【新荒】みえるひと(12/12 完結済)

◆◆ caption ◆◆
大学2年くらいの新荒です。

冬のホラーが書きたかったのですが、たいして怖くありません。

 
 通学途中の道に“それ”はあった。
 川沿いに植えられた幾本もの桜の樹。春がくれば見事な花を咲かせ、散りゆく姿さえも儚げで美しく、緑の葉に衣替えしていく様は燃えるような命を感じさせる。
しかし、今は冬。葉が落ちて裸同然の幹も、空中に広げられた枝も、すべてが物憂げで寒々しい。当然ながら樹を見上げる視線はひとつもなく、行き交う人々は足早に通り過ぎていく。
 夜明け前から吹き始めた風はまだやまない。残されたわずかな葉が曇り空の下で震えている。心細く揺れる枝先の、とある一箇所にそれはあった。
 

1.
 11月に入って2週間ほど過ぎたある朝、新開隼人は大学近くの交差点で赤信号に捕まっていた。
 三叉路に枝分かれしているこの交差点は歩車分離式信号になっていて、一旦赤信号で止まってしまうと長い時間待たされる。新開は左足だけクリートを外し、背負っていたリュックのサイドポケットからパワーバーを抜き取った。
 吐く息は白く、パッケージを破る指先はかじかんで赤い。まだまだ温まりそうにない身体に燃料を追加しようと携帯食のパワーバーを頬張る。チョコ味を咀嚼しながら左足首を軽く回してみると、しばらく続いていた疲労感はほとんどなかった。意識して足を休めたおかげだろうか。この調子なら来週末に控えているクリテリウムレースも問題なく走れそうだった。

『調子ワリィやつに勝っても嬉しくねーから、しっかり準備して調子上げとけ。今年はぜってーウチが獲る』

「……4ヶ月ぶりか」
 思考回路がレースから恋人へと移っていく。東京暮らしの新開と静岡に住む彼とでは活動圏が違うので、出場するレースも別になることが多い。おまけにバイトや部活で互いに忙しく、会わない期間がこんなにも開いたのは久しぶりだった。
 負けねェからと笑っていた昨晩の電話越しの声がまだ耳に新しい。レース後の“お泊りデート”に思考が傾きかけていた新開は、突然聞こえてきた犬の鳴き声にドキッとして慌てて顔を引き締めた。
「こら、やめなさい! 何? どうしたの?」
 声がした方を見てみると、数メートル先の歩道で散歩中らしき子犬が街路樹に向かって吠えていた。飼い主がリードを引っ張ってもやめようとせず、吠えたり唸り声をあげたりしてその場から動こうとしない。抱きかかえられるとさすがに鳴きやみはしたが、飼い主の肩越しに木をジッと見つめている。
(……なんだ?)
 犬の視線の先を追ってみる。桜の木々が川沿いに並んでいるばかりで他には何も無い。その桜の木にも変わったところは一つも無く、黒々とした裸の枝が伸びているだけだった。
 
*
 翌日、昼過ぎ。荒北靖友は洋南大学の学生食堂で恋人からのメッセージを眺めていた。

【桜見つけた。今年はずいぶん早いな】

「あ? なんだこれ。つーか写真下手すぎンだろ」
 メッセージに添えられていた写真には木の枝らしきものが写っていた。だが、ピントがブレているせいで肝心の桜の花がまったくわからない。
【写真下手すぎだろ。つーかまだ11月だぞ。見間違いじゃねーの?】
 そう返事を送るとしばらくして既読マークが付き、【昨日の帰りに撮ったから暗かったかな?】と返ってきた。
「……暗いとか、んなレベルじゃねーんだけど」
 この写真では嘘なのか冗談なのかも判断がつかない。ひとまず荒北は恋人を信じることにして【そんじゃー今度は明るい時のを頼むわ】と送り、【そういやマジで○○駅まで拾いに来てくれんの?】と話題を変えた。
【レンタカー返すのオレだから、みんな下ろした後で迎えに行くよ】
【サンキュー。助かる】
 返事を送り終えた辺りで荒北は食堂内の人の移動に気が付いた。時計を見ると3限開始の時刻が近い。
「やっべ! 次、5号館じゃねーか」
 やり取りを切り上げて慌ただしく立ち上がる。スマートフォンをポケットに押し込んで、食器を返却した後は一目散に次の教室を目指した。
 

