【新荒】願わくは

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アラサーの新荒です。新開さんが海外移籍するまでの前日譚。【R-18】ですが描写は薄め。
※誕生日ネタではありません。

新開さん誕生日おめでとう!!
オーディオドラマ嬉しかったーー!!!

 
 高校2年、夏。蒸した空気は肺をも熱し、夕暮れ時でも肌が湿気で不快にべたつく。運動中は尚更汗が止まらず、大粒の汗がひっきりなしに流れて止まない。
(あっつ……)
 ローラー練習から解放された荒北靖友はタオルを掴んでその場を離れた。滴る汗を拭い、水飲み場を求めて部室を出る。外は相変わらずサウナのように暑く、思わず顔を顰めていると屋外にいた部員の誰かが「アレ、新開じゃねーか?」と校舎の方を指さした。話しかけられたわけではないが声につられて視線が動く。すべてのものが夕陽に濡れる黄昏時、正門へ続く街路樹の陰を一人の生徒が歩いていく。制服姿の新開隼人だった。
「マジでレギュラーおりんのかなあ」
「部活きてねー時点でとっくにアウトだろ。監督と先輩が許すと思うか?」
「でも、福富が説得してるって聞いたけど」
「なんかダメだったらしいぜ。レギュラー蹴るとかホント馬鹿だよなぁ。前代未聞だろ。うちじゃもう走らせてもらえねぇんじゃねーの?」

『辞退しちゃってもいいすか?』

 インターハイのレギュラーメンバーを辞退した日から新開は部活に顔を出していない。同じ学年だというのになぜか彼とは校内でも寮でも顔を合わせる機会がほとんどなかった。どんな心境でいるのかは知らないが、たまに校内で見かけた時はひどく陰鬱な目をして歩いていた。

『靖友くんは神様って信じるタイプ?』
『……は?』
『神様だよ。どう? 信じてる?』
『何だ急に。って前も言ったけど、気安く話しかけてくんじゃねーヨ』
『オレはそういうのって信じてないんだけどさ、だってほら、行動するのはオレなんだから結局は自分次第ってことだろ?』
『おい、なに続けてンだ。シカトすんな』
『けど初詣は毎年行くし、受験の時はお守りも買ったし、都合よく神頼みだってする。本気で信じてないのに、なんかこれってずるいよなあ』
『はぁ? ズリィって、みんなそんなもんだろ』
『みんなってことは靖友くんも?』
『まーな。つーか神様なんかそれこそ信じるも信じないも自分次第だし、いたら儲けもんって都合よく使っときゃーいいんだヨ』
『え。あー、確かに。それもそうか』

