【新荒】10÷2の行方【2020新誕・〇〇しないと出られない部屋】

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・別れ話をしたアラサー新荒が『相手のことを忘れる薬』を飲んだ後の話。ハッピーエンドです。【R-18】
・携帯電話の設定で画像表示OFFにされている方はONにして読んでくださると嬉しいです。

★新開さんHAPPY BIRTHDAY!!!!!!★
・リクエストしていただいた『相手のことを一つずつ忘れていく薬を10本飲んだら出られる部屋』です。いただいてから時間が経ってしまいましたが、送って下さった方々に届きますように!リクエストありがとうございました! 
・指輪の画像はフリー素材サイト様からお借りしています。

 
1.
 2019年も公私ともに芳しくない状況が続いていた。仕事面では長引く怪我の影響により戦績もランキングも低迷中。プライベートでは前回のデートがいつだったかすら覚えていない。
 仕事と恋愛のどちらかを切り捨てるなら、当然ながら選ぶものは仕事だった。今こそ選択すべき時なのではと思い始めていた矢先、「今後について話さないか」と持ちかけてきたのは新開だった。
(今後について、ねェ……)
 その言葉が何を意味しているのか荒北はすでにわかっている。
 昨年末に大怪我を負った新開も復帰以降はずいぶん苦労していると噂に聞いている。スプリンターとしての満足な仕事ができず、最近ではチームレースにもほぼ参加できていないらしい。
 梅雨冷えが続く6月末。久しぶりに家を訪ねてきた新開は、彼の家にあった荒北の荷物を持っていた。仕事か恋愛かの二択に於いて新開もまた仕事を選ぶ側の男なのだ。
「これからの話なんだけど」
 新開の口から出たものは予期した通りの別れ話だった。ただそれはネガティブな理由ではなく、互いの今後を思ってという実に新開らしいものだった。
「おめさんには精神的に甘えちまうからな。離れてみたいんだ」
「……オレも似たような事考えてたぜ」
「うん……だよな」
 新開が少しばかり残念そうな顔で微笑む。その表情につられたのか、荒北もなんだか悲しくなってきた。
 ふたりは高校3年の終わりに関係を持ち始め、くっついた離れたりを繰り返して、なんだかんだと8年も続いてきた。ここ1、2年はろくに顔を合わせてもいないし連絡すら取っていない。それでも彼に対しての特別な情はちゃんとある。これまでの年月を思うと寂しさや愛惜、新開への執着、別れることへの躊躇がじわじわと湧いてくるのもまた事実で、喧嘩別れならどれだけ楽だったかと思ってしまう。
 しかし、ここで別れ話を無かった事にしても付き合い方が劇的に好転するわけでもない。そうできるならすでにそうしているし、できなかったからこそ今別れ話をする羽目になっている。例え今日をきっかけにやり直したとしても、ごく近い未来に別れ話を繰り返すに違いない。
「そんじゃーキリいいし、今日で最後にするか?」
 思い切って口にしてみると新開が弾かれたように顔を上げた。厚い唇が何か言おうとして開きかけ、結局は何も言わずにまた閉じる。呑み込まれた言葉が何だったのか気にならないと言えば嘘になるが、敢えて荒北も何も訊かない。こうして互いをしっかり見るのはいつぶりだろうかと、そんなことを考えていた。
(それすらわかんねーって、やっぱ普通じゃねーわ。こんなん付き合ってる意味ねェな)
 どのくらいかもわからないほど時間が流れた後で、「……靖友は今日が最後でいいの?」とようやく新開が返事をした。
「おう。そのつもりだったしナ」
「……そうか」
 新開の目に非難の色が浮かぶ。8年以上もの付き合いをこんなにもあっさり終わらせるのかと、そう言いたげな目をしていた。もしかしたら彼は一時的に距離を置きたいだけなのかもしれない。けれど、それで解決するような時期はとっくに過ぎてしまっている。
「なんだその顔は。そっちも終わらせる気で来たんじゃねーのかよ」
「そうなんだけど……簡単には気持ちが整理できなくてね…………もう少しだけ待ってくれってのは往生際が悪いよな」
「だな」
 荒北のつれない返事に新開がため息をついた。「そうか」と呟いて切なげに顔を歪める。
(なんだよ、オレだけ悪りぃみてェな顔すんじゃねーよ。別れるかって先に言い出したのはそっちだろーが)
 別れを告げられた側がなぜ罪悪感を抱かなければならないのか、いまいち釈然としない。にもかかわらず、この期に及んで新開への“情”が働いてしまった。
「……まぁ、あれだ。今だってほぼ会ってねぇし、もう別れてるようなもんだろ。だから最後がいつになっても結果は同じだ。タイミングはそっちに任せっから、別れるって決めたらメールでも送ってくれ」
「……メールで?」
「べっ、べつにそこは拘ってねーよ。好きにすりゃいーだろ」
「……わかった。ありがとな」
 ほっとしたような表情を見て荒北も何となくほっとした。しかし、それではダメだとすぐに自分に言い聞かせる。別れる気でいたくせに最後を曖昧にした自分に腹が立ったが、すでに委ねてしまったのだから仕方がない。
 結局この日は別れるという意思を確認しあっただけで終わり、新開は荒北の家にあった自分の荷物を持って帰った。会う時間が目に見えて減っていたせいか、互いの私物は小さめの鞄一つで済む程度しかなかった。どちらかの家に入り浸っていた数年前が今となっては懐かしく思えてくる。
 一度だけ同棲まがいのことも経験した。だが、新開のチーム移籍と地方への引っ越しを機に約半年間の同棲ごっこは解消された。それからはすれ違いが多くなり、会えない時間が愛よりも溝を深めて、ふたりの関係性が穏やかに悪化しつつ今日へと至る。
「クソッ……またか」
 テレビを見ていたはずなのに気がつけば別の事を考えている。それに気づいたの荒北は自分自身に舌打ちした。
 いつからか荒北はあることを考えるようになっていた。
 もし、高校時代に戻れたとしたら。新開の告白に応えていなければ、今とは違う結末に辿り着けるのだろうか。
 考えても仕方がないし意味がないのに、この妄想はいつまでたっても頭の中から離れてくれない。そして辿り着く結論はいつも同じで、例え過去に戻ったとしても、新開が告白してこなかったとしても、自分の方から新開に告白するのだろうというものだった。
「って、過去に戻るとかあり得ねェけど」
 久しぶりに顔を合わせたからか、それとも別れ話が原因か、やけに感傷的な気分になっていた。このまま起きていても碌なことにならないと判断した荒北は、「寝るかァ」と誰に言うでもなく声を張ってベッドにダイブした。弾む視界の隅で何かが崩れる。顔を上げてみるとそれらは新開が持ってきた荒北の服だった。なんとなく手繰り寄せてみれば新開の部屋の匂いがふわりと香る。
「っ……!」
 懐かしい匂いに胸が詰まる。崩れた服の山はそのままにして一番上にあった服を掴むと、荒北は胸の痛みを受け止めながら目を閉じた。
 