2.
 11月下旬、個人戦のクリテリウムレース。埼玉県内で開催されるこのレースは全3戦のステージレースで、ポイントによる総合成績で競う形式になっている。1位から3位まではポイントが付与され、最終的なポイント数が同じだった場合はゴールタイムでの判定となる。新開や荒北たち大学生組は全長約2キロほどの周回コースを12周するクラスに出場予定だった。
「やあ、靖友」
 声をかけられて振り向くと、自身のロードバイクを引いた新開が近づいてくるところだった。「よぉ」の返しに反応して目尻の垂れた瞳が嬉しそうにスッと細くなる。
「元気そうだな」
「まァな」
 たった数か月間会わなかっただけなのに、顔を見た途端に自然と気分が上がっていく。聞き馴染んだはずの声も電話越しと直接とでは感じ方がこんなにも違うらしい。まるで付き合いたての頃に戻ったかのようで胸の辺りがムズムズしてくすぐったい。照れをどうやってごまかそうか……とうなじをさすり始めたところで荒北は新開の目の下にある隈に気がついた。顔色も悪いような気がしなくもない。
「なんだそのひでーツラは。まさか緊張して寝不足――ってそんなセンサイじゃねーか」
「酷い言われようだな。確かに隈ができてるけど、こう見えても体調はバッチリだぜ?」
 目の下の隈がせっかくのウインクを台無しにしている。荒北は直感的に“嫌な感じ”を抱いたが、その後の新開の走りは彼の自己申告通りに悪くはなかった。レース後半でのパンクというトラブルで優勝こそ狙えなかったものの、荒北も新開も上位入賞を果たす事ができた。
 待ち合わせの駅でピックアップしてもらい、新開の家へ2人で向かう。その最中も、着いた後も、新開にこれといって変わったところはなかった。いつも通りに夕飯を食べ、テレビを見て笑い、ダラダラ過ごす。新開は普段と変わらない量を食べ、よく笑い、好意しかない瞳で荒北を見つめていた。
 しかし、荒北は“最初の違和感”が未だに気にかかっていた。
 過去の経験則から言って、こういった時の勘は外れる方が少ない。それなのに新開の走りは悪くなかった。シーズンオフ目前としては上出来だったと言ってもいい。来年の夏に行われるインカレまでこのままコンディションを整えていけば、間違いなく洋南大学にとっての脅威の一人になるだろう。
(気にしすぎだったか……?)
 珍しく今回は勘が外れたのかもしれない。それに新開本人が元気だと言っている以上、荒北だけが気にし続けても仕方がない。「まァいっか」と楽観的に呟いて背後に敷かれている布団の上に寝転がった。ホッとする新開の匂いと布団の柔らかさ。それらが相まって、とろとろした眠気が襲ってきた。浴室から聞こえてくるシャワーの音はまだ止まない。少しだけ、ほんの少しだけと自分に言い聞かせて目を閉じた。
 
「……とも、靖友」
 揺すられる感覚があった。ほのかに甘い匂いが漂っている。シャンプーでもない、ボディソープでもない、新開の香水の匂いでもない。どこかで嗅いだ覚えはあるが思い出しそうで思い出せない。
(なんだっけ……)
 答えが出てこないもどかしさが意識をゆっくり覚醒させていく。ぼやけた視界が鮮明になってくると、自分を見下ろしている新開と目が合った。
「……あー、ワリィ。カンペキ寝てた」
「寝るなら布団の中でな。風邪引いちまうぜ」
「んー……いや、まだ寝ねェから。お前が来るまでって、ちょっと横んなってただけェ」
「そう? 眠いならいいんだぜ?」
 気遣う言葉を紡ぎつつも厚ぼったい唇が下りてくる。荒北も手を伸ばして新開を引き寄せ、「する」の意思表示を込めて積極的に組み敷かれた。
 レース後の余韻とはまた違う種類の興奮が身を包んでいく。
 唇が重なって肌が触れ、呼吸が混じり、体温が溶けていく。暖まった室温が身体をさらに火照らせ、電気を消すのも忘れるほど夢中になって痴態を晒し合う。
 身体の奥深くまで新開を受け入れる中、ふと、荒北は例の甘い匂いを嗅ぎとった。
「……お前、なんか匂い変えたァ?」
「え? 匂い?」
「洗剤とか、そういうの」
「いや? とくには」
 なんで、と問いかける新開が返事を聞く前に抽挿のスピードを上げた。
「アッ……!? ハァ、あ、待っ…………ッ!」
 刺激に本弄されて答えようにも答えられない。荒北の頭の中に匂いのことはすでになかった。
 