 会話の内容は忘れてしまったが、あの時の新開はキラキラした目で楽しげに笑っていた。あれからたった数ヶ月後に死んだような目で毎日を過ごすはめになるとは、当人も予想すらしていなかっただろう。
 荒北は新開に何が起きたのかを知らない。そもそも新開とはそこまで仲が良いわけでもなく、やたらと話しかけてくる鬱陶しい存在だった。レギュラーを辞退した件についても『自らフイにするとかバカじゃねーの』という気持ちの方が大きいし、他の部員たちと同じように新開はこのまま部活を辞めてしまうのだろうと思っていた。数日前、早朝の山道で偶然出会うまでは。
 真鶴での公式戦に初出場した後、荒北の個人練習に“早朝の山登り”が追加された。もちろんそれは福富の指示で、持久力を養いつつ箱根路の感覚を身体に叩き込むのが目的だと言う。正直なところ朝は眠気が強くて身が入らないし、5時台に起きるだけで精一杯だ。それでもメニューをこなせないと思われるのも癪なので、悪態をつきながら毎朝箱根路を上り下りしていた。
 そんな早朝練習のさなか、芦ノ湖方面へ枝分かれする道の手前で思わぬ人物を見かけた。見慣れたロードバイクに茶色の髪の毛。サドルに跨ったまま路肩に停車し、ガードレールに片手をついて項垂れている。
(あれって……新開、だよな?)
 止まって声をかけるか、このまま無視して通り過ぎるか。荒北が迷っている間に車輪の音で気づかれたらしい。新開は口元を拭いながら振り返った。
「……驚いた。靖友くんか」
 驚いたと言うわりにはリアクションが薄い。パチパチと数回瞬きした後で気怠げに口元を拭い、「早く行ってくれ」と初めて耳にする固い声で言った。
「お前……もしかして吐いてんの? 具合ワリィのか?」
「……違うよ。平気だから」
「違わねーだろ。どう見たって普通じゃねェぞ」
「なんでもないって。……ほっといてくれよ」
 言葉数は少ないが纏った雰囲気が刺々しい。これ以上構うなと全身で荒北を拒絶している。
(コイツ……! ひとが心配してやってんのに)
 苛立ちをそのまま口にしそうになったがグッと堪えて飲み込んだ。せめて水でも飲めと声をかけようとして、新開がボトルを持っていないことに気がついた。
「お前、ボトルは? 持ってねーの?」
「え? あー……忘れてるな」
「はぁ? 水分補給がどうたらとか1年にエラソーに説教してたくせに。てめェがそれを忘れんのかよ」
「……ごめん」
「オレに謝ってもしょーがねーだろ。……まあ、いい。つーか、いつから走ってンだよ。どんぐらい水飲んでねェんだ?」
「……いつからって……まあ、ほとんど走れてないからいいんだ」
「は? ふざけてんのか? いいわけねーだろ」
 荒北は自分のボトルを手に取ると新開の前に突き出した。しかし新開は「いらない」と言うばかりで頑なに受け取ろうとしない。荒北はムッとしながらも半ば強引にボトルを押しつけ、返される前にその場を離れようとしてペダルを踏んだ。
「飲めよ! ぜってーだぞ!」
 一方的に告げて走り出そうとしたのだが、離れる間際に見た光景にギョッとしてしまった。
 ボトルを握ったままの新開が無言で荒北を見つめている。嫉妬、怒り、強い憎悪すら感じさせるような薄暗い視線。これ以上無いほどのわかりやすい敵意を向けられて、その気味の悪さに背筋が寒くなった。
(……な、ンだァ!?)
 ボトルを渡しただけなのに。こんなにも大きなマイナス感情をぶつけられる理由がわからない。新開が見えなくなった後もゾッとした感覚だけは全身に長々と纏わりついて離れなかった。
 あの日がたまたまだったのか、早朝練習で新開を見かけたのは一度きり。彼が部活に復帰する気配は今のところまったくない。
「新開が辞めんならスプリンター枠が空くってことだよな。アイツがいたら1枠はもう決まってるわけだし」
「バァカ、お前なんか無理に決まってんだろ」
「いや、最近マジで調子いいんだって。俺、俄然ヤル気出てきたわ」
 部員たちの笑い声に背を向けて荒北は水飲み場へ歩き出した。
 新開が密かに走っていることを荒北は知っている。まともな状態ではなさそうだったが、それでも自転車を続ける意思は少なからずあるのだろう。
 容赦ない夏の暑さ、呑気な笑い声、響き渡る蝉の音に、意味不明な暗い視線。
「……どいつもこいつもムカつくぜ」
 水道の栓をひねって頭から水をかぶる。出始めの水は生ぬるくて好きじゃないが、とにかく今は汗と妙な苛立ちを洗い流したかった。髪の毛ついでに顔も洗い、雑にタオルでぬぐってから校舎側にもう一度目線を戻す。街路樹は変わらずオレンジ色にキラキラ輝いている。しかし、新開の姿はすでになかった。
 