2.
 パンッ、という小さな破裂音で意識が宿った。目が覚めたのかと思いきやそうでもない。荒北は知らない場所に立っていた。
 そこは白い部屋だった。
 白い壁に、白い木枠の窓。白いカーテンが風にそよいで揺れているが、よく見たら窓は開いていない。窓の向こうには白い空が広がっていて、白い雲がゆったりと流れている。すべてが白い景色だが、あの白は空、あの白は雲というように脳がきちんと判別しているのも不思議だった。
「あれ……靖友?」
 声に驚いて振り向くと、いつの間にか新開が立っていた。
「……よォ」
「急にいたからびっくりしたよ。さすがは夢だな」
「夢ェ? そっか、夢か。そりゃそーだよな」
 夢だと言われて簡単に納得がいった。白い部屋は実際に存在するかもしれないが、全部が白い景色というのはどう考えても現実的ではない。
 周囲を見回していると、新開の後ろ、部屋の中心あたりに白いテーブルが音も無く現れた。「なんだァ?」と訝しむ荒北の視線を追って新開も自分の後ろを振り返る。
「テーブル……また突然現れたな」
 テーブルの高さはふたりの腰ほどで、天板には赤褐色の小瓶が10本並んでいた。瓶の大きさは10センチ程度だろうか。蓋は簡易的なコルク栓のみで、ラベルは無い。そして、瓶の前には1枚の白い封筒が置かれていた。
「なんだコレ」
 テーブルに近づいた荒北は小瓶を躊躇なく持ち上げた。天井から垂れさがる白いペンダントライトに翳してみれば、無色に見える液体が瓶の中で揺れた。
「……なんか入ってんな」
 同じように瓶を手に取った新開は鼻先に近づけて匂いを嗅ぎ、「匂いは無いな」と机の上にそっと戻した。
「栄養ドリンク……でもなさそうだな」
「なあ、もしかしてアレじゃねーか? 『飲んだら身体が火照って~♡』みてェなヤツ」
 軽いノリで茶化してみたが新開は乗ってこない。わずかに眉根を寄せて呆れ顔で小さなため息をついた。
「……おめさんが好きな企画ものじゃないんだから」
「うるせー。人の趣味にケチつけんじゃねェ。アレはアレで浪漫があるんだよ、浪漫がァ。つーかそっちだって時間停止ものとか好きじゃねーかヨ。いかにもやらせですってヤツが」
「あれはあれで浪漫があるんだよ。ってそれは置いといてコイツはどうする?」
 新開が白い封筒をつまんで見せる。
「封はされて無いみたいだ。開けてみる?」
 荒北が頷いて答えると新開は封筒の中から二つ折りにされた便箋を取り出した。何か書いてあるらしく、彼の瞳が左右に動く。
「何だってェ?」
「…………その小瓶、やっぱり飲むみたいだな」
「飲むゥ? 何が書いてあんだよ」
「瓶の中身を飲み干さないと、ここから出られないってさ」
「は? 出られねェ? どういうことだァ?」
 新開は再び便箋に目線を落として、書いてあったものを荒北に読んで聞かせた。
 

【この部屋から出るには、10本のドリンクをすべて飲み干さなければなりません】
【1:ドリンクの安全は保証されています】
【2:1本飲むごとに“何か”1つを忘れます】
【3:10本すべて飲み干した時点で相手のことは完全に忘れてしまいます】
【4:部屋を出ると同時にここでの記憶もすべて失います】

 

