂うぜ」
 ブツブツと文句を言いながら荒北がベンチに座り直す。右足首を左膝に乗せて足を組み、太腿に頬杖をついてそっぽを向いた。顔の角度と、顔の右半分を覆う手のひらのせいで彼の表情はわからない。荒北も敢えてそれを狙ったのかもしれない。しかし、丸見えになっている赤いうなじが彼の心境のすべてを物語っているように見えた。うなじだけではない。首元も、耳たぶも、その延長にある頬っぺたも、見える範囲の肌が赤い。願望と自惚れかもしれないが、怒りや寒さとはまた違った種類の赤に見えた。
 雨に濡れてへたった髪の毛。色が変わった首筋。少しずつ揺れ始めている左足。見つめる視線に気づいているはずなのに、荒北は雨を眺めるばかりでこっちを見ない。
(なあ、靖友。今どんな顔してる? どんな気持ちでいるんだ? オレはドキドキして心臓が潰れそうだよ。おめさんもオレと同じだったらいいのに)
   
『いや、そっちのオレも充分オメーに惚れてると思うぜ』
『メンドクセーのにわざわざそうしてるってことはだなァ、惚れてますって言ってるようなもんなんだヨ』
『オレのことはオレが一番よくわかってる。間違いねェって!』
  
(信じていいんだよな? 靖友)
「靖友」
 名前を呼ぶと荒北の肩が大袈裟なほどビクッと揺れた。しかし、すぐに振り返るのではなく、数秒間の沈黙の後に首だけ動かして「……なんだよ」と新開を見る。
 そっけなく振舞っているものの彼の瞳だけは実に正直だった。これまでに出会ってきた荒北たちが彼と同じ目をしていた。そして、今の新開もまた同じ目をして荒北を見ている。
「……おめさんを見てると苦しくなるよ。見つめれば見つめるほど心臓がバカになっちまうみたいで、いつものペースが保てなくなってすげえ苦しい……でも、だからと言って目を逸らすつもりはさらさらない」
 にじり寄って距離を詰めると、その分荒北が横に逃げる。ベンチの端まで追い込んだところで、瞬きも忘れている瞳を正面から見つめた。
「靖友のいろんな表情を見てみたい。オレだけが知るおめさんが欲しいんだ」
「え……なっ、ハァ!?」
「勘違いなら笑ってくれ。いや、一発殴ってくれても構わない。おめさん、オレのことが好きだよな?」
「……え、えっ!? おまっ、え? なんっ、で……!?」
「違う? いや、違わないよな。おめさんの目はオレと同じだ」
「え? 目ェ?」
「……恋してるって目」
「こっ、恋!? ちょ、ちょっと待て! わけわかんねーぞお前、急にどうした!?」
「答えてくれ。好きだよな、オレのこと」
「なっ、えッ、はぁ!?」
「好きだよな?」
 強引に迫ったせいか、それともパニックになった末か。狼狽えながらも荒北は1回だけ首をぎこちなく縦に振った。それを見届けた瞬間に張っていた気が緩んでしまい、新開の口から思わず「よかった」と安堵のため息が漏れた。
「よかったって……ハァ!? こっちはなんもよくねーんだけど!? てめェ、なんてことさせんだよ!」
 怒っているのに今にも泣き出しそうな複雑な表情で荒北が睨みつけてくる。そのすべてが初めてで、新鮮で、嬉しくて、怒られてもなお愛おしさすら抱いてしまった。
「好きだ、靖友。おめさんが好きなんだ」
 荒北の膝の上で固く握られている拳を手に取る。
「指、握りすぎて色変わってるぜ」
「そっ、そんなんてめェのせいだろ!?」
「うん。オレのせいだな。なあ靖友。これからもオレのせいでたくさん狼狽えてくれよ。色んな顔をオレだけに見せてくれ」
 駄目かな、と悲しげに眉をひそめてみせると荒北は唾を飲み込んでむせた。
「大丈夫か、靖友?」
「……お、オメーなぁ、全部が急すぎなンだよ。いっぺんに言われても、頭ん中がパンクしてて追いつかねェ」
「悪い。好きだって自覚したばっかりで、色々とセーブできないんだ。ひとりで盛り上がっちまってるのもわかってる。でも、どうしても手に入れたいんだよ。狙った獲物は仕留める。それがスプリンターの、いや、オレの性分なんでね」
 固く握られていた拳が新開の手の中でフッとほどけた。なぜか荒北は突然余裕を取り戻して、「なんだよ」と小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「自覚したばっかりだァ? ハッ! んなヒヨッコチャンにゃ負けらんねーなァ。オレのが歴は長ェんだ。好き勝手言われたままでいられっかヨ」
 再び胸ぐらを掴まれた。呆気に取られているうちに荒北の顔がどんどん間近に迫ってくる。ムードも、心の準備も、目を閉じる余裕すらなく唇が重なって、あっという間に離れていった。
「……い、まの」
「やられっぱなしは癪だから先にしてやったぜ。ザマァミロ」
「も、もう一回! 今のは短すぎてわかんなかった!」
 荒北の肩を掴んで身体を押さえ、強引に顔を寄せる。しかし、大型トラックのエンジン音が近づいてきたせいで二度目のキスは叶わなかった。しょぼくれる新開を荒北がからかい、新開がムッとすると今度は慰めるように手を握る。普段通りなように見えて荒北も緊張しているらしく、絡ませてくる指は少しだけ震えていた。それでも、繋いだ指先は体温が溶け合って温かい。
「……あっちのオレたちも無事に繋げたかな」
「あ? なんか言ったか?」
「さあ? 気のせいじゃないか?」
「フーン? あっそ」
「雨もやんできたし、そろそろ寮に戻ろうぜ。飯の時間になっちまう」
「だなァ。メシの前にシャワー浴びてェ」
 帰ろうと言う割りにはどちらも立ち上がろうとせず、手も離そうとしなかった。離れがたい気持ちだけがどんどん積もり、相手の指をぎゅっ、ぎゅっと何度も握る。
「……いい加減戻らないと」
「……だなァ」
 駐車場に車が増え始めるとようやくふたりの手が離れた。焦ることはない、時間ならこれからまだまだたっぷりある――そうわかっていても、一時的とはいえ離れてしまうのはやっぱり切ない。
「靖友、これからよろしくな」
 よろしくの中に『恋人として』の意味を込める。敢えて言葉にしなかったが荒北はちゃんと汲み取ってくれたらしい。「……ヨロシク」と応えた彼の表情は今までにないほど柔らかくて甘かった。
  