1.
 意識の浮上と共に手足の感覚がゆっくり戻ってくる。体温が染み込んだシーツはぬるく、裸体は汗で不快にベタついている。おまけに喉もカラカラに渇いていて、全身が重くて怠い。
(なんか懐かしいもん見た気ィすんなァ)
 夢の内容は覚えていないが懐かしさだけが朧げに残っている。荒北は伸びをするついでに頭上に手を伸ばすと、ヘッドボードに置いていた携帯電話を掴んだ。時刻は朝の8時過ぎ。反射的に寝坊したと冷や汗が吹き出し、そういえば土曜日だったと一気に気が抜けた。
 社会人になって6年目。不本意ながらも起床時間は体内時計にしっかりセットされている。しかし今朝は明け方近くに眠ったので、さすがにいつもの時間では目が覚めなかったらしい。せっかくの休みだ。このまま二度寝してしまってもいいが汗の不快感はどうにかしたい。シャワーでも浴びようかと身体を起こすと、ベッドの揺れで起きてしまったのか右側から伸びてきた腕が荒北の腹部に絡んできた。
「ワリィ、起こしたか?」
「……もう起きんの?」
「風呂入りてェ。それにオメーも腹減ったろ?」
「んー……そうだな」
 腹筋を撫でる手が徐々に下へおりていく。へそをかすめ、鼠蹊部を撫でて、陰毛をくすぐる。そのうち陰茎を握られて、手慣れた愛撫が始まった。
「う……おい、オレはもう起きるンだよ」
「うん」
「風呂入りてェんだけどォ」
「わかってる」
 背を向けて横向きに寝そべるよう促され、渋々ながらも要求をのんでやる。すると肉厚な唇が背中に吸いついてきて、ちゅ、ちゅ、と軽い音を立ててキスが始まった。時に肩甲骨をベロリと舐められ、肩の筋肉にぷつりと歯を立てられる。甘噛みの刺激に気を取られている間に、緩んだ両腿の隙間に膝が割り入ってきた。陰茎を弄んでいた手が尻たぶを左右に開かせ、中に潜り込もうとして穴の表面を撫で始める。
「てめェ、何回する気だよ」
「……さあな。時間ならいくらでもあるからな」
 数時間前まで愛されていた後孔は今回も容易く指を受け入れた。そして愛撫もそこそこに雑な手つきでローションを塗りたくられ、指よりも太くて長いものが遠慮なしに入ってきた。
「ん、うぅっ……!」
「はぁ……おめさんの中、気持ちいい」
 おざなりな前戯で中途半端に放置されたというのに、荒北の陰茎は背後から突かれる刺激でひとりでに硬く膨らんでいる。抽送に合わせてブラブラ揺れ、強引にうつ伏せにされた後は有無を言わさずシーツにこすれる。
 呻き声、乱れる呼吸、ベッドの軋み、蒸れた匂い。カーテンの隙間から漏れている日差しは8時台にして煌々と明るく、この日も暑くなりそうな予感がしていた。
 