「だってさ」
「はァ!? マジかよ。なんかのイタズラとかドッキリじゃねーの?」
「でもここには入り口がないんだぜ? 誰かの悪戯だとしても、そもそもオレたちはどうやって中に入ったんだ?」
 新開が周りを見回してから荒北に視線を投げる。
「んなもん知るか。どーせ夢だろ、夢ェ」
「ふたり同時に? 同じ夢見てるって?」
「あぁ? 最初に夢って言い出したのはてめェだろーが。それに、これはオレの夢だ」
「いや、オレが見てる夢だよ」
 言い合いながら2人同時に顔を見合わせる。夢だという認識は同じだが、ふたりともが同じ夢を見ているだなんてあり得ない。荒北も新開もそんな顔をしていた。
「……まあ、どっちの夢でもいいんだけど問題はコイツだな。“何かを忘れる薬”か」
「どう考えてもやべェだろ」
「そう? ちょっとおもしろそうじゃないか?」
「はぁ? どこがだヨ。こんな得体の知れねェもんなんか飲んでみろ。腹下して地獄だぞ」
「その時はその時さ。それにほら、『忘れる薬』だなんて今のオレたちにはぴったりだろ」
 昼間の別れ話を暗に仄めかしているのか、新開が自嘲気味に薄く笑う。ふと荒北はここに居る新開は夢の産物などではなく、本物の新開隼人なのかもしれないと思った。だが、それを訊いたところで「本物だよ」としか言わないだろうし、それすらも荒北の夢かもしれないので結局言葉にしなかった。
「一生ここにいる気もねーし、目ェ覚める気配もねーし……どうなるかわかんねーけど試しにやってみるか」
 どうする、と目で訴える。新開は素直に頷いて、「10本……どうやって分ける?」と瓶と荒北を交互に見た。
「んなもん決まってる。平等に半分ずつだ。異論はねェな?」
「そうだな。公平にいこう」
「そんじゃー……」
 5本ずつに分けようとして荒北が手を伸ばすと、新開がそれを遮った。
「あ? なんだよ」 
「……靖友は……オレとやり直せたらって一度でも思ったことある?」
 このタイミングで何を言い出すのだろう。思いがけない質問に一瞬だけ思考が止まった。素直に答えるべきか、嘘をついてごまかすか、返答できないまま時間だけが過ぎていく。しかし、『無い』と即答できなかった時点ですでに答えたようなものだ。それに気づいた荒北は「……そりゃーな」と正直に答えた。
「うん。オレも。これ飲んでお互いのことを忘れちまってさ、次に出会ってまた好きになったとしたら……そうしたら今度こそ上手くいくといいな」
「ハッ! なんだそりゃ。やけに感傷的じゃねーか。けど……オレもそう思うぜ」
 それじゃあ、と1本目の小瓶を手に取る。コルク栓をつまんで引っ張ると簡単に蓋が外れた。口をつける前に小瓶を嗅いでみたがやっぱり匂いはない。
「どう靖友、いける?」
「ハッ! ここまできて迷うかヨ」
 本当はまだ躊躇していた。
 これを1本飲むごとに何か1つを忘れるという。忘れるものが何なのか、どうやって忘れるのか、本当に身体に害は無いのか、疑問点はたくさんある。だが、怖気付いたと思われるのも癪にさわるので荒北は一思いに中身を呷った。
「靖友!? そんな一気に飲んで大丈夫か?」
 驚く新開を尻目にゴクッと喉を鳴らして唇を手の甲で拭う。味わう間もなく飲み下してしまったが、口の中にはなんの味も残っていない。
「……どう?」
「特には。つーか何の味もしねェ」
「そうか」
 荒北を見て覚悟を決めたらしい。新開も1本目に口をつけて一気に飲み干した。
「ほんとだ。後味もない。なんだろうな、コレ」
「さあな。んじゃー、どんどんいくぞ」
 それからは2人とも無言で瓶を開けて片っ端から飲み干していった。瓶の中身はすべて無味無臭。飲んでいる最中も、飲み終えてからも、身体の変化は何も無い。
「やっぱただのハッタリとか嘘なんじゃねーの? そのうち『ただの水でしたー』とか書いてある紙でも出てくんじゃね?」
「……だといいんだけど。よくわからないな」
 首を捻った新開が何かに気づいた顔で目をわずかに見開いた。そして「とりあえずここからは出られるみたいだぜ」と荒北の背後を指差す。窓があったはずの場所に出口らしき扉が出現していた。
「……さっきまで窓だったよなァ?」
「夢だからな。なんでも有りさ。それじゃあ出ようか」
 新開に促されてふたり一緒に扉に近づく。ドアノブに手をかけた新開が扉を開ける前に荒北を見た。
「これで終わりか……開けたら目が覚めるのかな」
「わかんねーぞ。出たら今度は真っ黒い部屋だったりしてェ」
「で、またあの薬が並んでるのか。期待させた割には何の効果も無かったな」
「ハッ! 腹下してねーだけマシだと思え」
「それはこれからかもしれないぜ?」
「オメーなぁ、縁起でもねーこと言うンじゃねーよ」
 遠慮がいらない会話は学生時代を彷彿とさせる。内容は奇怪だったが、例え夢でも久しぶりに新開に会えた事だけは単純に嬉しかった。
「んじゃー帰ろうぜ」
 荒北は満足して部屋を後にした。
 
 しかしながら2人が気づいていないだけで変化はすでに起きていた。
 
 1本目。荒北は『誕生日』を忘れ、新開は『告白の返事』を忘れた。
 2本目。荒北は『見つめる瞳』を忘れ、新開は『繋いだ手』を忘れた。
 3本目。荒北は『セックス』を忘れ、新開は『キス』を忘れた。
 4本目。荒北は『デート』を忘れ、新開は『別れ話』を忘れた。
 5本目。荒北は『付き合っていた相手』を忘れ、新開は『付き合っていた事実』を忘れた。
 