3.
 1戦目の翌週に2戦目、その翌週に3戦目とレースが続き、そのたびに新開と顔を合わせたが彼の顔色は相変わらず良くなかった。隈はより濃く、頬にはうっすらと影が差し、厚い唇が乾燥してかさついている。
「おいおい、どんどん酷くなってんじゃねーか。5日くらい寝てねーって顔だぞ。ホントはどっか具合ワリィんじゃねーだろーなァ」
「大丈夫だって。問題ない」
「はぁ? どこがだよ。お前、自分の顔ちゃんと見てるか?」
「見てるさ。けど、本当に何でもないんだ。怪我もしてないし、風邪も引いてない」
 見てくれとばかりに新開が両手を広げる。それでも荒北は疑いの目を向け続け、その視線に観念したのか新開は「最近ちょっと寝不足気味でね。そのせいかもな」とため息混じりに白状した。
「寝不足ゥ? 課題でも終わんねーの? それともバイトのシフト増やしたとかァ?」
「いや、そうじゃなくて……」
 先を言い淀む新開が意図的に視線を外した。腕組みして眉間に皺を寄せ、何か悩むような素振りを見せた後で「茶化さずにちゃんと聞いてくれよな」と念を押す。そして、
「家に何かがいる気がするんだ」
と、神妙な面持ちで話し始めた。
「気配を感じるのは夜中が多いかな。だから寝たふりして待ち伏せしてるんだけど、やっこさんの尻尾がなかなか掴めなくて――
「おいおい、ちょっと待て。待ち伏せだァ? それってまさか人間相手の話じゃねーよな? それとも幽霊とかそういうもんの話ィ? どっちにしろ聞いてねーぞ。なんでもっと早くオレに言わねェんだヨ!?」
「ハハ。質問責めだな」
「はぁ? 笑ってる場合かよ。相手がヒトだったら一大事だぞ。危ねェなんてもんじゃねーだろ」
「悪い悪い。いやあ、相手が何かわからないから寝不足なんだよ。最初は虫かなと思ってさ、殺虫剤を買ったのはいいんだけど家中探しても見つからなくてね。まいったよ」
「まいったって……なァ、気のせいってことはねーの?」
「オレもそう思ったよ。でも気配はするし、他にも匂いとか――
 その時、競技開始15分前を告げるアナウンスが会場に流れた。
「悪い、もう行くよ」
「え。ここでェ!?」
「おめさんも準備しねぇと」
「そりゃそーだけど――
「大丈夫。こっちのことは心配しなくていい。まあ、なんとかなるさ。きっと虫だ」
「虫は見つかんねェんだろ? マジで大丈夫かァ?」
「大丈夫、大丈夫。話してなかったのは悪かったよ。けど、おめさんに余計な心配をかけさせたくないから黙ってたんだ。それじゃあまた後で。今日も勝ちは譲らないからな」
 不敵に笑った新開が荒北の肩をポンと叩く。荒北はその場に立ったまま、自陣へ戻っていく背中をじっと眺め続けた。
「……問題ねェとかよく言うぜ。大ありじゃねーか」
 雲のない青空とは対照的に荒北の心は徐々に曇り始めている。不安を煽るような北風に舌打ちし、鳥肌がたった両腕を強い力でゴシゴシこする。
「寒っ! まだ風やまねーのかよ。いい加減やめっつーの」
 はぁ、と両手に息を吹きかける。何度かそうしていると突然の甘い香りが鼻腔を突いた。いつか嗅いだ匂いによく似ているが今回はあまりにも匂いが濃くて、思わず顔をしかめるほどだった。咄嗟に周りを探してみても匂いの元になりそうなものが見当たらない。
(なっ……なんだ今の? つーかアイツ……さっき『匂い』って言ってなかったか?)
 今度は明早大学のテントに視線を走らせたが、部員たちの中に新開は見えない。荒北は謎の焦燥感に襲われつつ、汗が滲む手のひらをきつく握った。
 
 レース会場での話の続きが気になっていた荒北は、その日のうちに新開に連絡をとった。しかし、何度かけても電話が繋がることはなく、代わりに【ごめん、打ち上げ中。終わったら連絡する】というメッセージが返ってきた。
「……打ち上げしてる場合じゃねーだろ」
 打ち上げに参加する元気があるなら彼はまだ大丈夫――そんな風にポジティブに考えるべきなのだろうか。渋々【了解】とだけ送ったものの、苛立ちが舌打ちとなって表に出る。
 だが、その後いくら待っても新開から連絡が来ることはなかった。
 
*
「ハァ? 体調不良ォ?」
 新開と連絡がつかなくなって3日目。福富に電話をかけた荒北は、新開が寝込んでいるという思いがけない事実を知らされた。
『診断結果はおそらく初期の風邪だろうって話だ』
「おそらく? おそらくってなんだよ」
『身体がダルい以外に目立った症状がないらしい。だからハッキリしないそうだ。まあ、最近の寝不足も祟ったんだろう』
「打ち上げしてたくせにィ!?」
『打ち上げといっても軽く食事をしただけだ。新開も普段通りの量を食べていたと思ったが……もしかしたら無理していたのかもしれない。なんにせよ、回復したら連絡するようオレからも言っておこう』
「おー、助かるぜ。って、福ちゃんは連絡とれてンの?」
『直接家に行ったからな』
「そっか……そんじゃー、ヨロシク」
 電話を終え、ため息をひとつ。無事を確認できたとはいえ、理由を知った割にはスッキリしない。
「……アイツ、結局ダウンしてんじゃねーか」
 血色が悪かった新開の顔を思い浮かべる。会いたくても簡単には会いに行けない。こんな時にこそ物理的な距離の遠さを実感する。
(福ちゃんが連絡とれてんなら、とりあえずは安心か……でも3日間もケータイ見ねェなんてことあるか?)
 荒北は自分だったらを考えてみた。
 携帯電話を忘れても気にならないし、眠い時には適当に放り投げて朝まで見ないなんてこともザラにある。体調が悪ければ何日間でも触らないままというのも、案外あり得るかもしれない。
 携帯電話に目線を落としてメッセージ画面を開く。【はやく治せよ】と送った後で【今はゆっくり寝ろ】と付け足した。
「なんか矛盾してる気もすんなァ」
 フンッと鼻で笑ってメッセージを閉じる。今はただ待つしかない。
 

-ペダル:新荒
-,

int(1) int(2)