*
 大学卒業後、荒北はスポーツメーカーに就職した。選手からは退いてしまったが、ロードバイクの車体に関わる分野で働いている。新開も卒業後はロードレースのチームを抱える企業に就職し、働きながらレースに参加していた。しばらくして明早大学の先輩の伝手でプロチームに引き抜かれ、現在は自転車競技一本の選手生活を送っている。
 プロになる前から、もとい大学在学中から新開の活躍はめざましいものがあった。大学1年時は箱根学園出身の先輩たちに色々と苦労させられたようだが、福富寿一と共に実力でレギュラーを捥ぎ取り、2年の終わり頃には公式戦での活躍が目立つようになった。以降は浮き渋みを繰り返しながらも勝利経験を積み重ね、プロになってからは個人でもチームでも上位成績者の中に年単位で名を連ねている。
 順風満帆だった選手生活が綻び始めたのは2年前の夏。山梨で開催されたクリテリウムレースでの落車事故がきっかけだった。
 その日のレースは郊外に造られた森林公園の外周約1キロを12周するタイムレースだった。逃げていた数名の選手がラスト1周を残して追走集団に吸収され、レース展開が振り出しに戻る。選手たちは最終ラップを告げる鐘の音と共に一塊になり、集団はさらにペースを上げて、ゴールまで残り700メートルを切る頃にはかなりのスピードに乗っていた。
 そして迎えた最終コーナー。そこは道幅が狭くなる上に道沿いの樹木がちょうど途切れる場所で、風が強い日には砂が薄く積もって路面が滑りやすくなる難所だった。曲がる時に多少は減速するものの、最終コーナーともなれば幾台ものロードバイクが自動車並みのスピードでゴール目指して突っ込んでくる。滑って転んだら最後、避けきれない後続車が次々に巻き込まれてしまい、大規模な落車事故が発生するのは必然だった。
 その落車事故で新開は左半身を強く打ち、左の大腿骨と鎖骨を折った。大腿骨は骨の折れ方が悪くて2度の手術が必要になり、ほぼベッドの上でシーズンの残りを終えることとなった。
 辛抱強くリハビリに励んだおかげか、翌シーズンの開幕にはなんとか復帰が間に合った。が、調整不足と怪我の影響により調子がいまいち上がらない。結果が出せないまま負けが増え、それでもどうにかしようとして苦し紛れに足掻き続ける。その結果、無理が祟って再びの怪我を負ってしまい、シーズン半ばでの退場となった。
 怪我をしては治療してレースに戻り、また怪我をして治療して復帰する。その繰り返しが続く中で新開の不調はピークに達していた。チームマネージャーや監督は新開をまだ諦めていなかったのだが、その上の人たちが契約解除をやんわりと持ち掛けるようになり、世間でも引退や鬱病説といったネガティブな話題が頻繁に囁かれるようになった。
「もういいんじゃねーの?」
 以前、荒北は一度だけ新開にそう告げたことがある。何がとは明言していないが引退についてだと新開は察したに違いない。しかし彼はそれについて何も答えず、「こんなにまとまった休みはいつぶりだろうな」と人懐こい笑顔を見せただけだった。
 リハビリに専念するという名目で始まった特別休暇は、ずいぶんとのんびりしたものだった。時間を自由に使える新開が荒北の自宅に入り浸る形で半同棲に近い生活が始まり、平日は新開が家事をこなして荒北の帰宅を待ち、休日にはふたりで外出してデートを楽しむ。買い物をしたり、映画を観たり、公園を散策してみたり、昼夜問わずにセックスもした。自転車には一切乗らない。トレーニングもしない。食事の管理も、節制も、制限も無い。何の縛りも無い、ごく一般的な生活。
「なあ、マジで乗んなくていいのかよ」
「……いいんだ」
「リハビリ休暇なんだろ?」
「……表向きはな。リハビリなんてとっくに終えてる」
「じゃあ尚更――
「なあ、今度旅行にでも行こうか。最後に行ったのいつだっけ? 大学の時だから……ああ、3年の冬ぶりか。おめさん覚えてるかい? あの時、靖友の方から――
 新開は露骨に話題を変えて思い出話を楽しげに語り始めたが、彼の目の奥は笑っているようで笑っていない。こうなった新開は何がなんでも本音を隠してしまうので、荒北もそれ以上は訊かなかった。
 始めこそ節制や練習のない生活に多少の戸惑いがあったものの、慣れてしまえばどうということも無かった。このまま穏やかに日々を過ごし、穏やかに老いて穏やかな死を迎える――そんな生活も有りかもしれない。いつしか荒北はそんな選択肢も意識し始め、新開も同じなのか似たようなことをぽつぽつと口にするようになっていった。
 