*
 目が覚めた荒北は自分が置かれている状況に困惑していた。なぜか自分のTシャツを両手でしっかり握り締めていて、その服には覚えのない匂いがついている。どこかで嗅いだような気もするが記憶を辿ってみても思い出せない。
「だめだ、わかんねェ! 知ってる気ィすんだけどナァ」
 諦めて身体を起こすと布団の上にも服がいくつか散らばっていた。好奇心で匂いを嗅いでみれば、それらにも謎の匂いがついている。
「……なんだコレ」
 眠気が一気に吹き飛んで、瞬時に冷静さが戻ってきた。意味がわからないものは気味が悪い。荒北は散らばっている服を掻き集めると、脇目も振らず浴室へ向かい乱暴に洗濯機に突っ込んだ。
 

3.
 年単位で不調だった荒北の個人成績は、ある日突然嘘のように回復し始めた。
 頭は冴え、足はよく動き、集中力も冷静さもスランプ前より研ぎ澄まされている。そして何よりも驚いたのは、ずっと感じていた“精神的な枷”が知らぬ間に外れていたことだった。
 2020年も引き続き好調で、シーズン序盤から個人戦でもチーム戦でも活躍が目立った。その甲斐あって来季以降の契約延長が決定し、達成感や安堵と共にシーズンを終えた。しかし、昨年から引きずっている“何か足りないような感覚”だけはいつまでも残っていた。
 箱根学園自転車競技部のOB会は年に2回、毎年同じ日に開かれる。ロードレース のシーズン中である5月と、シーズンオフに入っている11月。それぞれ第4金曜日が開催日だった。5月はかつての仲間が出場しているレースの話題で盛り上がり、11月はプロの道に進んだOBたちの参加で賑やかになる。荒北もプロ選手になってからは11月の参加がほとんどだったが、ここ数年は飲み会に参加する精神的余裕などあるはずもなく、今回は実に4年ぶりの参加となった。
 2020年11月27日、小田原市内に建つ居酒屋の一室。参加者の中に柔和なあの顔を見つけて、荒北の心が密かに震えた。途端に懐かしくて甘酸っぱい青春の記憶が溢れ出してきて、胸の辺りをやんわりと締めつけてくる。学生時代に封印した想いは心の奥底にまだ深々と根付いていた。顔を見れば微熱を宿して疼き出し、そのたびに彼のことがまだ好きなのだと思い知らされる。
「よォ新開。久しぶりじゃねーか」
「やあ、靖友。元気そうだな」
「おう。そっちもな」
 同じプロ選手でも所属するチームが別だったり、出場する大会が違ったりすれば顔を合わせる機会は滅多にない。それでも新開は変わらない笑顔で迎えてくれて、なぜかそれが荒北をひどく安心させた。
 乾杯した後は日常話や互いの近況を肴にして酒を飲んだ。アルコールが進むにつれて思い出話にも花が咲き、気分は学生時代まで戻っていく。自転車について熱っぽく語る様は高校時代の新開そのもので、荒北は相槌を打ちながら微笑ましく眺めていた。
「そういやオメーも不調だったらしいな。少しは調子上がったかヨ」
 荒北同様に新開も成績不振が続いていると風の噂で聞いている。しかし、目の前にいる新開は少し前までスランプだったとは思えないほど朗らかに笑っている。
「もってことは、おめさんも?」
「ちょっと前までな。今は絶好調だぜ」
「今はって、もうシーズンオフだろ」
 プッと小さく吹き出して、新開の眉尻がわずかに下がる。『何馬鹿なこと言ってんだよ』が含まれたこの笑い方は荒北が好ましいと思っている部分の一つだった。
「オレも今は調子いいんだ。来シーズンは期待してくれよな」
「誰が敵に期待するかヨ。あーあ、っだよ調子いいのかよ」
「ああ。残念ながらな」
「調子上げるためになんかやったわけェ?」
 今後の参考までに訊いてみたのだが彼の返事は参考にはなるようなものではなく、むしろ妙に引っかかる何かを荒北の中に残した。
「それが、コレっていうものがなくてね。ほら、“憑物が落ちる”って言うだろ? 本当にそんな感じなんだ」
 とある時期を境に突然スランプを脱したのだと新開が言う。彼の話を聞けば聞くほど、荒北とそっくりな経験をしていることがわかってきた。
「って、こんなんじゃ伝わらないよな」
「いや……わかるぜ。オレもそんな感じだったからナ」
「ん? 靖友も?」
「おー。急に全部が上手く行き始めた、みてーな? 自分の中で何かが変わったんだよ。ガラッとな。何が変わったかはわかんねーけど。ただ……」
「ただ?」
「……なんか足りねェってのがずっと残ってる」
 だし巻き卵を頬張っていた新開が大きく目を見開いた。急いで咀嚼してビールで飲み下し、「オレも何か大事なものを忘れてるって感覚が抜けないんだ」と興奮気味に言う。
「なんだか似てるな、オレたち」
「だなァ。気味ワリィくらいな」
「気味悪い? ひどいなぁ。そこは『一緒で嬉しい』くらい言ってくれよ」
「はぁ? 誰が言うかよ」
「相変わらずつれないな、おめさんは。オレは喜んだのに」
「へーへー、悪かったナァ。オメーにだけつれなくてェ」
「え、オレにだけ? 嘘だろ?」
「さぁな」
 表面上は楽しげに軽口を交わしていたが荒北は薄ら寒いものを感じていた。
 似たような時期にスランプだった他人同士が、ある時期を境に突然復調に向かい始めた。きっかけは不明。理由も不明。何かが足りないという喪失感だけがいつまでも消えずに残っている――。偶然とは言え、ここまで揃うものだろうか。
 ふと荒北は例の謎の匂いを嗅いだ時のことを思い出してしまった。寒くもないのにジョッキを握る手に鳥肌が立つ。荒北は乱暴に腕をこすると、嫌な記憶を流すようにしてビールをゴクゴクと飲み干した。
 小さな、けれど妙に引っかかる違和感は他にもあった。
 まずは誕生日について。高校卒業からそろそろ10年だという話になり、その流れで誕生日の話題になった。
「靖友と寿一ってほぼ1年差があるんだよな。同学年の中で靖友が一番年上ってのは違和感あったなぁ」
「うっせ。生まれちまったんだから仕方ねーだろ」
「別に何も言ってないよ。驚いたってだけのことさ。驚いたっていえば原型が無くなったアイスケーキだな。懐かしいなあ。おめさんが買ってきてくれたんだっけ」
「あ? アイスケーキ? そんなんあったか?」
「なんだよ、忘れちまったのか? 大学1年のとき、オレの誕生日に買ってきてくれたやつだぜ?」
「お前の誕生日……ちょっと待て。お前、誕生日っていつだ?」
「……おめさん、ふざけてる? それとももう酔っぱらったのかい? オレの誕生日は7月だよ。7月15日。暑いときに生まれんじゃねぇって理不尽に怒られたの、オレはまだ忘れてないからな」
 シチガツジュウゴニチ。
 言われた日付を頭の中で反芻しても新開の誕生日が記憶にない。
 高校時代の3年間は同じクラスにこそならなかったが、クラスメイトよりはよっぽど深い付き合いをしてきた。荒北にとって新開は気が置けない友人であり、苦楽を共にした元チームメイトであり、今も変わらず密かに思いを寄せる相手でもある。それなのに想い人の誕生日を自分は“知らない”。その事実が荒北を愕然とさせた。
「実はあのケーキな、今でもちょっと後悔してるんだぜ」
 ショックを受けている荒北をよそに新開は誕生日の思い出話を続ける。
「靖友がせっかく用意してくれてたのに、そんな時に限ってバイトが時間通りに終わらないんだもんな。駅で待ち合わせた時にはドロドロに溶けちまってさ。もう一回冷凍したらどうにかなったけど、おめさんには悪いことしたなってずっと記憶に残ってるんだ。メールの1通でもいれておけば靖友を待たせることもなかったし、ケーキも溶けなかったんじゃないかってね。未だに後悔してるよ」
「……オレが……お前にケーキ……」
「ああ。そうだけど、どうしたんだ?」
「おい、大学んときって言ったな? わざわざそのためにオレがそっち行ったってのか? なんでだヨ?」
「なんでって……オレに訊かれてもなあ。高校んときから祝ってくれてたし、その延長で来てくれたんじゃないか? オレも静岡に行って靖友の誕生日を祝ったことあるし。金城くんたちと一緒に飲んだろ?」
「そりゃ金城とは確かに飲んだけど……」 
 誕生日の記憶を必死にたぐる。
 高校時代は主に自転車競技部の仲間たちに祝われ、大学時代は祝ってくれる仲間が金城や待宮といった洋南大生に変わった。20歳を越えてからは行きつけの居酒屋ができて、誰かが誕生月を迎えれば誕生日会という名目で集合し、ハメを外しすぎない程度に騒いで遊んだ。
(そん中にコイツもいたか?)
 当時の顔ぶれをなんとかして思い浮かべてみる。知った顔を順番に並べていると1人だけはっきりしない人物がいた。たしかその人物は洋南大生ではなかった。荒北にとって大切な誰かだった気もするが、どうしても輪郭が見えてこない。
 荒北の隣で穏やかな笑みを絶やさず、たまにこっそり見つめ合って、テーブルの下で隠れて手を繋いで……