 
**
「今週の12位はやぎ座のあなた! 恋愛運が急降下です。意中の相手とすれ違いの一週間になりそう。恋人がいるひとは大喧嘩に気をつけて! だって」
「サイアクー! 彼と別れたらどうしよー!」
「赤い下着がラッキーアイテムらしいよ」
「マジで!? って持ってないし! ねぇ、今日買いに行こ? 放課後つき合って! ね? お願い!」
 赤い下着という単語に反応して顔を上げると、前の席に集まっていた女子たちと目が合った。新開が顔を上げた理由を彼女らが知るはずもなく、「新開くんも占い聞きたい?」とにっこり笑う。
「今週のかに座はねー、告白す――
「おい、新開。メシ行くぞ、メシィ」
 新開を呼ぶ声が教室内に響く。声がしたほうを見ると、クラス中の視線を一身に浴びて戸惑っている荒北が教室の入り口に立っていた。
「靖友!」
 ブンブンと手を振って立ち上がる新開に、荒北が「行くぞ」と顎をしゃくって合図する。
「新開くん、占いはー?」
「ごめん、今は遠慮しとくよ。ありがとな」
「そう? いつでも教えるから気が向いたら言ってね。じゃ、お昼行ってらっしゃーい」
 軽く手を上げて応え、荒北の背中を小走りで追いかける。
「昼飯は何にする? 食堂?」
「いや、中庭行きてェから購買でなんか買おうぜ」
「中庭? 曇ってるけど大丈夫か? この天気じゃ誰もいない――
 そこまで言って荒北の意図にようやく気がつく。「なるほど」とニヤリと笑うと、「うるせーんだよ」と緩いヘッドロックをお見舞いされた。そのままどさくさに紛れて肩を組まれて、のしかかってくる体重と間近にある荒北の横顔にドキドキが止まらなくなる。これまではなんともなかったじゃれ合いが嬉しくて恥ずかしくてたまらず、にやけっぱなしの顔をどうにか引き締めようとしてもそれは無駄な抵抗だった。
「なにニヤついてんだヨ」
「おめさんこそ笑ってるぜ?」
「……うっせ。しょうがねーだろ」
「オレだっておんなじだ。こればっかりはしょうがない」
「真似すんじゃねーヨ」
「そっちもな」
 キリがない言い合いに顔を見合わせる。にやけ顔はどっちもどっちだと、結局にやけたままで購買へ急いだ。
 
 

「ん? ねーねー、これ見て。ここ。これとこれ、似てない?」
「なになに? ええと、『おひつじ座は恋愛運が急上昇! これまでの想いが報われます。あなたの頑張り次第でキスのチャンスも……♡ ラッキーアイテムは雨とベンチ』『かに座は告白するのにいい時期です。あなたが一歩踏み出すことで、ふたりの関係がガラッと変わる予感。あなたの頑張り次第でキスのチャンスも……♡ ラッキーアイテムは雨とベンチ』ほんとだ。同じこと書いてある。って、ただの誤植なんじゃないの?」
「やっぱそうかなぁ。あ、この服可愛くない?」
「めちゃくちゃカワイー♡ 下着買うんなら服も見にいこーよ」
「いこいこ♡ 服って言えば昨日さぁ――
 

***END***

-ペダル:新荒
-, , ,

int(1) int(2)