2.
 平穏な日々は1か月、2か月と過ぎていき、季節はすっかり秋になっていた。
「すげー晴れてンなァ」
「だな。潮風が気持ちいい」
 荒北と新開は2泊3日の小旅行で静岡県にいた。たまには贅沢してみるかと海沿いに建つコテージの一つを借り、大学時代の思い出の地をレンタカーで気ままに巡る。新開の気晴らしになればと思っての旅行だったが想像以上に楽しくて、荒北も学生時代に戻ったかのようにはしゃいでいた。
 旅行最終日は伊豆半島をぐるりと回るコースで東京に戻る予定だった。国道136号を南下し、海岸線を見ながら潮風に吹かれ、途中の飲食店で海の幸を堪能する。昼食ついでに付近を散策していると、やけに賑わっている海浜公園が道の前方に見えてきた。
「何かやってるみたいだな」
「行ってみるゥ?」
 公園手前の駐車場までやってきたところで荒北は反射的に舌打ちした。停まっている小型のバスやバンの車体に『〇〇自転車クラブ』や『◇◆◇サイクル』、『●●高校 自転車競技部』と書かれている。どうやらここを会場にして競技会が行われているらしい。
「ワリィ、場所変えるか」
 荒北はとっさにそう口にしていた。自転車競技との接触を危惧しての判断だったが、新開は普段と変わらない顔で「なんで謝るんだよ。せっかくだし観ていこうか」と薄く笑っただけだった。
 この日のレースは参加資格に“高校生以上”という年齢制限が設けられていて、その中でも実力や実績によって数個のクラスに分けられていた。荒北と新開が到着した時には22歳以下の個人クリテリウムレースが行われていて、東海地区に建つ大学の参加者が多いのか、いくつかの見覚えがあるサイクルジャージが風を切って走っていた。
「お。洋南。うちのジャージじゃねーか。オレが居た頃はこんなレース無かったぜ?」
「懐かしいな。××大と●○大もいる」
「さすがにみんな若ェな。走りが違ェ、走りが」
「ああ。……若いな。若さはそれだけで大きな武器だ」
 場所のせいか、レースの知名度がまだ低いのか、観戦している一般客はそれほどいない。一番賑わうゴール付近でも人垣が途切れている箇所がいくつもあり、服装から察するに大多数がレース関係者のようだった。
「どの辺で見るゥ?」
「んー……」
 とりあえずの感覚で場所も決めずに歩き出す。ふらふらと歩いているうちに気がつけばゴール方面へと足が向いていた。荒北としては意図した訳ではないのだが、自然と足が、いや、もしかしたらそうなるように新開に誘導されていたのかもしれない。
「この辺にしようか」
 新開が最終コーナーとゴールの中間地点で足を止めた。彼の目線は荒北ではなくコースの中へ伸びている。思えば『観ていこうか』と笑った時から新開は荒北を見ていない。試しに横顔をじっと見つめてみても新開の視線は前を向いたまま動かなかった。
(どんだけ集中してンだよ)
 半分呆れて、半分嬉しい。荒北はフンッと鼻を鳴らして密かに笑うと、新開同様にコース上に視線を移した。
 レースはラスト2周で大きく動いた。それまでは数名の選手が抜け出しては追走集団がすぐさま捕まえてを繰り返していたのだが、残り2周を切ったところで3名の選手が集団から飛び出したのだ。ジャージは3種類、それぞれが違うチーム。飛び出したタイミングがピッタリと合っていたのは、動きのないレース展開に焦れて密かに共闘を組んでいたのかもしれない。
 興奮気味の実況アナウンスが飛び出した選手の名前を読み上げていく。荒北は興味本位から携帯電話を取り出すと3名をそれぞれ検索してみた。
「お。今飛び出したやつら大学選抜候補らしいぜ。◇◇大の選手が優勝候補だってヨ。ソイツを後ろはまんまと逃がしちまったってわけか。ハッ! これで負けたらレース後はどこも“お通夜”だな。ん? 逃げの一人はまだ高2かよ!?」
「……へぇ。すごいな」
 興味を惹かれたのか新開がフェンスに手をついて前のめりになった。
 逃げる3名が後続との距離をどんどん広げ、それに呼応するかのように新開を包む空気が硬くひりついたものに変わっていく。
 どれだけ力を込めているのか柵を握る指先は血の色を失くして白い。表情は硬く、唇も真っ直ぐに結ばれていて、横顔だけでもただならぬ様子だと見てとれる。選手を見据える薄暗い目。飢えた匂い。普段の柔和な雰囲気はどこにも無い。こんな新開は見たことがないとギョッとして、しかし、同時に懐かしいような妙な既視感を抱いた。
 無意識に胸の前で腕組みして眉をひそめながら記憶をたぐる。よほど印象的だったのだろう。思い当たるものはすぐに見つかった。