『手、熱くなってる……みんなにバレたらどうしようか?』

「靖友?」
 ハッと我に返った拍子に思い出しそうだった何かが霧散した。思いがけず近い位置にあった新開の顔に驚いて、余計に記憶がうやむやになっていく。
「どうしたんだ靖友。おめさん何か変だぜ? 酔って気持ち悪いとか?」
「……いや、平気だ。なんでもねェ」
「そう? ならいいけど」
 誕生日の話題はそれきりで終わったが、次の違和感はすぐにやってきた。
「新開、今フリーなんだって? お前の事紹介しろって声が多くてさぁ。どう? 彼女つくる気ない?」
 ビール瓶を片手に新開の隣に腰をおろしたのは今井だった。新開のグラスにビールを継ぎ足して「なあ、頼むよ」としきりに頭を下げる。
「今も何もオレはずっとフリーだよ」
「え、マジ? そうなの?」
「ああ。自分のことだけで精一杯だったからな。他に割ける時間も余裕も無かったし」
「じゃあ、そろそろつくってもいいんじゃねーの? 最近調子いいって聞いてるぜ?」
「うーん……まあ、まだいいかな」
「えー、嘘だろ!? タイプさえ言ってくれればどんな子でも紹介できんのにぃ」
「その時が来たら頼むよ」
「言ったな? 絶対だぞ。覚えとくからな?」
「ああ。わかったよ」
 苦笑しながら新開がグラスを口に運ぶ。つられてビールを飲みつつ荒北は新開の横顔を盗み見た。