 早朝の清廉な空気と瑞々しい箱根の緑。その中にぽつんと立っていた1人の少年。

(ああ、そっか)
 荒北は遠い日に注がれたあの視線の意味を、今ようやく理解した気がした。
 才能を持ちながらもそれに奢らない努力をし、強運や環境、良い仲間にも恵まれ、どちらかといえば“スポーツの神様”に愛されていた側だった。怪我やスランプで状況が一変した後は自分と現状に怒りを燃やし、元いた場所を、光の中に立つ第三者を、嫉妬に狂う寸前の暗い目で日陰から眺めているしかなかった。
『勝ちたい、誰にも譲りたくない、なのになんで』
 思うようにならない肘が悔しくて、腹立たしくて、苦しくて、大声をあげて喚き散らしてしまいたい。戦線を離脱している間にもポジション争いは繰り広げられ、追い抜かれることへの恐怖と焦りが絶えず全身にのしかかってくる。自分以外のプレイヤーはすべてが敵に見えていた。
 荒北はコース上に視線を戻した。
 今目の前で走っている選手たちは全員が頼もしい後輩であり、将来有望なライバルでもある。競技者からはとっくに足を洗っている荒北でも、闘争心剥き出しの彼らの走りに何かしら感化されたところはあった。現役選手、それもプロとして走り続けている新開なら尚更だろう。彼らの若さや有望な未来に嫉妬すら抱いたかもしれない。青臭くて真っ直ぐでガムシャラな走り。自分もかつて通ってきた道だというのに、怪我を恐れない無鉄砲な若さは、羨ましくて、眩しくて、悔しくてたまらなくなってくる。
「……わかるぜ、新開。悔しいよナァ」
 荒北の声はワッと沸いたギャラリーの歓声で掻き消された。逃げていた3名がそのままゴール争いを繰り広げ、スプリント勝負の結果、優勝候補と目されていた選手が期待通りに1着でゴールラインを踏んだのだ。
「悪い、さっきなんか言った?」
 続々と選手たちがゴールする中、ようやく新開が荒北を見た。硬い表情も鋭い視線もすっかり消えて、普段通りの新開に戻っている。だが、彼の内側で燃えたぎっている闘争心を荒北は確かにこの目で見た。
「……帰るぞ新開」
「え」
「東京。今すぐ帰るぞ」
 面食らっている新開をよそに荒北はその場を離れ、元来た道を足早に歩き始めた。後ろから追ってきた新開が荒北を呼んでいる。道中も何度か名前を呼ばれたが荒北が応えないので諦めたのだろう。レンタカーに乗り込んだ後の新開は、助手席で揺られながら無言のまま窓の外を眺めていた。
 

3.
 自宅前で新開と荷物を先に下ろし、荒北は車を返却してから家に戻った。
 玄関ドアを開ける音で気づいたのか「洗濯しちまうから、他にもあれば持ってきてくれ」と、浴室の方から新開の声だけが飛んでくる。家に上がった荒北はそれには応えず、浴室から出てきた新開の腕を掴んで「来い」と引っ張った。
「ん? なに? どうした?」
「いいから来い」
「来いって、今洗濯――
「後でオレがやる」
「え、いや、でも」
 困惑する新開を寝室に連れ込み、言葉も省いてベッドに押し倒す。逃げられないよう彼の上に跨れば、乱れた前髪もそのままで大きな瞳が荒北を見上げた。
「な、なに? 一体どうしたんだ?」
「うっせ。黙っとけ」
 左手で肩を押さえ、右手で胸倉を掴む。拒まれる前にキスで唇を塞いで主導権を強引に確保した。唇を舐め、甘噛みし、舌先をすり合わせて啜る。呼吸を混ぜている間に手探りでシャツのボタンを外していき、胸元から腹部へと筋肉の隆起を手のひらでなぞっていく。指先が捉えた冷たさはベルトのバックルだろう。ガチャガチャと忙しなく金具を外した後は、デニムを強引にずり下げて下着の上から性器を鷲掴みにした。
「う……」
 新開の舌先がピタリと止まる。代わりに吐息まじりの低いうめき声が荒北の口内にこぼれた。
「……ヤんの?」
 答える代わりに下着をこする。手の中の膨らみが徐々に熱を増し、興奮がはっきりした形になって荒北の手のひらを押し返してきた。
 目の前の男が愛おしい。できることならばこのまま手元に置いておきたい。
 けれど。
「新開、今日が最後だ。終わったらもう出てけ」
 自分で言い出したくせに心が痛い。奥歯を噛み締め、締めつけられるような苦しさを無理やり耐える。
 新開は何を言われたのかわからないらしく、「え?」と目を瞬かせた。
「オメーが居るべき場所はうちじゃねェ。わかってンだろ」
「……」
「黙っても隠しても無駄だからナ。チャリ乗りたくてうずうずしてるくせに」
「そんなこと……ない」
「走れ、新開。まだ見てェんだよオレは。オメーが走ってるとこ」
「でも、オレは」
「勝てねェからって辞める? それとも若いヤツに負けんのが怖いか?」
「ちがっ――
「んなわけねーよナァ。少なくともオレが知ってる新開隼人ってニヤけ野郎はそんなヤワな男じゃねェ。いつだって目ェギラギラさせて、走りたくてたまんねェってツラでペダル踏んでる。いい歳してチャリのことしか考えてねェバカだけど、真っ直ぐで、負けず嫌いで、誰よりも勝利に一途だ」
 だろ、と問いかける荒北に対して新開は「……買い被りすぎだ」と首を左右に振った。
「オレはそんなヤツじゃないし、何より足がもう――
「足は治ってる。だよなァ?」
 バツが悪そうな顔で新開が視線を外す。しかし荒北が「なァ新開」と呼びかけると、おずおずと再び視線を合わせてきた。
「オメーがなんで思い詰めてんのか完璧にわかってやることはできねェ。けど、まだ走りてェって思ってンなら背中を押してやることはできる。心配すんなヨ、最後まで見届けてやっから。押した責任はちゃんととってやんよ」
「……」
「それにお前を走らせたいって思ってんのはオレだけじゃねェ。チームメイトも、ファンだってそうだ。お前を待ってるヤツはたくさんいんだぜ? そうだろ、新開。良くねェ噂も確かにあるけど、んなもん言いたいヤツには言わせときゃあいい。批判されてるうちが華ってンじゃねーけど、ムカつく野郎は“走り”で全員ぶちのめしてやれ」
「……やけに勧めてくるな」
「今日のレースで何か思うとこがあったんだろ? すごかったもんなァ、アイツら。オレでさえグッとくるもんがあったし、観てて久しぶりに血が沸いたぜ。この先もアイツらみてーなイキのいい新人がうじゃうじゃ出てくんだろーな。一方のオレらはオッサンになって、今より更に勝てなくなって、腹だって出てくるかもナァ。けど、それがフツーで当たり前だ。いつまでも若いままってのはありえねーからァ」
 新開はなぜかフッと笑い、瞼をゆっくり閉じて長いため息をついた。「まいったな」と呟いた顔は何かを観念したように見えた。
「……確かにすげぇ嫉妬したよ。こんな感情がオレの中にもまだあったのかってくらい、めちゃくちゃに嫉妬した。で、自分自身にムカついてイラついた。何やってんだオレはってね。怒りで身体が震えたよ。正直、今でも悔しくてたまんないくらいだ」
「ハッ! だよなァ、だと思ったぜ。だったら納得するまで走って走って走りまくるしかねーだろ。若いヤツらに完全にぶっちぎられるまでガムシャラに走ってこい。落ちぶれたってそれがなんだ。最後まで足掻くヤツの方がサイコーにカッケーだろ」
「……酷なことを言ってくれるなあ、おめさんは。茨の道だって知ってるくせに」
「おー、知ってるからこそ言ってンだヨ。今辞めちまう方が何十倍も何百倍も辛いって知ってるからナ。このまま引退して、この数ヶ月間みてェにのんびり暮らすってのも確かに悪かねーよ。別の仕事して、趣味でチャリ乗って、ゆっくりじいさんになって、ポックリ死ぬ。けど、そんなぬるい生き方でやってけるか? どう考えたって無理だろ。チャリがねェ生活なんざ、もう死んでるようなもんなんだよ、お前は。この数か月間だって、なんだかんだ食事制限してたじゃねーか」
 なんでそれを、と驚いて丸くなった目が訴えている。
「オメーなァ、どんだけの付き合いだと思ってんだヨ。最初の頃こそイキって酒飲んでたけど、それも舐める程度だった。あとは理由つけて一切飲まねーし、食事メニューも、摂取量も、さりげなく栄養計算して選んでた。そうなるようにもう染みついちまってンだよ。な? やっぱチャリしかねーんだ、オメーには。……悔しいけどナ」
「靖友……」
「だからァ、さっさと居るべき場所に帰れ」
 新開は荒北を見つめたまま答えない。唇はピクリとも動かないし頷きもしない。それでも、彼の瞳を曇らせ続けていた“迷い”がいつの間にか消えていた。
「けど、その前にィ」
 荒北はわざとらしく演技がかった意地の悪い笑みを浮かべてみせた。新開の足を開かせて股座に座り込み、陰茎の根元まで思い切りパクっと頬張る。じゅるじゅると唾液の音をたてながらしばらく咥えて、充分に勃起したところで顔をあげた。
 戸惑いつつも欲情した目が荒北を注視している。荒北は見せつけるように亀頭を舌で舐め回し、
「今は思いっきり、メチャクチャに抱いてくれ」
と目を細めて笑った。
 