『今も何もオレはずっとフリーだよ』

 新開に恋人はいない。本来ならば喜ばしいはずなのに、それ以上に苛立ちと悲しみが胸の中に溢れている。何に対して苛立ち、ショックを受けているのかがわからないが、とにかく嫌で嫌でたまらない。
「そういや荒北はどうなんだ?」
「あ? オレ? 何が」
「彼女だよ」
「は? カノジョ?」
「いるのは知ってんだからな。どう? うまくいってんの?」
 カノジョという単語が恋人を指す“彼女”だと理解するまで時間がかかった。意味がわかった瞬間に“恋人との記憶”が大波のように押し寄せてきて、荒北は突然の出来事に言葉を失くしてしまった。
「へぇ。靖友、彼女いるんだ。どこで知り合ったんだ? 付き合い長いの?」
「ごまかしても無駄だぞ荒北。オレの情報網を甘く見てもらっちゃ困る。ちゃんとネタは挙がってるんだからな」
 ニヤリと笑った今井が自分のスマートフォンを翳して見せる。
 高校時代に部の広報役を務めていた彼は、大学卒業後は大手出版社に就職した。昔から人脈が広かったが、今はより広い人脈を持っているらしい。「今井のアドレス帳はやばい」というのが仲間たちの中で専らの評判だった。
「おーい、荒北?」
 眼前に今井の顔が現れ、ようやく荒北は記憶の波の中から逃げることができた。全身が汗でべったり濡れているような気がして気持ちが悪い。荒北は未使用のおしぼりを鷲掴みにすると、思いきり顔面をぬぐった。急な動悸とひどい眩暈のせいで息がうまく吸えない。
「靖友大丈夫か? おい、今井が変なこと訊くからだぞ」
「悪い。聞いちゃマズい話題だったかな」
 申し訳なさそうな今井の顔も、心配そうな新開の目線も、とにかく今は相手にできない。
「とっ、とにかく今はいねーから! ほっとけ、オレのことはァ」
「なんだ、もう別れたのか。なら荒北にも誰か紹介しようか?」
「要らねェ」
「ほんとに?」
「しつけーぞ。要らねェったら要らねェんだよ」
「わかったって。そう睨むなよ。まあ、気が向いたらいつでも言ってくれよな」
 残念そうな表情で今井が席を立つ。次のターゲットを目指して東堂がいるテーブルへ向かっていった。
「相変わらずフットワーク軽いよなあ、今井は」
 呆れたような、困ったような顔で新開が今井を見送る。しばらくしてからビールを一口飲んで、「……なあ靖友。今彼女いないって本当?」と改めて訊ねてきた。
「え? あー……ほんとだ。って訊いてくんじゃねーよ。ほっとけって言ったろ」
 触れてほしくない思いが荒北の口調をきつくする。体調は落ち着いてきたものの、心が状況に追い付いていない。
「ごめん。けど、嬉しくて」
「はぁ? 嬉しいだァ? こっちはなぁてめェみてーに選び放題じゃねーから、いねェ方が長いンだよ。って言わせんなバカ。虚しくなんだろーが」
「悪い。そんなつもりじゃなかったんだけど、ちょっと今の言い方じゃ語弊があったな。嬉しいってのは……いや、やっぱり何でもない。聞き流してくれ。まいったな、ちょっと酔ったかな」
 新開が自己完結してうなじをかく。その隣で荒北は自分自身に愕然としていた。
 確かに恋人はいた。様々な思い出も、別れ話をした記憶もしっかり残っている。けれど今井に訊かれるまでは恋人の存在を思い出しもしなかった。
 思い出したら思い出したで問題があった。恋人の顔も名前も何もかもがわからないのだ。記憶はある。思い出も残っている。それなのに肝心の当人だけが見えてこない。別れたとはいえ、こんなにもすぐにきれいさっぱり忘れてしまえるわけがない。忘れるどころか名前も顔も思い出せないのは、どう考えても異常でしかない。
 再びの鳥肌が全身を隙間なく覆う。
 荒北が黙ってしまったので新開なりに気を遣ったのだろう。それ以降は恋人について詮索してこなかった。
 