*
 肌の張り、筋肉が描く曲線美、鼓動の速さや汗の匂い。全身に残る傷跡と手術跡の1つ1つまで目にしっかり焼きつけようと、飛びそうな意識をなんとか保たせる。射精後に訪れる凪いだ時間すらも惜しくて、「まだイきたくない」と何度も駄々をこねて新開を困らせた。そんなわがままが通用するわけもなく、新開は喚く荒北を幾度も貫き、思うままに身体を揺さぶって強制的に射精に導いていく。そのうち射精を伴わない絶頂が訪れて、一度スイッチが入ったら最後、ぐずぐずに理性を溶かされながら荒北は啼き続けた。
 途方もなく濃密な時間を過ごした後、荒北は新開の背中を見送った。
「いってくる」
 そう囁いた彼はもういないが、ふたりで生んだ熱はまだ全身に残っていて心地いい。噛まれた痛みも、こすられた快感も、泣いた目の潤みさえ記憶に新しいが、そのうち全部が消えてしまうのだろう。寝て起きたらすっかり落ち着いてしまいそうで、荒北は襲い来る眠気に抗っていた。

『靖友くんは神様とか信じるタイプ?』

 いつか見た夢をぼんやりした頭で思い出してみる。
 これだけはいえる。もし神様がいるとするなら、その神は間違いなく独占欲が強いタイプだ。選手の心を奪い、惹きつけてやまず、時に怪我や故障で身体がボロボロになっても手離してくれない。かつて魅せられたことのある荒北だからこそわかる。神様はいつだって無慈悲で不平等だ。
「……アイツを独占できんのは、まだまだ先みてェだナ」
 フンッと鼻で笑った声にあくびが続く。新開を手に入れる日を夢見て、荒北はとうとう眠りに落ちた。
 

epilogue.
「靖友!」
 荒北を見つけた瞬間に上がった手。Tシャツから覗く逞しい二の腕や肘付近に新しい傷跡が増えている。ボトムで隠れている足にもまだ知らない傷跡があるのだろう。
「よォ、久しぶりィ。元気だったか?」
「ああ。靖友も変わりない?」
「おー。バッチリだぜ」
 パソコンのディスプレイや電話越し、紙面上でしか会えない彼は、ちょっと見ないうちにまた日に焼けたようだった。さすがに少しずつ老いが見え始めて怪我の回復速度も遅くなってきてはいるが、現役で世界と闘っているせいか荒北よりもずっと若く見える。
「どうする? まず家帰るか?」
「そうだなあ……あ、こないだ話してたラーメン屋に連れてってくれよ。思い出した途端に腹が減ってきちまった」
「帰国早々にまずラーメンかヨ。相変わらずの食い気だナ」
「あっちで暮らしてみたらわかる。おめさんだってきっと恋しくなるさ」
 へーへーと会話を流しつつ新開を促して軽快に歩き出す。荷物を半分持ってやりながら、話すふりをして横顔をたっぷり眺めた。
 新開がシーズンを終えて帰国してくるたび、荒北は密かに胸を撫で下ろしている。今季も無事でよかったとホッとして、まだ走れていることを同世代として誇りに思う。レースを観戦しながらの一喜一憂は正直言って心臓に悪いし、怪我をしたと聞かされれば早くやめてしまえと心の中で思ったりもする。それでもまだまだチャレンジして欲しいし、飽きが来るまで思う存分走って欲しい。相反する思いがせめぎ合って忙しいが、直接会ってしまえば愛おしさの前に全部が吹っ飛ぶ。こうして新開の無事を確認して気持ちをリセットするまでが荒北の毎年のルーティンになっている。
「靖友? なんか良い事でもあった?」
「あ? なんで」
「なんだろう。なんかそういう顔してるから」
 知らず知らずのうちに表情が緩んでいたのかもしれない。荒北は天邪鬼を発揮して「さーな」とはぐらかして笑った。
 
 願わくは彼の引退がずっとずっと先の話であるように。大病も大怪我もせず、いつまでも健やかに。共に笑って、共に泣いて、共に老いる。穏やかな死を迎える、いつかのその時まで。
 

***END***

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