*
 飲み会の締めを終えて店を出るべく階下へ向かう。その途中、先に階段を降りていた新開が荒北の目の前で足を滑らせた。咄嗟に手すりを掴んだおかげで怪我も転落も回避できたが、腰が抜けてしまったのか「びっくりした」と呟いたきり立とうとしない。
「おいおい、しっかりしろよ。だいぶ酔っぱらってンじゃねーか?」
「一段踏み外しただけだって。ここ暗いし」
「へーへー。そういうことにしといてやるよ」
「本当だぜ?」
「ハイハイ、そーだな。暗いもんなァ」
 言い訳を軽くあしらいつつ座り込む新開に手を差し出してやる。その手を握り返された瞬間、荒北は言いようのない感覚に襲われた。
 指に馴染む肌の質感。手のひらに染み込んでくる体温。皮膚に食い込む指の強さ。それらは懐かしさや安心感を荒北に与え、同時に、あまりにもしっくり来すぎて怖くなった。
(な……んで、知ってる……!?)
 理由はわからないが以前にも手を繋いだという確信があった。それも一度や二度ではない。新開の手は自分の一部だと錯覚してしまう程の回数を経験している。
 ゾッとして全身が総毛立った。思わず手を振り払ってしまい、支えをなくした新開が再びその場に尻餅をつく。
「いっ! てぇよ、靖友……急に離すなよ」
「あっ、わ、ワリィ」
 曖昧に笑う荒北を新開が恨めしそうに見上げる。荒北は敢えて手のひらを避け、今度は腕を掴んで起こしてやった。
 尻をさする新開に肩を貸しつつ店の外で友人たちが出てくるのを待つ。全員が店を出るにはまだ時間がかかりそうなので、その間荒北はある疑問を新開に投げてみた。
「なァ、ちょっと変なこと聞くけどいいか?」
「ん? 何?」
「その……手の話なんだけどよォ……さっきオレの手ェ掴んだ時どうだった?」
「どう? どうって?」
「なんか、こう……感じるもんなかったか?」
 上手い表現が見つからなくて必然的に言葉が足りなくなる。そのせいで真剣さがいまいち伝わらず、「感じるもの? なんかエロいな」と新開が茶化して笑う。
「マジメに答えろ。前も繋いだことあるとか、なんか知ってるとか、そういうのを訊いてンだよオレはァ」
「繋いだっていうか、落車した時に起こしてもらったことなら何度もあるけど」
「バァカ、ちげーよ。だからそういうんじゃねェって言ってンだろ!? もっとこう、なんつーか……なんかあんだろーが」
「何かって? 具体的に言ってくれないとわかるわけないだろ」
 バカと言われてムッとしたらしく、わずかだが新開の眼差しに険が宿る。意味不明な質問を投げられた挙句、答えたら答えたで馬鹿と言われたのだから怒りたくなる気持ちも充分わかる。しかし荒北は謝らなかった。それどころか事もあろうにこのタイミングで突拍子もない暴論を思いついてしまった。
 遠い日の指先の感触が鮮明に蘇ってくる。
 指先が触れるだけでドキドキして、恥ずかしくて、「ん。手ェよこせよ」と無愛想に誘うしかできなくて、堂々と繋げるようになるまではずいぶん時間が経った。暑い日は2人揃って手のひらに汗をかき、寒い日は互いの体温で温め合った。遠慮がちに繋いだり、時には固く結び合ったり。断片的に浮かんでくるそれらはどれも恋人同士のような握り方をしていた。そして、なんらかの理由で今は名前も顔も思い出せないが、荒北には確かに恋人がいた。
「なんかってのはァ……」
 荒北はマウンテンパーカーのポケットの中で拳を握った。
 新開の手に生じた奇妙な既視感と、正体不明の謎の恋人。その2つをイコールで結ぶという暴論はただの思いつきであって、根拠も証拠も何も無い。ただ、こういう事に関しては滅多に外れない自分の第六感がいつになくざわめいている。もし新開が別れた相手だったとしたら『なぜ顔も名前も忘れてしまったのか』という大きな問題にぶつかるのだが、とにかく今は“相手が新開なのか”を確かめておきたかった。
「……オレとお前……何かあったよな?」
 先ほどまでのやり取りを放り投げて、思いきって核心を突いてみる。新開が相手だったなら何かしら答えてくれるだろうと期待してのことだった。答えなかったとしても彼の表情や仕草から読み取ればいい。それくらいの付き合いはしてきている。
 だが新開の反応は荒北の期待を裏切った。
「いや? 何もないけど?」
 表情も仕草も声色も普段通りの新開だった。それどころか妙な質問ばかりしているせいで「今日はなんか変だぜ?」と怪訝そうにジロジロ見られてしまった。
 どうにか取り繕ってその場はごまかしたが、新開の中に要らぬ心配を残してしまったのは明らかだった。駅で別れた後も『大丈夫か? 何かあったら話してくれよ』という気遣うメールを送ってきた。
 当たり障りのないメールを返して電車のドアにもたれる。久しぶりに顔を見て喜んだのも束の間、数々の違和感が原因で最後はおかしな空気にしてしまった。窓の向こうに視線を投げるも、通り過ぎていく夜景は目に入っていない。誕生日、手の感触、恋人、曖昧な記憶、そして新開。それらがグルグルと頭の中を回っている。
「……なにが起きてんだ?」
 自分を取り巻く何かがおかしい。恐らくそこには新開も関わっている。
 終わりがない思考を繰り返しつつ、荒北は長い長いため息をついた。
 

4.
 疲労困憊したOB会だったが思わぬ収穫もあった。あれからほどなくして食事へのお誘いメールが新開から送られてきたのだ。
 自転車一色だった日々に張りが生まれた。ちょっとした暇さえあればスマートフォンのカレンダーをタップして、とある日付を眺めてにやける。そうやって指折り数えて過ごしていたが恋人の正体探しも諦めていなかった。ただ、元から荒北は自分のことをペラペラと他人に話したりはしない。今回ばかりはその性格が仇となってしまい、期待できるような情報はほとんど集まらなかった。
 メールや通話履歴、写真フォルダなどを隈なく調べてみても結果は同じだった。そもそも携帯電話を携帯しないタイプだし、せっかくのカメラ機能も滅多に使わない。予定日を眺めるだけで満足しているような性格なのだ。カレンダーにメモとして残しておくようなマメさを持ち合わせていれば、恋人が誰かなんてことはとっくに解決していただろう。
 新開との約束まで一週間を切った日、家の掃除を兼ねて恋人の手がかりを探していた荒北はクローゼットの最奥に見覚えのない紙袋を見つけた。引っ張り出して見てみると中にはクレジットカード払いのレシートときれいにラッピングされた小箱が入っていて、レシートには2016年の日付が載っていた。
「4年前じゃねーか」
 買った覚えもしまった記憶も無い。名前も知らない恋人のために準備していたものだろうか。
 小箱を手に取ると、その下からメッセージカードが現れた。ひとまず箱の中身は後回しにして先にカードを開いてみる。するとそこには【約束は果たしたぞ。つーか、こんなん作らせんじゃねーよ。責任とって一生つけてろ】と荒北の字で書いてあった。
「約束?」
 4年前に交わされた身に覚えの無い約束。4年前、約束、と呟いて必死に記憶を辿ってみる。4年前といえばレース中の落車事故で右足の大腿骨を骨折した年だった。怪我が癒えた後はスランプに陥り、去年の夏まで引きずった。あんなに大変だった時期に一体誰と約束を交わしたというのだろう。

――がいいな――――いも兼ねて、や――――が欲しい』

 朧げな何かがフッと頭をよぎる。衝動的に箱を掴んだ荒北は迷いなく包装紙を破いた。
 まず白い箱が現れ、その中には一回り小さな青いベロア素材の箱が納まっていた。アクセサリー用の、それも指輪用のケースとしてよく見るタイプの箱。蓋を持ち上げてみれば思った通りにペアリングらしき1対の指輪が収められていた。一方には『&Y』、もう片方には『&H』という文字がリングの内側に刻まれている。
「YとH……」
 自分が用意したのだからYは靖友で間違いないだろう。そしてHが恋人の名前を刻んだものなら……そのイニシャルは新開にも当てはまる。
 仮に新開が“H”の主だったなら?
 4年前の新開を思い出すべく、荒北はベッドの上に放置していた携帯電話を取ってきた。自分だけでは思い出せることに限界があるし、新開に関してはなぜか足りないことだらけなので記憶が当てにならない。プロ選手としての自分たちなら戦績や記事がインターネット上に残っているだろうと思いついたのだ。
「2016年、新開隼人、っと……」
 仮に新開が“H”の主だったなら。
 ネット画面を開いてワードを入力し、検索ボタンを押してみる。検索ワードが2つだけにも関わらず新開の記事はすぐにヒットした。海外移籍という大きな出来事のおかげでニュース記事が豊富にあり、数年前の彼を追うのは簡単だった。
 4年前、新開は1年間という仮契約で海外のチームに移籍した。スプリンター兼平坦でのアシスト役として買われたようだがチームエースの怪我が続き、移籍したシーズンはほぼ勝てなかったらしい。その後はスポンサーの撤退によりチームは解散。目立った活躍が叶わなかった新開は新たな契約先が見つからず、結局は元いた日本のチームに戻ってきた。以上が荒北が知り得た情報だった。
 その頃の荒北はレース中の落車で太腿を骨折し、手術とリハビリ漬けの毎日を送っていた。怪我と不調に悩むあまり自暴自棄になりかけていた時期でもあって、当時の事はあまり詳しく覚えていない。
「つまり4年前はオレもアイツも揃って大変だったっつーわけか」
 新開との約束を果たすべく指輪を買ったはいいが荒北が怪我に見舞われ、渡せないままクローゼットにしまい続けて完全に忘れてしまった――相手が誰であれ、荒北に関する部分はそれが正解かもしれない。
 そうなると問題は“Hが誰か”に絞られてくる。第一候補である新開には何もないとはっきり言い切られている。指輪を渡すほどの仲であり何かしらの約束をしていたのなら、彼のあの反応は不可解だった。
 指輪をつまんで冗談半分に左手の薬指に嵌めてみる。2本ともちょうどいいサイズだが、『&Y』と刻まれた方がほんのわずかだけ緩い気がしなくもない。この指輪を彼女に贈るつもりだったなら過去の自分は明らかにサイズ選びに失敗している。
「……考えれば考えるほどアイツしかいねェじゃねーか」
 新開が“H”の主だったなら。新開と荒北は体格も手の大きさもほとんど変わらないので、彼がつけるならちょうどいいサイズかもしれない。
 左手を翳してまじまじと指輪を見る。一切の飾りが無い代わりにダメージ加工が施された細身のシルバーリング。指輪の知識など何も持たない自分がよくこれを選んだものだと、少しばかり自画自賛して見惚れてしまった。
(アイツにも似合いそーだナ……)
 いつの間にか指輪を身に着けた新開を想像していた。にやけている自分に気がついた荒北はそそくさと指輪を外して青いケースの中にしまった。
 相手が新開ならいいのに。
 謎の恋人を追っているうちに気がつけばそう望むようになっていた。思い当たる人物が新開しかいないというのも、そうあって欲しいと望むが故のこじつけなのかもしれない。けれど、指輪を見つけたことで状況が変わってきた。少なくとも荒北には“H”で始まる名前を持ち、指輪を送るほどの仲だった人物が4年前までは存在していたことになる。
「……マジでアイツだったら?」
 これまで考えてきた推測の中の一つ、とある仮説が頭の中で急浮上してきた。レースに専念できるよう新開が移籍するタイミングでいったん離れ、その間に荒北が落車事故で記憶を失ってしまったのだとしたら。
 荒北が全部忘れてしまったので新開は自分が恋人だと言い出せずにいるのかもしれない。変に刺激を与えてしまわないよう、荒北が思い出すまで静観しているつもりなのかもしれない。
「んなわけねーかァって言いてェとこだけど、実際に思い出せねェから期待すんだよなァ」
 自分が記憶喪失の真っ最中ならすべて辻褄が合ってくる。
 落車事故の後に監督やチームマネージャーを交えた席で医師にあれこれ説明されたものの、頭を強く打ったとは聞いていない。もしかしたら聞かされていないだけなのかもしれない。フィクションの場合、そういった重要事項はほぼ間違いなく当人には隠される。フィクションはノンフィクションが下敷きにあってこそのものなので、きっと現実でも隠されるのが常なのだろう。“記憶喪失説”がにわかに現実味を帯びてきた。
「確かめるんなら……」
 新開に誘われた日が近づいていた。

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int(1) int(2)